三月二八日(木) 朝四時
姉はデートに備えてシャワーを浴び髪を乾かしていた。時計を見るともう四時半を過ぎようとしていた。姉は朦朧とする頭で昨日と今日にかけてやったことを考えた。服を買って、風呂に入っただけだ。急な焦りが胃から口に這い上がってきた。
朝のちゅんちゅんという小鳥の鳴き声は焦りを加速させる。まるで「私たちはこんなに一生懸命に鳴いているのよ?あなたは?ねえあなたは?」と急かされているような気になる。人だって一生懸命に泣いているし、生きている。だけどそれだけでは誰も評価してくれない。どんな人だって鳴くだけで、飛ぶだけで、交尾するだけで、食べるだけで後は死ねたら楽だろうなと思っている。でも思うだけで、思考と現実はよく食い違うこともよく分かっている。人は評価されなくてはならない。評価されるためには何かを諦め無くてはならない。生まれ落ちた時、自由があっても、それはどこかで捨て無くてはならない。選ばなかった人生への想像力が内側から人を苦しめる。
まだ化粧をするには早い。姉は民法の本を読んで勉強することにした。きちんと勉強する気になれない。後六時間もすれば、頭の中など、ほぼ全く評価されない世界、つまりデートに行かなくてはならないからだ。女が同時履行の抗弁を知っていようが取得時効と即時取得の違いを説明できようが、そんなことは男と女という関係性を向上させる上でなんの役にも立たない。むしろ関係を後退させるような気さえする。女はただ可愛いふりをしてかわいい服を着て「カワイイー」という五音節を発すれば価値の向上を図れる世界で闘わなくてはならない。
民法の本には面白いことが書いてあった。
「『司法試験に受かったら結婚しよう』と約束した青年と、若い女。青年は司法試験に受かった。女は男が司法試験に受かるまで、待っていた。しかし、青年は司法試験に受かったあと、他の女に目移りして、ずっと男を待っていた女を置いて、先に結婚してしまった。女は泣き寝入りするしかないのか?これについて法的に考えていきたいと思います。まず…」
しかし、本はあまり集中して読めなかった。そのうちスマートフォンのアラームがけたたましくなって、姉の集中力を妨害した。八時だ。化粧を始めなくては。