三月三一日(日)一八時四二分
女が自分のブラジャーのホックを外されようとしていることに気がつくまで、時間はかからなかった。女は狂ったように暴れ始めた。床に刺さった包丁を抜こうとしたが、さっき勢い良く刺してしまったせいでびくともしない。
姉は女の下着のホックを外すと、さっとそれを奪い取った。女がパッドに噛み付いた。その時、姉はパッドとブラジャーの間になにか紙のようなものが挟まっているのが見えた。
姉が思い切り引っ張ると、女が加えたパッドがぶちり、という音を立ててブラジャーから外れた。紙はブラジャーの側についた薄いポケットに差しこむようにして入れてあった。
女が狂ったような声を上げて姉のブラジャーを持った左手を押さえつけようとした。
姉の右手がガスコンロに火をつけた。
女はそれに気がついたが、もう遅かった。ブラジャーは姉の左手を離れて、火のついたコンロにぽん、と落ちた。女はブラジャーを素手で取ろうとして、化け物のような悲鳴を上げた。女の手は一瞬で真っ赤になっていた。
姉は女を思い切り包丁の方に突き飛ばした。女は転がった。姉はコンロの右側にある揚げ物油を勢い良くブラジャーにかけた。ブラジャーが凄まじい勢いでオレンジ色の炎に包まれた。
女は床に転がって、燃える炎を呆然と見ていた。
妹はこんなに燃える炎を始めてみた。炎というのはもっとおとなしく、ろうそくやガスバーナーのように細長いものにまるで繋がれているかのごとく、ゆらゆらとしているものかと思っていた。しかし違った。姉のすぐ後ろで女の下着を燃やし尽くした火は生き物のように台所の壁紙を這い、コンロを取り囲むようにどんどん手足を伸ばし成長していた。
姉はブラジャーが完全に灰になるまで、コンロの前で大きく燃え盛る炎を見つめていた。
女が姉の足にすがってきた。
「あんた、こんなことして、ヒドイと思わないの?ねえ?」
姉は女を見た。女の顔は化粧が取れ、髪は乱れ、シワがあらわになっていた。四〇歳の顔だった。いや、シワの動く、シワ人形のようだった。ほうれい線と眉間の皺が独立して表情を作っているように見えた。
「あたしはあんたのオットさんのお金だけで今までずっと生きてきたのよ?ねえ?自分がちょっとお金持ちの家に生まれたからってあたしとは違うと思ってんでしょ!ねえ!」
姉は目を細めた。これは姉が悩むときにする表情だった。
「ねえ!あんたってばあたしが自分の下にいると思ってっからこんなことするんでしょ!売女はどうなってもいいとか思ってるから平気でこんなことするんでしょ!あたいだって一生懸命生きてきたのに!」
誰かの幸せは誰かの不幸の上にあるのだ、と姉はその時思った
それは当たり前のことだ、と妹はつぶやく。ただそれはあまり気分の良いことではない。姉は姉の胸がきゅっと苦しくなったのを感じた。その当たり前のことを姉は考えすぎているんだ、と思った。妹の耳元でピシピシピシという音がした。
その時、姉の視界が真っ白になった。
妹は目を開けた。目の前に不気味な男が立っている。
お姉ちゃんは私と大して変わらない人間であるということを無視して私は生きてきたのだ、と妹は悟った。お姉ちゃんは今までずっと私より大きくなろうとしてきた。涙も見せないようにしてきた。人の世話をすることで、愛を与えることでいつか自分にも愛が得られると信じて生きてきた。そうしないと失うものが大きすぎて悲しすぎるからそうやって信じて生きてきた。ほとんど信仰のようにして生きてきた。でもそれは事実ではないから何度も裏切られてそれでも今も与えることで愛が得られると思って生きている。今だって、司法試験に受かれば、私に愛されて、父の浮気を止めれば私が幸せになると思っている。
お姉ちゃんはとても馬鹿だ。お姉ちゃんが馬鹿であることを無視して私は生きてきた。お姉ちゃんがくれたものを今までずっと、ケーキも大学の推薦も、みんな私がお姉ちゃんの苦しみを見ないふりをしてもらってきた。誰かの幸せは誰かの不幸の上にある。私の幸せも姉の不幸の上にある。私は自分の足場なんかに目も向けない。
汚いのは私だね、お姉ちゃん。
黒い水晶が割れた。
無数のガラスがこすり合わさるような凄まじい音と台風のような轟音とともに妹の周りの世界が黒い水晶に吸い込まれていくのを感じた。妹は膝の上に載せたピンク色の水晶を守るように抱き込んだ。
「時折私に勝利していく人がいますが。」
男は周りの世界とともに割れた黒い水晶の中心の位置にある、底の見えない点に吸い込まれつつあった。しかし男は自分の体の形が歪んでいくのも全く気にしないかのように、平然としゃべり続けた。
「私どもは一人ではありません。そして賭けに負けても私どもはいつもどおりの業務に戻るだけです。」
妹は聞いているのか聞いていないのか分からない。黒い点が吸い込む風は勢いを増して、妹は抱えたピンクの水晶を抱え込むだけですべての力を使っているように見えた。男はもう体の左半分がほとんど霧のようになって、形が見えなかった。
「私どもがこのように賭けに負けてもなんの差し障りもないということは、この選択は厳密には賭けではないのです。この機会はただあなた達にとってピンチでもあり、チャンスでもある。」
男の右足の付け根がきりのようになって黒い点に吸い込まれていく。妹はただピンクの水晶を抱え、膝に顔を埋める恰好で吸い込まれないように、耐えていた。
「たいていの人間は失敗していきますがね。」
男はもう顔の半分しかほとんど残っていない。男の声とガラスを削るような轟音だけが、黒い点の浮かぶ白い部屋に響いていた。
「結局はあなた方がどう思うかですよ。生きるというのはそういうことだ。」
男はいつの間にか消えていた。妹は両手に抱えた水晶が知らぬ間にとてつもなく熱くなっているのに気づいた。水晶の中を覗きこむと炎のような光が見えた。こんなに近くで炎を見るのは初めてだった。炎の中ではたくさんの光の点が、集まっては離れ、またくっついては離れして、踊るように動いていた。
炎が突然、真っ白に光り、妹は眩しさのあまり思わず目を閉じた。




