三月三一日(日)一八時三〇分
姉は女の前髪から手を離した。
そして父をまっすぐに見つめた。女は勝利の薄ら笑いを浮かべていた。二〇年間女が父に施していた性的な洗脳を思うと姉はただでさえ吐きそうな気分なのが現実の嘔吐に変わりそうだった。姉は頭を働かせた。何としてもこの女に勝たなくてはならない気がした。父がこの女に求めていたものはなんだろう。父が目をそらして生きてきたものはなんだろう。
姉はゆっくりと、服を脱ぎ始めた。うでをクロスして、上半身の破れて汚れたニットとシャツを一緒に脱いだ。姉の白いレースの着いた胸元が顕になった。
父は姉がやりはじめことを見つめ、固まった。女は顔から笑いを消した。
姉は続いてスカートの後ろのチャックを下げた。スカートは床に落ちて、椿の花のようにぼたりと下に落ちた。白いレースの下着が顕になった。
父は夕日に照らされた娘の体を見つめていた。
娘の手足は痩せていた。ほっそりとした首と腰が乳房と尻のまるさを際立たせていた。白い鎖骨が夕日に反射して、ほっそりと浮き出ていた。
娘の体はまるで美しい女のようだった。
そして娘の目はよく見たことのある目だった。それは父の母の目によく似ていた。
父は床にころがる女を見た。切り裂かれた安っぽい服を身にまとい、くろぐろと囲んだ目で娘を見ていた。口元が歪んでいた。それから父は娘を見た。
姉は父をまっすぐ見つめて言った。
「お父さんは私にも欲情するの?」
父の中でなにかが壊れた。
母の握っている水晶が音をたてて半分に割れるのと、男が持っている黒い水晶がばきん!と言って粉々に散ったのはほとんど同時だった。
「これはどうしましょうかね」
男は母に向かって言った。
母は今見たことが信じられなかった。娘が女のような体つきをしていた。のみならず、女のような事をして、そして父の心を砕いた。母は父という男を信頼することはもはやできなかった。娘にそんなことまでさせる父親をパパと呼ぶのはもう、無理だった。しかしそのおかげで父は最後の最後で今まで自分がやってきたことに気がついたのだ。これは私の勝ちではないけれど、娘の勝ちだ、と母は思った。
「私が勝ったに決まってるでしょう。」
母は震える声で男に言った。
「そんな顔をされてもあなたの水晶も割れていますよ。」
男は口の端を歪めて吐き捨てた。男の目頭が小刻みに震えているのが見えた。母はそれを見て、自分の勝ちを確信した。
「ええ。でも私の水晶は割れたけどまだ、半分残ってるわ。あなたのは。」
そう言って母は男の手元を見た。バラバラになった黒い水晶が黒い霧のようになって、男を手から飲み込みつつあった。
男は吐き捨てるように叫びながら、空中に浮かぶ黒い霧に飲み込まれていった。
「貴様はこの勝負で勝ったた気になっているんだろう。人生がこれでずっと安泰だとおもっているんだろう。それが人間が馬鹿である所以だ。得ようと思って手に入る愛なんてない。世界はお前の気持ちなんぞ無視して回るぞ。私がいなくなっても!」
母は半分になった水晶を右手と左手に持って、そしてそれぞれを左右のエプロンのポケットに入れた。
「そうね。パパに一番好きになってもらうのは無理だって、この歳になってようやく分かったわ。」
男は黒い霧についに完全に飲み込まれた。そして黒い霧は空気にすいこまれるように、スッと、消えた。
「でも私には娘がいるから。私は母親で、彼は父親なの。彼はそれを理解したのよ。」
母は笑った。
そして、母が目を閉じて、目を開けると、いつも通り、昼寝の姿勢で床に寝ていた。時計は七時を指していた。一時間も寝ていたのだ。
エプロンの右ポケットに入れた覚えのない何かが入っているのを感じた。写真だった。父と母が初めてピクニックをした時の写真だった。
おにぎりいっぱい作ったのはいいけれど、バスケットがないのを思い出して、慌てて買いに行ったんだっけ。お洋服も、ただ公園に行くだけなのに、あの時持ってた一番高いワンピースを着ていったのよねえ。あの人、フリスビーは下手くそだったけど、どうしてだかわからないけれどこの人かっこいい、って思ったのよね
母の目に涙が浮かんだ。しかし涙は目からこぼれ落ちることはなく、母が次に瞬きした時、その目はただきらきらと澄んでいるだけだった。母は立ち上がって、妹の看病に行くことにした。




