三月三一日(日)一七時三〇分
歩いて行くには、その場所は遠かった。病院の前にいるタクシーを捕まえて、住所を言うと、運転手は一五分くらいで着きます、と言った。姉の目が真っ赤なのを見て、運転手は不幸があったに違いないと思ったらしく、姉が降りるときに『ご愁傷さまです』と言った。
姉は家の前まで来て、立ちすくんだ。
何も持ってきていなかった。そもそも、父がやましいことをしている確証もなかった。玄関から入るべきなのだろうか?しかしここは誰の家だろう。えらく庭の広い家だった。それでいて、建物自体はかなり古い建物のようだった。姉は建物の周りを一周することにした。
建物は未だ夕日があるというのに、大きな窓にはほとんど雨戸が閉められていた。一箇所だけ雨戸が空いている窓はすりガラスで、中身が見えないようになっていた。家族で暮らすには狭そうだが、大人が二人住むには十分なくらいの家だった。姉は玄関のちょうど右側に、細い飾り窓のような窓があるのを見つけた。姉は石に登って覗きこんだ。
女は和室のような部屋で父に茶を入れていた。
「もう来てくれないかと思ったから、嬉しいわ。」
父は女の色っぽい声を硬い顔で聞いていた。
「今日はけじめをつけに来たんだ。」
父は固まったような顔でほとんど口だけ動かしながら言った。
「あら。そうなのね。」女は値踏みするように、父を見た。
姉は中の二人がなんと言っているか聞こえなかった。しかし、女の目が色っぽいことと、父の顔が固くこわばっている事は分かった。恐れていることが起こりつつあった。
ぐらり、と足元が揺れて、飾り窓を覗きこむために乗っていた石が動いた。姉は慌てて飛び退いた。石の動いた後に穴があった。
妹は姉を馬鹿じゃないかと思って見ていた。正面から、インターホンを押して入ればいいのに!姉は庭の石をどかして床下に入ろうとしている。
父がもしも、と姉は思っていた。今日を機に女との関係にけりをつける気でいるなら、このまま話を聞いて帰ろう。父は家ではずっといい父だった。姉は自分の正義ぶった思いつきで今まで父が何年も築いてきたものを壊すのは嫌だった。
妹には良い父親と、良い母親を持った心の綺麗な医学生として進学して欲しい。私のことを汚いというのなら。私には叱ってくれる人が必要だ。だから妹は綺麗でなくてはダメなのだ。私が選ばなかった綺麗な人生を綺麗に生き抜く妹が私には必要だ。姉は床に腹をくっつけ、息を大きく吸い、床下に頭から入っていった。
暫く進むと、和室の声がよく聞こえるようになった。女のもぞもぞと畳を擦って進む音が真上から聞こえてきた。
女は父に抱きついたようだった。
「ねえ、あなたの幸せって、なあに?」
父は動かない。
「この紙、裁判所に持っていけば、」
ギシ、と床が音を立てた。女が父の膝に乗ったに違いなかった。
父の首に手を回した。包装紙のようなサラサラとした手触りのドレスが父の手に触れた。
「二〇年間、正式に内縁の妻だったってことで認められると思うわ。不倫ね。」
姉は腹がたった。そんな馬鹿な書類を父が書くはずがない。だが父の声は聞こえなかった。女が父に甘くなにか囁く声だけが聞こえる。姉は床を進んでいった。どこからか中に入らなくてはまずいと必死に考えた。床下は予想より乾燥していた。これだけ床下が広いなら、どこかから上から床下に入れる扉のようなものがあるはずと考えて勝手に潜り込んだのはいいが、どうにもだんだん気分が悪くなってきた。床下に撒いてあった虫駆除の薬でも吸ってしまったのだろうか。下を向いているのに、吐き気がこみ上げてきた。しかし吐けば当然、悲惨なことになる。
妹は思わず、目を開けた。あまりにも気分が悪かった。目を開けた瞬間、白い壁の部屋の空気が喉にサーッと流れ込み、妹の吐き気は最初からなかったかのように、引いていった。息が荒い。父が家に居ないときに何をしているかなど、妹は知りたくなかった。なんとなく、わかってはいた。だが、きっといつかなんとかなるだろうと思っていた。誰かなんとかするだろうと思っていた。
確かに誰かが事を動かしつつある。姉が何かをしつつある。
姉が床下に入って父の浮気を突き止めた、と話に聞けば、妹は間違いなくふうん、と言っただろう。それ以上のことは思い浮かびもしない。ただなぜ玄関から普通に入らなかったのだ?馬鹿だなあ。と思うだけだ。
しかし今、現実に妹は姉の体で起きたことを体感した。喉が痛かった。吐きそうだった。心も裂けそうだった。姉がこんなに必死に事を動かしているとは妹は知らなかった。いや、知っていたが、知らないふりをしていた。妹には綺麗で居て欲しい、だって。お姉ちゃんは馬鹿じゃないの?どうしてそんなことを思うの?
男が盆に載せた黒い水晶と、妹が握るピンク色の水晶がキキキ、と耳障りな音をたててまた小さなヒビを入れた。妹は見届ける覚悟をした。息を止め、目をおもいっきり閉じると、また恐ろしいめまいと吐き気が同時に妹を襲った。




