三月三〇日(土) 午後四時
姉と男は今日、出雲市に泊まるつもりだった。男は明日、サンライズ出雲に乗って東京に帰るらしい。川跡駅で乗り換えているあたりで、男の妹から電話がかかってきた。男の妹はけろりと目を覚ましたそうだ。その長電話のお陰で姉は電車を一本見送った。男は自分が祈った効果で妹が眠りから覚めたことで上機嫌だった。夕飯を姉に奢った。
ホテルは安いビジネスホテルのツインを予約していた。出雲は温泉が有名だとホテルマンが親切にも二人に言ったので、二人は駅の裏の日帰り温泉まで行った。姉は長風呂が好きだということを男はよく知っていた。だから男が先に部屋に帰っているだろうということも姉は分かっていた。
姉がホテルに帰ると、男は既に眠っていた。姉は眠る男の横顔をしばらく見つめ、少しキスしようかと思ったが、やめた。全ての幸せは誰かの不幸の上にあるということを姉はよく分かっていた。姉が興味本位でキスすることによって誰かが不幸になるなら、そんなことはするべきではない。
感謝してる。友達でいて。
それは男の必死の願いに違いなかった。この男は私に欲情できなくなったけれど、私の事を嫌いになったわけではないのだ。だから別れも私に言わせたかった。
そんな願い、叶わないよ。と姉は叫びだしたかった。だが姉はこの男が好きだった。ものぐさだが優しいところが好きだった。メガネをかけすぎて寝る前に鼻パットの跡が顔に付いているところも好きだった。
だからお前の願いも叶えてやるよ、と姉は眠っている男の横顔にささやいた。まだ世界は私がお前を男として好きであるように仕向けてくるけれども、きっといつか私は女でなくなり、お前も男でなくなる日が来るだろう。全て乗り越える日が来るだろう。
その時またお前に会ってやるよ。友達としてお前の成功も結婚も、全部心から祝ってやるよ。
姉は隣のベットに横たわると、音が出ないように、涙だけ流した。目頭から胃の奥に向かって、体の内側を大量の熱い涙が流れていくのを妹は感じた。




