三月二九日(金)深夜一一時五八分
母は相変わらず妹の横にいた。
見かねた看護婦が母のために簡易ベッドのような、小さい椅子のような鉄のパイプと薄いクッションでできた何かを持ってきていた。母はそれに横たわって、妹と、その向こう側にある窓と、その向こうにある桜の木と月を見つめていた。桜の花びらは月明かりを透かし、病室に桃色の光を入れていた。病室の床で枝の影がゆらゆらと揺れた。
父は今日も「会議」だった。「会議」が佳境を迎えていることは母もなんとなく分かっていた。かと言って、母にできることは祈ること、これしかなかった。
さっき姉の方の娘から、明後日実家に帰るという電話があった。その前に寝台列車に乗って出雲大社に祈ってくるそうだ。
神なんているのだろうか。母にとって生きる支え、それは娘だった。姉を身に宿して、父と結婚し、それ以来ずっと、娘のためだけを思って生きてきた。父が自分で会社を立ち上げる時、母は慣れない会計の本を読み、使ったことのないパソコンで会計ソフトと格闘し、従業員を全員一人で面接した。忙しかった。辛かった。その度に子供二人の顔が浮かんだ。二人の顔を見ると全てが報われるような気がした。それはもう殆ど信仰だった。
しかし、母は悪魔がいることは知っていた。母は毎夜、夢を見る度にそいつと戦っているのだった。そいつとの戦いも、そろそろ佳境を迎えつつある事を母は悟った。
母は月を見て、妹の顔を見て、目を閉じた。二〇年間、毎晩襲ってくる急速な眠りと、暗い床への落下が始まった。




