三月二九日(金)夜九時四五分
姉は少し寄り道をした後に実家に帰ることに決めた。
姉はまた東京駅に来ていた。先週も来たが、デート用の衣装を着てハンカチと財布しか入っていないポーチを抱えてくるのと、トランクを抱えてスニーカーでくるのとでは見える景色が全然違った。
姉はこの世に神様がいるのかどうか考えた。妹が倒れてからここ二日、よく考えることだった。西洋では神様は人間が目指すべき絶対的なものとされるらしい。自分を超えた素晴らしい存在がいるとしよう。全能で、美しい。それはここに居ないけれど、その理想の形について私達人間は思い描くことができる。思い描くということは、きっとどこかにそんな神がいるにちがいない。という発想らしい。姉にはよくわからない。
もう三月だというのに、平日の夜九時の東京駅は灰色や黒のスーツを着て暗い顔をした男でいっぱいだった。みんな家族があり、仕事があり、それぞれの幸せがある。楽しいこともあれば、辛い日もあるだろう。そんな時、神を思い浮かべる人がいれば仏を思い浮かべる人もいるし、もっと他の偉い人を思い浮かべる人もいるだろう。自分のおばあちゃんや息子を思い浮かべる人もいるはずだ。結局神なんて、と姉は思った。人が生きていくためのガソリンみたいなもので、ありさえすれば形式や設定はどうだっていいのだ。
「やあ、おまたせ。」
男がやってきた。大学に行くときのリュックが一つという、相変わらずの軽装だった。
「東京駅に来る時くらい、化粧したら?」
男はあいも変わらず姉にダメ出しをする。先週のデートの時にはきちんと化粧していたのに、今日姉が化粧をしないのには二つ理由があった。一つはこの男はもうただの友達なのだというけじめを付けるため、もうひとつはあと一時間で出雲行きの寝台列車に乗るのに、落とすのが面倒だったからである。
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少女は妹の隣で、勝手に喋り始めた。
「私ね、お兄ちゃんについて賭けをしたのよ。」
目の前にたつ男の方に目をやると、男は口角を上げて、頷いた。なるほど、この賭けは私だけでなく、他の人にもよくあることなのか、と妹は納得した。しかし何のために?この男は誰だろう。
少女は妹の思いなど気にも掛けず、独り言を言うように、しかし妹のほうを向いて喋り続ける。
「私ね、今年大学生になるんだけどね、お兄ちゃんが好きなの。」
妹はその言葉をしばらく考えたが、少女が大学生になることと、少女が兄を好きなことの間になんの関係も見出せなかった。
「だからね、悩んでいたの。そしたらこの男が夢に出てきたの。」
なるほど、この男は悩んでいる人間に取り付く悪魔かもしれない、と妹は思った。男のほうを見ると、男は小首をかしげて、なんですかというふうに薄ら笑いで妹をまっすぐ見返してきた。
「これで諦めがつくかなって。」
少女は熱に浮かされたように、妹に向かって喋っていた。
「何を賭けたの?」
妹はあまり乗り気ではなかったが、自分と同じような境遇に陥った人間が何を願うのかには興味が少し湧いた。
「手紙を残してきたの。」
少女ピンクの水晶を膝と両手の間にぎゅっと抱き込んで言った。
「私がずっと行きたかったところに行って、私のために祈ってくださいって。そしたら目が覚めますって。」
妹はそれを聞いて疑問に思った。そもそもこの夢を見ることを見越して手紙を残すことなどできたのか?男は私にはそんなことは言わなかった。あっち側の世界に残るものに賭けに勝つための条件をほのめかすなんて、私とこの少女ではだいぶん不公平じゃないか?
「でもあなたのお兄ちゃん、私のお姉ちゃんの話を聞く限り、そんな非現実的な手紙の内容を信じてくれるとは思えないけど。」
妹は少しイジワルなことを言った。妹は昔からこういう、人の心の鎧から除く生の脇腹を無意識に鋭利な針で突くのが得意だった。
しかし少女はひるまなかった。
「そう。行ってくれないと思ったの。だからピンクの水晶を持っているじゃない。」
なるほど、この女は手紙を読んで、兄が出雲大社に 行かない方にピンクの水晶をかけたのだ、と妹は思った。きっとこの男は賭けに不利な運びになるような行動は許可するのだ。
「でも今、行きつつあるわよ?」
妹は言ってから少し狼狽えた。妹も少女も、妹の姉と少女の兄が祈るべき場所に行きつつあることが分かっていた。妹はもしや、と思った。私は自分の賭けの決着が付く前に賭けに負けるとどうなるか、見せつけられるのか?
妹ははっとした。もしかして、男がこの空間に少女を呼んだのは、私に少女が賭けに負けて悲惨な姿になるところを見せつけて私を弱気にさせるためじゃないか?
男は相変わらず薄ら笑いを浮かべて、妹と少女を交互に見つめていた。妹は水晶を少女と同じように、しかし少女より強く、ぐっと膝と両腕の間に抱き込み、強く目を瞑った。




