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三月二九日(金)夜一時二〇分


姉の元彼は驚くほど冷たかった。こんなに冷たかったか?しかしひとしきり泣いて、涙は止まってきた。冷静になってみると、妹が寝ているだけならそんなに辛くもないのではないかという気もしてきた。死んだわけでもあるまいし。妹は今まで一八年間ずっと簡単に生きてきたのだ。それくらいの罰を神が与えようととっさに思いついても何ら不思議ではない。姉は神なんか信じてないにも関わらずそう思った。

そして妹をだしにして自分が元彼に電話をかけたという事実に戦慄した。泣きながら電話をかけるなんて、きっと嫌がられてしまっただろうと計画不足を後悔すると共に、とっさに自分がこんな女みたいな行動を取るのかと思って呆れた。

姉に中には、自分が二人いる。一人は極めて理性的で、時々死にたくなる真面目な男のような自分。もう一人は極めて本能的で自分勝手な女のような自分。女は男の行動の分析を無意味だと笑い飛ばし、男は女の行動を計算づくで汚いと蔑む。

今の自分は無意味な分析をしている上に汚い。

こういう思いに駆られた時は寝るしかない。遅くまで起きていて、頭も痛かった。姉は寝ることにした。

姉は少し興奮していた。布団に入ってから、眠るまでの時間がやけに長い。


今が思い出となり私は思い出を土足で踏みつけて生きている。昔の自分を土足で踏みつけて歩いてゆく。それを進歩と呼ぶ。失っている思い出は美しく見える。選ばなかった人生について考える時選んだ人生の脇道に転がるものが汚く見える。汚いものを汚いと思える自分を誇らしく思うことでしか前に進めない。私は自分に悪態をつきながら振り向けないように突っ走って生きていく。

昔妹にケーキを半分上げた時のことを思い出した。半分のケーキを食べるより妹がありがとうと言ってくれる事を求めた。

母に「いい子」ね、と褒められたかったから、という思惑もあった。だがそのうち本当にケーキの半分より妹と笑って話せることに幸せを感じるようになっていった。

それは前の男との関係でもなんら変わりなかった。料理を作って自分の勉強する時間が減ろうとも、男が笑って今日の君の作る夕飯が美味しいと言ってくれることを求めた。それで愛してもらえると信じていた。でも男は結局、男に料理も作ったことのない、実家通いの、私立文系に通うお嬢様の方を愛してしまった。

ケーキは金で変える。お弁当も金で買える。でも私を求めてくれる人を金で買うことはできない。

私の優しさと、私は違うのか?優しい私は私ではないのか?どうしてあの男は私を離れていってしまったのだ?どうして妹は私を汚いなんて言うの?

あの笑顔は何だったの?ケーキが欲しかったから笑ったの?夕御飯を彼女に作ってもらえたら便利だから?

私はただ笑って欲しかったんじゃないよ。どうしていなくなってしまうのよ。愛して欲しかったのよ。それともそんなことで愛が手に入ると思っている私は何かが足りないの?

何が足りないんだ?そもそも愛ってなんだ?

姉はここまでベッドの中で考えて、いつの間にか眠った。


____________________________________________________


妹がいる空間は時間が止まってしまい、時がわからない。

しかし妹はこの部屋の中に居ると、姉の様子が手に取るように分かった。

というのも、目をとじると、姉の中に入って姉になったような感覚を味わえることに気がついたからだ。姉の感じること、考えること、それらが言葉ではなく同じように妹の体に起った。妹は体操座りをして、膝と両腕の間に水晶を抱え込んでいた。

姉が寝る前にものを考える時、妹は目を閉じると目の裏側から喉の奥、そして胃のあたりが熱くなっていくのを感じた。まるで体の内側で涙を流しているようだった。妹は初めての感覚に驚いた。姉は泣きそうだが泣けない時、いつもこうして涙を体の内側で流していたに違いない、と妹は思った。妹は目が熱くなった時点で涙をながすようにしていたので、体の内側を涙が流れていくことなど今まで知らなかった。そしてなぜ普通に泣かないんだろう、と思った。

姉は考え過ぎだ、と妹は思った。ケーキがそんなに食べたかったなら食べればよかったのに。妹は姉にそんな負担を強いてまで自分がいい思いをすることは昔から望んでいなかった。それはただの自己満足じゃないの?いい姉である自分が好きだったんでしょ?

妹の抱える水晶に内側から、ピキリとヒビが入るのが聴こえた。


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