三月二九日(金)夜一時一二分
男が居た。男はスーパーに居た。男はこの時間帯にスーパーで買い物をすることが多かった。特売の品が翌日の入荷に備えてさらに半額以下になるのだ。それは昔付き合っていた女が教えてくれたことだった。
さてところで人生には、関係あることと、関係ないことがある。関係あることというのは、例えば今日の夜食のもやしを三八円のパックにするか、それとも四二円のパックにするかということであり、関係ないことというのは昔付き合っていた女の妹が倒れたとかそういうことだ。
男は今まさに関係ないことで自分の人生を乱されつつあった。
「なんだよ?」
昔付き合った女が電話口で泣いている。こんな時間に突然かかってきた電話なんて、と男は思った。でなければ良かったなあ。昔、確かに男はただのクラスメートである女のことを好きだった。愛していると思った日さえあった。だからただのクラスメートから恋人になった。
だがある日、何かのきっかけで、男は女に欲情できなくなった。それはあくびだったかもしれないし、女が笑いすぎたせいかもしれないし、マスカラを塗る顔がグロテスクだったからかもしれなかった。男はその辺りは自分でもよく分からなかった。その日から男には女が妹のように見えた。そして他の女がより女らしく見えるようになった。女のほうから別れを告げられ、男はホッとすると同時に寂しく思った。こいつが男だったら良かったのに、と男はその時思ったものだった。
しかし油断していた。こいつはすぐに泣くのだ。もちろんしくしくという可愛らしいものではない。半分叫ぶような、ヒステリーな女によくある鳴き声だ。この女は半分男のようで、でも半分女の部分を持っている。その女の部分がいつも俺との関係を狂わせる。
嗚咽の合間を縫って発せられる人間らしい言葉を追っていくと要するに、女の妹が大学入学一週間前に倒れ、しかも原因不明で、目を覚まさないという事らしかった。男は三八円の方のもやしを籠にいれながら、少し気の毒に思った。男の妹も来週入学式なのを思い出した。だからといって、そんなに泣かれても困る。
男は友達がいると言って、とりあえず電話を切った。友達というのは買い物カゴの中のもやしのことだが、とりあえず、うるさかったので電話を切りたかった。
男は次に生姜焼きの豚肉を買うところへ向かった。




