プロローグ 復讐劇の開幕
「……兄様、兄様っ」
ぐいぐい、と身体を揺すられる兄様と呼ばれる男。
彼の名前はヴィノア、ヴィノア・セルスタシオン。
彼を評する言葉は幾らかあるが、取り分けピックアップするなら《怠惰》の一言に尽きる。
仕事らしい仕事もせず、日がな一日ぐーたらと食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返す。その代わりと言わんばかりに家事やら何やら全てを取り仕切るのが現在進行形で、兄であるヴィノアを揺り起こしている妹のレスティアだ。献身的で生真面目な性格、才色兼備を地で行く天才少女である。
レスティアの揺さぶり攻撃は効果があったらしく、寝ぼけ眼でヴィノアが起き上がった。
「……うぅん、今何時」
「朝の九時ですよ、兄様。何時まで寝るつもりですか」
「……まだ九時じゃん」
「もう、九時ですっ!」
もう、の所を強調して告げた レスティアは嘆息した。
未だ惰眠を貪ろうと考えているヴィノアは、それらしい言い訳を考える。
だが、起床直後故に脳の回転数が上がっておらず、言葉は泡のようにふわふわと浮いては沈む。
「早くしないと、遅れてしまいますよ」
「あぁー……なんだっけ」
「…ご自分の右手を見ては如何ですか」
そう言われたヴィノアは右手を見やって、あぁ、と小さく納得の声を上げた。
右手には天使の翼を隣り合わせに描いたような紋章が浮かび上がっている。
「…勇者式典か。えーっと、俺らは四代目、なんだっけ」
「兄様、取り敢えず顔を洗ってくるべきです。頭を冷やす事から始めましょう」
冷静に告げられて、ヴィノアは気のない返事をしつつ階下へと下っていく。
勇者式典。
それはかつて三度に渡って行われた、勇者を選定する儀式。選ばれた者は右手に自由を意味する天使の翼に似た紋章が浮かび上がる。選ばれた七名の勇者は、《魔王》と呼ばれた一人の人間をその手で殺す事を命じられるのだ。ただ、三度に渡って行われた勇者式典、結果《魔王》を殺めるには至らず、現在封印を解除して、目を醒ましたという情報が入った頃合である。
選ばれた者。選ばれし者。
他人より崇め奉られながら、その実最も辛い選択肢を常に己の信念で選び抜く者。
「(……兄様は、ちゃんと耐えられるのでしょうか)」
しかし、レスティアの懸念、もしくは心配と言うべきそれは、そこではなかった。
セルスタシオン。
それは、滅亡した《錬金術の民》が背負いし怨恨の名前。
レスティアとヴィノアは、その生き残り、末裔なのである。
そして、勇者七名と魔王との直接対決、通称《魔王戦争》が今火蓋を切って落とされた。
ヴィノアを含む七名は、その命を懸けて魔王を殺さなければならない。
しかし、ヴィノアは《錬金術の民》の滅亡の件に関して深い憤怒を抱いている。
優れすぎていた、それ故に滅亡した《錬金術の民》。それがもし人為的なものでなければ、きっとヴィノアも渋々でも時間を経て過去として処理出来ただろう。だが、もしそれが恣意的な個人の理想によって為された軍事介入によるものであれば、話は別だ。
「兄様……」
階下から、じゃぶじゃぶ、と桶に溜め込んだ水で顔を洗う音が聞こえてくる。
平和で、平凡で、きっとこんな世界がずっと続くはずだ、とレスティアは考えていた。
だが、世界は残酷で、冷酷で……。
「………」
レスティアはふと気づいて目元に指をやると、うっすらとその指が濡れていた。
涙を流していた、という事実に思考が追いつくまで数秒の時間を要した。
それ程まで、レスティアは追い詰められていた。
否、レスティアだけではない。きっとヴィノアもそうなのだ。
「自分の故郷を、親族を、友を、愛する人を奪った者達の……平和を、守る………」
勇者、それは人民を救い、正しく在るべき世界へと導く理想の偶像。
ヴィノアは違う。彼は勇者などではない、差し詰め狂戦士と言うべきだろう。
「……耐えて、兄様」
今は、例え私を殺したヤツの命令であっても━━━
陽光が照らし出す二階の一室。
朝であるはずの時間が、まるで漆黒を塗りたくった夜のように薄暗く染まっていく。
階下に下ったヴィノアが戻ってきた。
しかし、それに気づく余裕もない程に、レスティアは疲弊していた。
別に普段の行動の積み重ねによる疲労ではない。昨日から今日に掛けて、つまり勇者式典にてヴィノアがその勇者の一枠に選ばれた時から、滾るような疲労感が襲っているのだ。くらくらと目眩がし、吐き気を催し、空間がねじ曲がったように、平衡感覚を狂わせる。
「……レスティア」
「兄、様……」
「大丈夫か?」
「ええ、私は、大丈夫です……それより、兄様が心配です」
「……安心しろ。ヘマはしない、俺はお前の兄貴なんだぞ? 妹の安全を守れなくて、兄は名乗れないさ」
そう言って、右手をレスティアの丁度心臓部分に当てた。
すぅ、と明るく暖かい光が発せられて、徐々にレスティアの表情が明るくなっていく。
「さぁ、行こうか」
そう言って、宙を彷徨っていた左手を差し出す。
一度死んだ少女、二度目の生を得た少女。
レスティアは静かに頷いて、ヴィノアの左手を取った。
「はい、兄様」
決して大きくはない自宅から一歩足を外に出した。
春光が視界を遮るように差し込む。
ヴィノアは告げた。
「…復讐を、はじめよう」
━━━彼は全てを失った。
愛する人、愛する仲間、愛する友、愛する家族……愛する、全てを。
哀しみを、憎しみを、恨みを、苦しみを、全てを糧にして彼は生きていく。
錬金術。
それは終わりと初まりを創造する業。
ヴィノア・セルスタシオンの、復讐劇が幕を開ける。