バレンタインデーの日に
デパートの地下で個包装されているチョコレートを何種類か買った。雑貨屋で無地のピンク色の箱とベージュのリボンとペーパークッションと赤い紙袋を買った。別に普通のものを買うのに、ドキドキして緊張した。
あの人はわたしがチョコレートを持って行ってどう思うだろうか?知らない女の子が家を訪れるってどういう気持ちなのだろうか?そう思うと、買おうと思っていたものを戻したくなる。手が止まる。でも、チャンスは早々やって来ない。もう、これが最後のチャンスだ。そう言い聞かせながら、わたしは前に進む。振られるのは怖いけれど、この恋を何もなかったものにする方が怖いから。どうせもう会わない人だし、傷はきっと浅いはずだから。
女の子がそわそわし始める二月。踊らされていてもいいじゃない。踊らされるべき時もある。それを大義名分に勇気を得られるのなら、そのくらいの波に乗ってみてもいいとは思う。そのくらいわたしは切羽詰まっていて、そのくらい本気だった。たかが十代の恋。すぐに消えてしまうものかもしれない。されど十代の恋。初恋は大切にしたい。だからこそ、二月十四日をよりどころにした。ちょうどいい大義名分がここにある。この季節にしてこのイベント。まるでニンジンをぶら下げられた馬のような気分。日本って何て素晴らしい。なんて初めて思った。
手作りのチョコレートを知らない女の子からもらうのは微妙かと思ってやめた。賢明な判断だったと思っている。その代わり、包装を手作りで頑張ろうと思った。そういうセンスはそれなりに自信があるから。うすいピンク色の箱に赤いチューリップとアネモネを描く。ブーケのデザインにした。花言葉など興味はないだろうけれど、この絵の中にわたしの想いが詰まっている。そして、ブーケの手持ちの部分はきれいに結われた大きなリボンが来るようにする。それがわたしの予定だ。
箱の中にペーパークッションを敷き、買った色とりどりの包装紙に包まれたチョコレートを一つ一つ丁寧に詰め込む。それは宝石の様に輝いていた。真ん中に大きめのハート形のチョコを差し込み、その後ろに手作りのメッセージカードを忍ばせた。こちらはハートをモチーフにした四つ葉のクローバーを描いた。それほどハートハートしないように気をつけて。
せっかく箱に絵を描いたので包装紙で包むことはしない。その代わり、少し太めの立派なリボンを遣う。ベージュにしたのは花を活かすためだ。それを崩れないように紙袋に入れた。
――想いが伝わりますように。
そう、受け止めてもらわなくてもいい。わたしの想いが伝わるだけでいい。わたしと言う存在を知ってもらい、この気持ちを知ってもらうだけでいい。願いを込めて。
渾身の品を大事に抱えて、目的の家まで急ぐ。本当は学校で渡したかった。だけれど、チョコレートを持って行ったことを知られると、取り上げられてしまう。それでも、懲りずに女の子たちはチョコレートを持って行っていた。何人かは抜き打ち検査で先生に奪われていた。あれって返してくれるのかな?取り上げられたものの中には手作りのものもあった。愛情入りだよ。それを奪うなんて殺生な。女の子たちも大騒ぎをしていた。まあ、持って行ってはいけないと言われたのに持って行ったのがいけないんだけどさ。本当に奪われるなんて思っていなかったんだろうな。このくらい大目に見てくれるはずだと思っていたはずだ。好きな人を呼び出す勇気も大きいんだし、みんな気合を入れていたんだし、きっと朝から緊張していたはずだから。
辿り着いた場所は最近建てられた三階建ての一軒家。ここが、彼の家だ。
彼は剣道部の部長だった。防具を入れている袋を担いで学校に来る姿は様になっていた。小学校低学年の頃から道場に通って剣道をしていただけあり、剣道部の中では群を抜いて強かった。うちの学校はそこまで剣道は強くなかったから、余計かもしれない。それでも彼は強く見えた。上には上がいるらしく、名を馳せることはなかったけれど。
休日、大会に出ると言う話を聞いて、一人で見に行った事がある。同じような服装をした人たちの中に居るのに、すぐに彼の姿を見つけることができた。愛だな、なんて思って思いっきりにやついた。まあ、それは措いておいて、今想像しても全身黒の道着姿は格好良かった。防具を身につけると、立派な体型が一層立派に見えて、見惚れた。同じ道場の人らしい男の子と話していて、時々声を出して笑っていた。だけれど、その男の子が試合に出ると、それを真剣に見つめて、声を出して応援していた。興奮しているのだと分かった。その姿にまた惚れた。何をしても格好良いけれど、やはり剣道をしているその姿は群を抜いている。剣道が好きなのだな、と分かるから。
試合をしている姿はそれ以上だ。姿勢よくそんきょする姿も、立ち上がって構える姿も、声を張り上げる姿も何もかもいい。
その時の相手は彼よりもガタイもよくて、身長も高かった。だけれど、彼は負けていなかった。剣道に体格差なんて関係ない。彼の動きは早くて、相手が動き出した途端、小さな動きで相手の懐に入るような勢いで突進していった。それが籠手だと知ったのは審判の声で。一瞬の出来事でわたしには何が何だか分からなかった。と言うのが正直なところだったけど、やっぱり格好良かった。何を叫んだか分からない声もまた身体にジーンときた。叫びそうなのを必死で押さえた。ミーハーなことはしたくなかったし、そういう場所ではないことは分かっていたから。
その後がまたすごかった。ところ狭しと打ち合っていたが、お互い全く決まらず、構えたままお互い向き合って気合いを入れ合っていた。そんな間も息をすることさえ忘れそうで、祈りながら見ていた。瞬間だった。相手は勢いよく面を打ってきて、彼は胴を打った。後でそれが逆胴だと知った。剣道の事を知りたくて後でインターネットで調べた。その逆胴の格好良さって言ったらない。いい音だったし。打った後の態度が『どうだ!』って感じだったから、彼自身自信があったのだろう。一斉に赤の旗が揚がった時は思わず拍手をしたくらいだ。
だけれど、彼はその一回勝っただけで終わった。次に当たった人は決勝戦まで進んでいたからすごく強いのだろう。負けた姿も素敵だと思った。がっくりするわけでもなく、最後まで格好良い。みんなそうだったのだけれど。でも、やはり彼は特別だった。
彼とは一度も会話をした事がない。多分、わたしの存在も知らない。そんな関係で突然自宅に行くってどうなのだろうか?警戒される?でも、もうチャンスもないし、わたしと言う存在がいると言うだけでも印象付けたい。相思相愛なんて期待していないから。そう、彼はわたしの一歳年上。先輩だ。
学校ではすれちがうだけの関係。すれちがうのも一日一回あるかどうか。わたしは美術部で彼は剣道部。全く接点もない。評判のいい人だから、突然わたしが家に行っても迷惑そうな顔はしないだろう。そう思うからこうやってチョコレートを渡そうとしたのだけれど。心の奥は迷惑だと思っている可能性は大いにあるけど、それを承知でいくしかない。この気持ちを伝えずになかったものにはできないから。
一度深呼吸をして、インターフォンのボタンを押す。誰が出てくるのだろう。お母さんかな。なんて言おう。すっかり忘れていた。
『はい』
やはり女性の声だ。多分彼のお母さんだろう。焦った気持ちをどうにか落ち着かせて、名前を言って彼の名前を言って、チョコレートをわたしに来たと伝えると、女性は少し沈黙の後『ちょっと待ってくださいね』と優しい声で言った。彼が出てくるのだと思うとドキドキした。身ぶるいして、急に喉が渇いた気がした。唇を舐め、じっと玄関を見つめる。
しばらくして玄関のドアが開いた。そこから出てきたのは大好きな彼。私服姿の格好良い彼。ジーパンにダウンジャケット、その下は黒のカットソーだ。カットソーの襟元からボーダーの生地が覗いている。わたしはその姿を焼きつけた。もう見られない可能性が大きいから。制服姿ももう少しで見られなくなるけれど、まだ、見るチャンスはある。でも。私服はそうはいかない。
「こ、こんにちは。突然すみません」
わたしを見て彼は眼を丸くしていた。まあ、驚くのも無理はない。見知らぬ女の子が訪ねてきたのだから。
「バレンタインなので、チョコレートを」
先輩の視線がわたしの手元に移動した。
「包装は手作りですけど、中身は市販のものなので、安心してください。呪いも呪文もかけてはいませんから」
念は込めたけれど。という言葉はもちろん飲みこんだ。
彼はクスリと笑った。笑顔もいい。総てがいい。彼はわたしのもとまで歩いて来て、門を開けた。夢のようだ。彼の視線は確かにわたしを捉えている。わたしを確認している。それだけで、わたしの目的は半分以上遂げていた。
「ありがとう。嬉しいよ」
彼の声を初めて聞いた。剣道をしている時の声は彼の声だけれど、特別な声だから、ちょっと違うと思うし。普段の声は低くて格好良い声だ。だけれど、口調はとても優しい。それだけで惚れ直す。やはり、素敵な人だった。
「ねえ、君の名前も知らないし、連絡先も知らないんだ、俺」
「そ、そうですよね」
「ほら、三月にお返しをするでしょう?だから――」
「あ、はい」
ホワイトデーでのお返しは夢だけれど、それを期待していなかった。自分の気持ちを伝えるだけで充分だったし、いっぱいいっぱいだったから、その先のことなんて考えてもいなかった。あくまでも目的は『気持ちを伝える』だったし。だから、連絡先を伝えるなんて考えてもいなくて、驚いた。聞かれるなんて事、想像さえできない。とても怖くて。怖れ多くて。
「連絡先を教えてくれないかな?」
彼はダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、わたしに見せた。
「は、はい」
「番号とメールアドレス教えて。きちんとおかえししたいし。それに、これの返事必要でしょう?」
彼はわたしの反応を窺うように言った。見知らぬ女の子が自宅まで押し掛けてチョコレートを手渡すのだから、どう考えても本命チョコなのだと分かるのだろう。だけれど、一応気遣ってくれている姿が嬉しい。素っ気ない態度じゃないところがやはりいい。
「返事を聞かせてくれるんですか?」
「三月に」
「優しいですね」
「そう?」
彼は小首を傾げた。ならば、曖昧はよくないだろう。うん。せっかくくれたチャンスだから、それは活かさないといけない。
「なら、きちんと伝えさせてください」
「え?」
深呼吸をした。一度、チョコレートを見つめる。袋の中にはわたしが描いたブーケの絵。わたしの想い。
「わたし、先輩が好きです。剣道している姿を見て惹かれました。それからずっと、好きです。今日少しお話しして、やはり好きだと思いました」
眼を逸らすのはもったいなくて、きちんと届きますようにと願いを込めたくて、じっと彼の瞳を見つめていた。とてもきれいな色をしていた。彼はにこりと微笑んでくれた。とてもきれいに。その後、照れるように人差し指で耳の後ろを掻いた。
「ありがとう。それじゃあ、それは三月に。それで、一人で帰れる?送ろうか?」
「いえ、近いので」
本当は送ってもらいたかった。それが本心だ。できるだけ長くそばにいたい。だけれど、彼と一緒に家まで歩くとなると、心地が悪い。会話が多分ないと思うし、見つめることもできないだろうし。緊張してドキドキして、ドジ踏んで変なところを見せてしまうかもしれない。できれば、いい印象のままでいたい。今がいい印象なのかは分からないけれど。
彼はわたしからチョコレートを受け取り、そのまま家に入ってしまった。あっという間の時間だった。だけれど、彼の素敵な部分を見た。いっぱい会話をした。彼を知ってからずいぶんな時間が経ったけれど、一度も会話をした事がなかったのに、この短い時間にすごい進歩だ。後一ヶ月。ホワイトデーまでそわそわして何も手につかないかもしれない。期待しても仕方ないけれど、彼の誠意が嬉しい。
まだ寒さが厳しいこの季節。わたしは初めて告白と言うものをした。そして、初めて好きな人の声を聞いた。総ては初めて尽くしだった。それはきっとわたしの素敵な思い出として残るだろう。ピンク色の空。この色をきっとわたしは忘れない。彼のあの優しさも。あの微笑みも。
ふと、バレンタインネタで何かを書きたくなり、こちらを一つ。こうなったら、セットでホワイトデーもと言うことで、3月14日に投稿します。なので、短編枠ではなく、連載枠になりました。これから先も何か思いついて書けたらいいな、と思っています。