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箱庭に雛  作者: 安宅
新学期
22/26

九月一日のこと、講堂

 渡り廊下を過ぎ、講堂の出入口に立つ風紀委員に会釈して入ろうとすると、

「何かあったら連絡して」

「え?」

 折り畳んだメモを渡される。風紀の腕章を付けた彼に軽く頭を下げた。

「ありがとうございます……」

「待ってるから」

 嘉一は曖昧に笑って返す。『何かあったら』と言いながら『待ってる』とは。嘉一に『何かある』のを待っているような口振りだ。



 講堂には整然と椅子が並んでいる。生徒会と風紀は舞台の下で他の生徒に指示を出しつつ転入生を構っていた。合流したらしい会計も一緒だ。嘉一はそれを横目に、舞台袖へ通じる扉の前に待機した。

 この扉からは、舞台へ続く階段、舞台上の音響設備がある部屋、舞台正面上部にある撮影用のスペースへの通路などがあるらしい。実際に目にしたことはないが、高等部に進学した際の説明会で聞いた。

 勝手に入っていいものかわからず、扉の横の壁に背を預ける。何となしに貰ったメモを広げると、そこには携帯電話の番号とメールアドレスが書かれていた。


 嘉一は、内心困っていた。なぜ受け取ってしまったのか。


 今時珍しく、嘉一は携帯電話を持っていないのに。緊急事態が起きても、連絡する術がない。この連絡先は嘉一に渡しても意味がないだろう。

 渡してくれた風紀委員に返そうと見渡したが見つからない。そろそろ一般生徒の移動が始まる頃だから、見回りに行ったのだろうか。


 ポケットに入れようとして、ワンピースにポケットがないことに気付く。そういえばハンカチやティッシュは鞄に入れたんだったか。

 仕舞う場所に困っていると、準備を始めるのか生徒会と風紀がばらばらに動き出した。風紀は出入口近くへ、書記、庶務、会計と追い付いた会長は嘉一とは反対側の扉に消えた。嘉一の側に寄ってきたのは、副会長。


「……行きますよ」

「はい……」

 副会長に続いて中に入る。階段と小さなテーブルがあるだけだ。嘉一は邪魔にならないように隅に移動したが、副会長は一度外に出ると椅子を一脚持って戻ってきた。


 まさか、ここにしばらく待機するのだろうか。

 有り得る。


 副会長は始業式の司会も務める。司会台は舞台の上手、嘉一たちがいるほうに設置されていた。下手から出入するのが殆どのため上手の扉の中は簡素だが、下手の同じ場所は椅子やテーブルがあるちょっとした待合室の様相なのだそうだ。


 バレエシューズの爪先を見つめていると、すぐ側で物音がする。副会長が嘉一の近くに椅子を置いたのだ。広くはないが、他に場所もあるだろうに。そっと距離を置こうとすると、副会長が静かに言った。

「座りなさい」

 意図が読み取りきれず、思わず副会長を見上げる。副会長は麗しいかんばせを少し歪める。


「人の厚意は素直に受け取ったらどうですか。あなたが座らないとわざわざ椅子を運んだ意味がなくなるでしょう?」

「……ありがとうございます」

 大人しく従うが、嘉一の頭の中は疑問符の嵐。


 意味がわからない。

 転入生に対してならともかく、嘉一に対して気遣いや優しさを発揮するなんて。

 一体何の見返りを期待されているのだろう。


 単に立っていたら視界に入るから座っていろ、だったらいいのに。でもそれなら副会長自ら椅子を運んだりせず、直接床に座れと言われそうだ。



 膝の上に重ねた手を見つめる。メモはいつ、風紀委員に返そうか。


「何ですか、それは」

 メモに気付いた副会長が尋ねてくる。副会長に指示を仰ぐのもありかもしれない。管轄外と断られそうだが。


「さっき、入口の風紀委員の方に連絡先を頂いたんです……」

「……受け取ったんですか?」

「はい。でも、何かあっても携帯電話がないから、連絡できないし……。どうしたらいいのかわからなくて。渡してくれた方に返すか、風紀の方に聞こうと思って……」

 副会長は嘉一からメモを奪う。

「僕が返しておきます。緊急時の連絡方法については風紀と生徒会で相談しますから、指示を待つように」

「……はい、ありがとうございます」


 当面の問題の一つが解決できた。後であの風紀委員に会ったら詫びだけは入れておこう。彼にその場で携帯電話がないと言えばよかったのに、それを伝えなかったせいで手間をかけてしまった。


 それにしてもポケットがないのは不便だ。レポートに書かなくては。

 嘉一が次のレポート内容の構成を練っていると、副会長が嘉一のすぐ隣に移動した。他に場所が空いているのに、どうして離れてくれないのだろうか。


 つむじを見下ろされている居心地の悪さに身を縮こませる。副会長が薄い唇を開いた。



「……あなたはもう少し、身嗜みに気を配ったりはしないんですか?」


「………」


 副会長が視線を落とすのは、最低限にしか整えていない嘉一の髪。絡まった毛先を解いただけで、寝癖すら直し切れていない。


 意識せず、冷笑が浮かぶ。

 この人は数日前のことも覚えていないのか。いや、覚えているだろう。覚えていても口にできる程度の瑣事なのだ。そして、それに捕われたままの自分に。



 クローゼットの中の、可愛い制服とアクセサリーと。それを身に纏う、不相応な嘉一の姿。




 膝の上の布地を握り締める。

「……僕には、似合わないですから、」

 クローゼットの中に、全部しまい込んだ。もう、目に触れないように。思い出さないように。


「……三日前に会ったときは、きちんとしてましたよね」

「あれは……」

 副会長に目撃された、浮かれた姿。蔑みの視線。

「日傘を差して、楽しそうに見えましたよ」


 楽しかった。けれど、きっとどうしようもなく愚かしかった。

 負った傷を無視できても、また傷を負った道を通ることはできない。


「見苦しくて……、もう、」


「……嘘、ですよ」

「………」

「醜いというのも、汚らわしいというのも、全部嘘です」

「………」

「あの制服も、今のも、似合っています。だから、」




 誰も彼もが嘉一を醜いと表す中で、副会長だけが否定しても信じられない。

 数日前の彼も、嘉一の姿を貶めたくせに。




「……副会長様、フェミニストなんですね」


「……ええ、だから、あなたに言ったことを悔やんでいます」




 見上げた副会長の顔は、後悔に歪んでいた。


 良心の呵責に苛まれる副会長の姿。

 嘉一の人間的な性質への解釈に変化はないにも関わらず、『女性』と判明しただけでこんなに態度を変えるのか。



 嬉しいとは思わない。


 ただ、空しい。




 結局、学園(ここ)に嘉一の中身を見てくれる人なんていないのだ。

お気づきの方も多いかと思いますが、嘉一は性格の良い人間ではないです。


誤字修正しました。

ご指摘ありがとうございます。

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