九月一日のこと、登校中
会計は一通り嘉一に暴言を吐くと、さっさと部屋から出て行った。会計とはいえ生徒会役員、始業式で何かと忙しいのだろう。
一方嘉一は、会計の言葉に傷付く以前に理解が追い付かずに混乱していた(他の面々の反論する気力も湧かないような鋭い罵詈雑言に比べれば、会計の『ムカつく』『嫌い』『ウザい』の三つの語彙で形成された悪口なんて可愛いものだ)。
随分嫌われてしまったようだが、嘉一にはさっぱり原因が理解できなかった。そもそも夏休み中は一切顔を見ていない。一月振りに対面したと思えば、いきなり抱きしめられて『ムカつく』。
その意図を解りかねる程度には、嘉一の対人スキルは底辺だ。
溜め息を一つ吐き出して、もう終わり。気持ちを切り替えて靴を履く。夏休み前から履いていたローファーではなく、黒いストラップシューズ。履きなれない感触に、むず痒さを覚えた。
頭の中で、大まかに計画を立てる。どこかに始業ギリギリまで隠れて、チャイムと同時に入室する。隠れる場所はどうとでもなる。空き教室、屋上、羞恥心さえ捨てればトイレの個室だってアリだ。
問題は、寮室から隠れ場所、そして教室までいかに他の生徒に見つからないように移動するか、だ。
一般生徒ならば色々な意味で視線が痛いだけだが、親衛隊に見つかれば何をされるかわからない。転入生の行動はもっと予測不能で、取り巻きたちは特に夏休み前と変わらないと、ここ何日かで判明している。
唯一書記だけは今一つ分からないのだが、よくよく考えてみれば転入生信者の思考が理解できた例がない。きっと顔立ちが整った人間は脳の作りまで一般人と異なるのだろう。
口に出さないのならば皮肉の意味がないけれど、半ば本気で考えてしまうのだ。彼らの頭の中が理解不能なのは嘉一の対人スキルの低さが原因ではなく、思考回路が普通のそれと違うのではないかと。
エレベーターではなく階段を利用してエントランスへ。通学のピークの時間帯よりもやや早く、あまり人目がないのが通常のはずだが、歓迎できない人が立っていた。
風紀委員会副委員長、緑小路梓その人だ。
転入生を迎えにきたのなら寮室の前で控えているはずなのだが、なぜエントランスにいるのだろう。壁にもたれた姿勢から、通り掛かっただけではなく待機していると分かる。
疑問はさておき、彼がそこにいるのが問題だ。寮の出入口は警備の都合上、一カ所しかないのだ。
嘉一は即断した。部屋に帰ろう。
幸い嘉一の部屋は2階だ。頑張れば窓から出入りできる。どの道ホームルームが終われば転入生のところへ押しかけてくるわけだから、顔を合わせるのだけれど。嫌なことは先送りにしたくて、何が悪い。先送りにしたツケを払うのは、どうせ嘉一自身なのだから。
回れ右で、進みかけて。
「いい加減にしなよ。僕をいつまで待たせるつもり?」
ピタ、と動きを止める。一縷の望みをかけて振り向けば、副委員長はすたすたとこちらに歩み寄る。
「君は平凡なだけじゃなくて頭が悪いのかな?エントランス以外のどこから出るつもりだったのか、是非聞きたいね」
まさか窓からとは言えない。
副委員長はいつも嘉一に暴言を吐くときの微笑みを浮かべたまま、俯く嘉一の肩を強く掴んだ。
「……っ、」
「君はどれだけ僕らを馬鹿にするんだろうね」
昨日よりはいくらか弱いが、それでも痛いものは痛い。副委員長は唇を噛み締めた嘉一を視線から外し、歩き出した。
やっと解放されたと息を吐けば、数歩で止まって振り向く。
「……いい加減にしなって、言わなかった?」
遅ればせながら、同行を求められていたと気付いたのだった。
寮から学園までは徒歩五分。整備された石畳の道を、副委員長と十歩程距離を保ちつつ進む。それ以上距離が開くと、副委員長は足を止めてしまうのだ。副委員長のスラックスとローファーの踵ばかり眺めながら、嘉一は考える。
これが、風紀の『護衛』なのだろう。
なるほど、エントランスから教室までだけなら、嘉一にあまり関わらなくていい。しかも教室には転入生がいる。『護衛』の大義名分の元、堂々と下級生の教室に出入りできるのだ。
実は夏休み前から、転入生目当てに下級生の教室に入り浸る取り巻きたちに非難が集まっていた。その矛先は転入生(とスケープゴートである嘉一)に向かっていた。しかし、嘉一を言い訳にすれば転入生を守ることができる。嘉一は敵視されたままだが。わざわざ副委員長が出張るわけだ。
ぼんやり交互に動く副委員長の踵を見詰めていたが、それがぴたりと揃って止まる。嘉一も一緒に、心持ち後ろで止まった。
「……どうして、何も言わないの?」
嘉一は頭の引き出しから、現状に最適な単語を探した。
「……すみません」
結局見つからなくて、謝罪の言葉を口にする。この学園に戻ってから『すみません』ばかり言っている気がする。
副委員長の足がぐるりと向きを変え、爪先が目に入る。
「なぜ謝ってるか自分で理解してないだろう?それに昨日の制服はどうしたの?」
副委員長は、それを一番言うべきではない人間のくせに。
「……もう、着ません」
クローゼットの中に、ヘアアクセと一緒に封印したのだ。忘れるまで、目に入らないように。
ローファーの爪先が迫る。また、肩を掴まれた。
「それって嫌味?当てつけ?『テストケース』のレポートに書いて憂さ晴らししてるとか?」
見上げなくてもわかる。副委員長は眦を吊り上げていることだろう。
視線を落したまま、事実を伝える。
「……書いてません」
嘉一の心情は証明できないけれど、物証のあるレポートについてだけは否定できる。
『テストケース』だからではない、嘉一だからこその待遇だ。書いたとして何になる。
「ふざけるな!君は僕を侮辱している!武器があるのに振るおうとしないのと同じだ。特権があるなら行使してみろ!」
「………」
嘉一に特権なんてない。あるのはいくらかの義務と僅かな権利だけ。
ただ男子校という特殊な環境における『女子生徒』への気遣いを期待するしかない。自力では何もできない嘉一に、一体何の特権があるというのだ。
「……何したって、何も変わらないと、」
「学習したとでも?」
「……はい」
ちらりとだけ視線を上げると、副委員長は柳眉を逆立てたまま、嘉一を見下ろしている。
また顔を伏せかけて、その前に声をかけられた。
「その姿勢が、本当に嫌味だね」
顎に力を込めて、軌道修正。
中途半端な向きで顔を止めた嘉一は、副委員長が前に向き直るのをじっと待った。
学習性無力感:長期に渡りストレス回避が困難な状況におかれた結果、何をしても無意味だと思うようになり、その状態から脱する努力をしなくなること。




