ラーメン
「私はBランチだって言ったじゃない!」
混雑がピークに達したカフェで女性の甲高い声が響く。
ざわついていたフロアが一瞬にして静かになり、
そのテーブルに視線が集まった。
私はその視線を背中に受けながら、必死に頭を下げる。
「申し訳ございません。すぐにお取り換えいたします。」
イライラしたような女性は机を細い指でトントンと叩きながら、
早く持ってきて!とため息をつきながら言う。
私はきれいに盛り付けた皿を持って厨房に入り、
大急ぎでBランチを作るように指示をする。
青くなった顔の学生が首を振る。
悪い時には悪いことが重なるものだ。
「さっき出たので、Bランチのターメリックライスが切れてしまったんです。」
厨房が静まり返る。
今から作ったとして、ターメリックライスが炊きあがるのは45分後。
ましてや、間違えたAランチの提供で、時間をいただいてしまっている。
「お客様に話してくる。みんなは各自の作業に戻って。」
私はランチではセットにつけていないデザートのプリンを持ってお客様の席に戻る。
「お待たせして大変申し訳ございません。」
私は手にしたプリンをお客様に差し出す。
手帳を手にした彼女はイライラした様子で私を見る。
「当店自慢のプリンです。お待たせしてしまっているお詫びなので、是非お召し上がりください。」
そう切り出すと、「お気づかいありがとう。とにかく、次の予定があるから早く持ってきてね。」とまた視線を手帳に戻してしまう。
私は意を決してお客様にお話しする。
「お客様、実はBランチのドリアに入れるターメリックライスが切れてしまいまして、
バターライスにしたものならすぐにお出しすることができます。
もしくは他のお品でしたら大至急おつくりできるのですが。」
とメニューを差し出す。
お客様は馬鹿にした顔で手帳をパタンと閉めると「責任者を呼んできて。」と一言言う。
オーナーは今日はいない。仕入れに出てしまっている。
ブティックの責任者が心配そうにこちらを見ている。
私がカフェスペースの責任者なのだ。
「私が、こちらの責任者をしております。」
私がそう話すと、女の人はふーっと長い息を吐く。
先程の大きなどなり声ではなく「こんな人が責任者じゃ全然駄目ね。仕事してないもの。」
とつぶやくように一言言うと、プリンには手を付けずに鞄をもって出て行ってしまった。
コンナ人ガ責任者ジャ全然駄目ネ。仕事シテナイモノ
どんなどなり声より、つぶやかれた声が私の心に響いた。
フロアは相変わらず混雑していた。
とぼとぼと私は自宅に帰る。
仕事がうまくいっていることが今の私の唯一の救いだったのに、全否定された気分になった。
仕事を投げ出したいとすら思ったが、なんとか一日を乗り切った。
帰る途中、滅多に入らないコンビニでカップラーメンを買う。
今日は何も作る気が起きない。
どうせ夫は今日も私の料理を食べないだろう。
娘は旅行中だし、息子は晩御飯がカップラーメンなら大喜びだろう。
料理が趣味だった私には初めての経験だった。
息子用のメガ盛り味噌チャーシューメンをキッチンカウンターにしまい
やかんでお湯を沸かし始める。
私はふたに記載されている通りにカヤクと粉末スープを取り出し、カヤクだけを麺の上に乗せる。
沸騰したお湯をきっちり分量通りに入れるとふたの上に後入れの白い油を乗せてきっちり3分計り始める。
そして、主人と初めてラーメンを食べた日を思い出していた。
その日は月末処理に追われた一日だった。
コンピューターに伝票を打ち込んでいく単純作業だが神経がいる仕事だった。
ところがそんな日に限って電話がよくなる。
電話を取ると聞いたことがない社名の会社の社長秘書からの電話だった。
―申し訳ございません。有川は只今外出しておりまして、
私が要件をお伺いできればと思うのですが。
きまりきった定番文句をきっちり答える。
―さようですか。それでは有川主任に伝言をお願いいたします。
本日16:00からお約束頂いていた打ち合わせですが、社長に外せない用事が出来まして
時間帯を14:00にずらして頂きたいんですが。
伝票から手が離せない。メモを取りたいのだが。
有川主任のホワイトボードの予定をみると、今日は午前中で出先から戻るようだった。
―畏まりました。本日14:00からですね。
有川にお伝えいたします。
お電話ありがとうございました。
有川主任に伝えようと受話器を取り上げた瞬間、また電話が鳴る。
他のメンバーも受話器を持ったり、鬼のような形相で伝票を入力していたり。
私はため息をつくとその電話を取った。
―お電話ありがとうございます。下川がお受けいたします。
そして、すっかり有川主任のことを忘れてしまったのだ。
―徳田商事からの電話を取ったのは誰だい?
いつも優しい主任が押し殺した声で営業管理課の事務に聞く。
―いえ、今日は徳田商事様からお電話はなかったようですが。
営業管理課の事務長が誰か取った?という顔でフロアを見渡す。
私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
有川主任に伝えるのを忘れていた。
静まりかえったフロアで私は震える手を挙げた。
―申し訳ありません。私です。
いつも優しく、電話では冗談を繰り返す有川主任がつめたい瞳でこちらを見つめた。
皆の視線が痛く、泣きたくなった。
徳田商事はこれから手を組もうと考えている企業様だった。
約束のすっぽかしは会社としてあってはならないことで、
有川主任は謝罪のため方々に出向かなくてはならなくなった。
私はこってりと営業管理課の事務主任に絞り上げられた。
猛省していた私だが、反発心もムクムクと湧き上がってきた。
そもそも、営業管理課にかかってきた電話なんだから、
そっちが取ればいいじゃないか。
いつも営業管理課が電話を取らないから、経理課の私が取っているのに。
今日だって、確かに電話に出ている人は仕方がなかったが、
伝票を打つのはこっちも一緒だ。
伝票を打っている人が出れば、会社名だって一致するし、間違えがなかったはずなのだ。
なんで親切心で電話を取った私が怒られなくてはならないのか。
19歳だった。
それまで、商業高校をでて、特別叱られることなく経理事務の仕事をしてきた。
初めてぶつかった壁に、心が折れそうになっていた。
電話に出たくない。
有川主任と話すのが楽しくて積極的に出ていた電話を取りたくないと感じた。
有川主任とだって話がはずまなくなったに違いないし。
ご飯大好きな私は東京に出てきて初めて何も食べないで眠ってしまった。
どんよりとした気分で朝を迎えた。
反発心も沸いたが、今回はどう考えても私が悪かった。
社会人として、会社から給料をもらっている以上、責任を持って仕事をしなければいけなかった。
お弁当を作る気分にはなれなくて、いつもより早めに会社に向かう。
一番乗りだと思った会社にはすでに有川主任がいた。
彼は営業鞄をもって事務所を出るところだった。
おはよう、と通り過ぎようとする主任をとっさに呼び止めた。
―昨日は申し訳ございませんでした。
伝達ミスなんて、許されるものではないですが。
以後このようなミスは絶対にしません!
彼は驚いたようにこちらを見つめる。
―私ができることでしたらなんでもしますので、
先方にも私がお詫びに行きますので。
言葉が思ったように出てこない。
涙を流さないよう、目がしらにぐっと力を込める。
―君は君の仕事をきちんとしてくれればそれでいいよ。
先方には私のほうからきっちりと謝る。
それにこんなことで交渉が決裂するような営業活動はしていないよ。
彼はそう言って車に乗り込んだ。
自分の仕事をする。
私は自席に着くとコンピュータを立ち上げる。
昨日半端に入力してしまった伝票を入力しなおすために。
もうすぐお昼休憩という時間に電話が鳴る。
私は誰よりも早く電話を取った。
―お電話ありがとうございます。下川がお受けいたします。
ミスを取り返すには、行動するしかないのだから。
ピピピと、キッチンタイマーが鳴り、ぼおっとしていたことに初めて気がついた。
ふたの上で、透明な液体になった油をどけて、粉末スープを入れる。
少しかき混ぜてから、油をこそぐように入れた。
いい香りが部屋いっぱいに広がる。
私はあまり食べさせたくないのだが、子供たちはカップラーメンが大好きだ。
誕生日のごちそうは何がいいと聞いたときに、息子にカップラーメンと答えられた時には地味に落ち込んだ。
普段手作りの料理しか食べさせてないから、子供たちにはごちそうに感じるんだよと夫がフォローしてくれる。
でも、ごちそうにカップラーメンを上げるなんて、普段どんなに酷いものを食べさせているのだろうと
息子の先生や、友達の保護者に思われたに違いない。私は酷く恥ずかしかった。
ラーメンを一口すする。
今のラーメンは麺も具も工夫されていておいしいのだと思った。
これは息子がハマるのもうなづける。
あの日主人と初めて食べたのも醤油ラーメンだった。
―お電話ありがとうございます。下川がお受けいたします。
いつもより、丁寧に明るく電話に出る。
―君の電話対応はいつも本当に気持ちが良いね。
有川主任の低くて優しい声。
私は次の句が継げなくなる。
―徳田商事との取引が無事終わったよ。
ところで、もうすぐ昼休みだろう。これから少し出てこれる?
有川主任と待ち合わせたのは駅前の公園だった。
彼は営業鞄をもって歩いてこちらに向かってくる。
―車を置いてきたら時間がかかってしまった。待たせて悪かったね。
お昼時を少し過ぎた時間だが人が忙しそうに行きかっている。
―ご飯でも食べないか?あ、君今日もお弁当?
私は首を横に振る。
―よかった。いつもおいしそうなお弁当だからね。
お昼休みに誘うのも気が引けたんだが。
彼が歩き始めたので、私も後を追う。
―どこか食べたいところある?
そう言われても、いつもお弁当派の私は本当にお店をあまり知らない。
―有川主任がお勧めのお店で。
そう答えて連れてこられたのが、裏路地にある、失礼だが汚いラーメン屋だった。
すぐにカウンターの奥に通される。
―なににする?
ラーメン屋になんか入ったことがなかった私は有川主任と一緒のと答える。
彼は醤油ラーメン2つね。とおじさんに伝える。
一つは大盛りで野菜増しで。とも。
何を話していいのか分からない。
ちょっと汚いプラスチックに入ったお水を一口飲む。
―いつも、君の電話対応すごく評判がいいんだよ。
唐突に彼は切り出した。
―電話取るのも早いし。感じもすごくいいし。
彼はグラスに継がれた水を一気に飲み干し、
またカウンターの上のポットから自分でなみなみと注ぐ。
―今回、君はあってはいけないミスをしたけど、
でも、そういうミスをするのは人一倍電話を取っているからだ。
ミスを指摘されて、縮こまった私に彼は優しく笑う。
はいよーと、おじさんが私たちの前にラーメンを出す。
ちょっとだけ緩んでしまった涙腺はラーメンの湯気がそっと隠してくれた。
―おいしい?
彼がうれしそうに私に聞く。
私はちょっと考えてから答える。
―あついです。
私は猫舌なのだ。
私はそれから1年後には会社を辞めてしまった。
主婦として一生懸命彼に尽くしたつもりだった。
だけど思うのだ。
彼も私たち家族に必死に尽くしてくれていた。
家事をすることと、仕事をすること。
比較はできない。
でも、彼はこういった苦労を一手に引き受けてきてくれた。
バブルが崩壊して、景気が悪くなる中
彼は私たち家族のため、どれだけ悔しい思いをして会社に社会に、頭を下げてきたのだろう。
平和は維持をするのが難しいのだ。
壊すのは簡単なのに。
麺を食べ終わったころ、玄関が開く音がする。
息子が帰ってきたのだろうか。
玄関に顔を出す。
いつもよりずっと早く帰ってきた夫がそこにいた。
「おかえりなさい。」
出迎えた私に「ただいま」と切り返す。
部屋中に充満した匂い。
テーブルの上のカップラーメンに彼の視線が移る。
「ごめんなさい、今日は何も作ってなくて。
あなた、何か食べる?すぐに買い物にいくけど。」
彼は鞄をソファーに置くとこちらに戻ってくる。
「いや、いらないよ。」
いつもの答え。
彼が作ってと言ったら、私はなんでも作るのに。
そう。といって片づけを始める私を彼はじっと見ている。
この前もこんなことがあった。
彼は何かを言いたそうだけど、何も言わない。
離婚を切り出すタイミングを計っているのか。それとも。
「なにかあった?」
夫の言葉に片付けの手を止める。
「なにかって?」
どう答えていいのかわからなくて、私はオウム返しにする。
「いや、何もないならいいんだ。」
彼はネクタイをほどきながら廊下に向かう。
なにかあったか?
あったに決まっているじゃない。
今日はお客様がたくさんきて、すごく疲れたのよ。
それに、アルバイトの子が注文のミスをしたのに、私がすっごく嫌な言葉で怒られたのよ。
お気に入りの器が一つ割れてしまったわ。
子供は遊びまわってばっかりで、最近家にいつかないし。
それに、大好きな夫は堂々と浮気をしているわ。
それに、それに、それに。
夫に投げかけたい言葉がぶわっと浮き上がる。
目の奥が熱くなってくる。
でも、そんな言葉を夫にぶつけることはなかった。
夫はいつでも仕事の愚痴を言わなかった。
私の家事にも文句を言わなかった。
喧嘩もたくさんしたけど、夫は私を責めたりはしなかった。
私は夫のために生きてきたつもりになっていた。
夫も私のために生きてきてくれたのに。
夫は最初で最後の恋をしている。
真ん中の私は?
私は、守られてきた。そして大切に愛されてきたのだ。
夫が他の人に恋をした。
それでもいいと思った。
夫が幸せなら、私はそれでいい。
私は唇をかみしめると給湯器のお湯を出して、
いつもより、あわあわにしたスポンジで勢いよく箸を洗う。
給湯器の湯気が、私の涙をかくしてくれることを祈って。
主人公と旦那の名前が初めて出ました。
こんなにたってから初めてって。。。
しかも上の名前だけ。
実は下の名前を出さないのは意図的に。