コーヒー
挽きたてのコーヒーが香る店内で、来客を知らせるドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターから振り返ると彼は懐かしむような、憐れむような。
ハンカチで顔をぬぐいながらぺこりと頭下げた。
あわてて私は、奥の席に案内した。
10年前からパートで勤めているのは、若手の陶芸作家たちの作品を売り出すブティックだった。
店内の一角に小さなカフェコーナーがあり、作家たちが売りこんできた食器でコーヒーが飲めるのだ。
彼にコーヒーを出すと黒いエプロンを外し、私は彼の前に座った。
彼ー奥村淳は夫の戦友で、親友でもある。
私たちの結婚式では友人代表として漫才のようなトークをし、大いに会場を沸かせてくれた人物でもある。
鈍色の少し光沢のあるいびつだけど、すごく手になじむコーヒーカップから
香り立つコーヒーを一口すする。
私は猫舌だ。
「聞いたよ。」
彼は単刀直入に切り出した。
何が?とは私は聞かない。
「あいつ、ばかだろう。」
私はうなづかない。
夫からの突然の告白があった日。
あの時も、こうして、向かい合ってコーヒーを飲んでいた。
最近忙しい彼にしては珍しく平日なのに家にいて。
‐最近休日出勤が続いていたから代休なんだ。
最近白髪が増えた髪に手をやって笑っていた。
朝の報道番組がひと段落し、主婦向けの生活情報バラエティーが始まる。
私はそれをボーっと見ながら、普段いない彼がいることに浮き立つ心をかくしていた。
私の向かいに座った彼の真剣なまなざしを感じ、私の心はざわめいた。
―好きな人ができた。
例えるなら、子供が学校での内緒話を打ち明けるように。
彼は声をひそめて私に話した。
その小さな声は、どんな音より大きく響いて、私の世界を崩壊させた。
‐誰を好きになったの?
私はまるで冗談のように返した。
‐正確にはずっと前から好きだった人に、改めて恋をしたんだ。
多分、最初で、最後の恋なんだと思う。
彼ははにかんだ笑顔でそう答えた。
だけど目だけは、真剣だった。獲物を狙う鷹のような目で、いつもよりずっと低い声で。
彼は私に話し始めた。
私はブティックから見える外の景色に目をやった。
色とりどりの日傘と、汗をぬぐう人々。
アスファルトからは湯気のような靄が立つ。
外はうだるように暑いのだろう。
「あいつはね、奥さん。」
奥村は冷たいコーヒーを一気に半分ほど飲みほした。
奥村は私を奥さんという。
結婚当初から、からかうように。
私はそれがとてもうれしかったのだ。
だけど、今はどうしようにもない苦みを感じている。
「あいつは、今戦っているんだよ。
どうしようにもない老いと戦っている。
高柳とよりを戻すなんて、どうかしていると思うんだ。」
私は答えずにコーヒーをもう一口すする。
苦みばかり目立つコーヒーを。
「最近、会社でも色々あってね。
この不景気だ。我々もなかなか厳しくてね。
そんな中、あいつはやっぱりやってくれたよ。
名古屋でのプロジェクトが進んでいるだろう?
だけどまさかその会社に高柳がいるとはね。」
節電で、あまり冷房が利いていない店内で、
彼はしきりに汗を拭いていた。
「高柳はいま、向こうの企画本部の本部長をしているんだ。
女だてらに大したものだよ。だけど、高柳は最低だ。
高柳だって、今の地位を失いたくないはずなんだ。
あいつらは上手にかくしているつもりかもしれないが、周りは気付き始めている。
あたりまえだ。あんなに名古屋に出ずっぱりで、二人でプロジェクトを進めているんだから。」
私は全然気付いていなかった。
夫が出張だと言ったら出張だと信じていた。
だから、朝早くから出先で食べられるように色とりどりのおにぎりを握り、
彼の好きな、厚焼き卵をおいしく焼いたのだ。
「最初で最後の恋とか言って、浮かれているけど。
男っていうのは、男でなくなるのが一番怖いんだよ。
あいつ、今は少しおかしくなっているけど、
必ず奥さんのもとにもどってくると思うんだ。
もう少し。もう少しだけ辛抱してやってくれないか。」
知らなかったのは、私だけ。
夫も、高柳さんも。当事者ではない奥村ですら、知っていた。
高柳さんは、私が入社したころ、会社で唯一の女性総合職だった。
一般事務で、紺色のジャンバースカートの制服の私たちとはちがい、
白いパリッとしたシャツに、タイトスカートを合わせた彼女は輝いて見えた。
華やかな化粧を施し、男性社員にも、上司にもハキハキと話す彼女は
女性の羨望の的であり、そして男性社員からは煙たがられていた。
どこにいても、彼女は輝いていた。
そんな彼女と夫は付き合っていた。
大胆な行動と、派手な功績を上げる彼女。
地味だけど、コンスタントに結果をだす夫。
女武将と付き合うなんて信じられない。
そんな風にからかわれていたけど、夫は幸せそうだった。
そんな彼女は会社を辞める時も派手で大胆だった。
会議の席で、お茶くみを命じられた彼女は、そばにあったお茶を急須ごと社長に差し出したのだ。
自分で酌めと。
烈火のごとく怒りだした社長を横目に、事績に戻ると目にもとまらぬ速さで辞表を書きあげたたきつけた。
こうして彼女は会社を辞め、さっさと留学を決めて日本を飛び出した。
‐あいつはここにいる器じゃないんだよ。
結婚式の準備で打ち合わせに来ていた奥村に夫は言った。
私は、会場で流す音楽を選ぶのに忙しいふりをしていた。
私たちの結婚を色々な人が祝福してくれた。
とくに、奥村は喜んでくれた。
‐お前には奥さんがぴったりだ!
まじめで案外仕事人間のお前には奥さんぐらい世話を焼いてくれる奴じゃないと。
奥さんは、奥さんの鑑だからな!
奥村はそう言って夫をからかった。
だけど、夫はずっと高柳さんを忘れていなかった。
彼は最初で最後の恋をしているという。
じゃあ、まんなかに挟まれた私は?
彼を愛し、彼の子を育み、彼のために生きていた。
私は彼の何だったのだろうか。
口の中のコーヒーが苦い。