お弁当
社長就任が決まってから、めまぐるしく環境が変わった。
連日続く出張、会議、打ち合わせ。
あの日、ホテルで高柳と愛し合ってからメールをする時間すら持てなかった。
社長就任について、内々に打診が会ったことを高柳に伝えた。
高柳は何も言わず、私を求めてくれた。
彼女と情熱的な夜を過ごしながら、公私共にパートナーになりたいと強く感じた。
彼女はむやみに私を信用したりしない。
自分の足で立てる人間だ。
良いパートナーになれるだろう。
そして私は新しい合弁会社を引き受けると決めた。
新幹線の中で駅弁を食べる。
1200円もする弁当なのに、おいしいと感じない。
ガムのような肉の味。味が濃いだけの煮物。
冷めていたが妻のおにぎりだけの弁当の方が、よほど彩り豊かでおいしかったと思う。
梅干の色がついたゴハンを口にほおばりながらそう思う。
会社と言うものは進むと決めたら恐ろしいほどのスピードで物事が進む。
会議、打ち合わせ、決済、稟議、また決済。
昼夜を問わず、仕事に打ち込んだ。
どう考えても負け戦だ。
打ち合わせをするたび、全員が確信していることだと再確認するばかりだった。
「離婚しよう」
社長就任が決まってから言おうと考えていた。
五月だというのに嫌になるほど暑い日だった。
出張からようやく帰ってきたその日、なかなか切り出せなかった言葉をついに伝えた。
今日は午前中は半休を取っている。
妻が渋るようなら、午前中一杯説得に使うつもりでいた。
だが、妻は予想外にすんなりとうなづいた。
「わかった」と。
手元のおいしそうなにおいがするご飯から目を離すことなく。
そして、いつものように仕事に出て行ったのだ。
私にかまうことなく。
一年の交渉の末勝ち取った離婚のはずだが、
なぜか、どうしようにもないほど心が沈んだ。
だが、ついに私は自由になるのだ。
私は高柳に会いたいとメールをした。
午後出社すると休憩室に奥村がいた。
「社長出勤かい。」
からかうように奥村が言う。
私は自動販売機に100円を入れてコーヒーを買う。
「連日休日返上で働いているんでね。
今日はプライベートでも決着をつけようと思って半休を取ったんだ。」
奥村は嬉しそうな顔をする。
「そおか。ついに目を覚ましたか!
散々奥さんに苦労かけたんだし、これから転勤だのなんだので
もっと苦労をかけるんだから、ちゃんと捨てないでくださいってお願いしろよ!」
奥村は、どうやら逆に捕らえて様だった。
「いや、散々苦労をかけたんでね。今日離婚の承諾をもらったんだよ。
転勤なんかになったら、せっかくあいつも仕事を始めたのに、
また辞めさせる事になってしまうしな。」
奥村は異星人を見つめる目で俺を見る。
「奥さんにまた離婚を切り出したのか?」
ああ。と応えて休憩室を後にした。
高柳の居るホテルに着いたのは10時を回った頃だった。
すでにワインをあけていた高柳に近づく。
「社長就任おめでとう。」
彼女は私の分もワインを注いでくれる。
「・・・ありがとうと言うべきなのかな。」
私は一口でワインを飲み干す。
高いワインなのかもしれないが、味の違いなどわからない。
今は、アルコールだったら何でもいい気分だった。
彼女はそんな私の心を見透かすように、口を開かない。
「予定は狂ったが、新しい社の社長になるんだ。
しかも、いくら荷物事業の切り離しとはいえ、大手企業の傘下には違いない。
私が社長に就任したら、公私共にパートナーになってくれるね?」
私はもうワインを飲まなかった。
彼女にしっかり向き合った。
ようやく妻と離婚の約束も取り付けた。
高柳さえ、うんと言ってくれれば。
私はタイタニックに乗っても船を沈めない知恵を絞れる。
「私、部署移動が決まったの。」
何かを決心した顔で話し始める彼女に愕然とした。
「どういうことだ?」
「名古屋プロジェクトは合弁企業ができることで、
私の部署からは手が離れるわ。
私は、海外資材部にもどって新しいプロジェクトに参加するわ。
あなたも、奥さんと別れるなんて馬鹿なことを言わないで。
彼女、あなたの影となり日向となり支えてくれたんでしょ。」
彼女は私に諭すようにいう。
「沈むとわかっている船からは下りるということか。」
口から笑が漏れてくる。ひとつもおかしくないのに。
彼女は近くにあるバックを手にすると、何も言わずに部屋を出て行った。
終わるのはあっけない。
あんなに熱く激しく愛し合ったのに、何も残らなかった。
私も、彼女を追おうとは思わなかった。
プライドを捨てて、離婚したくないと何度も私を説得しようとした妻。
私が高柳を抱いて帰ってきたのを知っていても、
おかえりなさいと優しく出迎えてくれた妻。
どんなに食べるのを拒絶しても夕食を作り続けてくれた妻。
私は途方もないむなしさに襲われていた。
いつも彼女と逢瀬を楽しんでいたホテルにとても泊まる気はしなかった。
肉体も、心もぼろぼろだった。
あんなに変化を望んでいたのに。
何もない自分と向き合って初めて自分がとんでもないことをしたのだと気がついた。
ふらふらと家に帰る。
電気が全部消えていた。
罪悪感で、なかなかドアノブに手が出なかった。
おかえりという妻の姿もない。
長年の習慣でリビングに足を運ぶ。
誰も居ない、電気が消えたリビング。
私はかばんを投げると、麦茶を取るため冷蔵庫に手をかける。
おいしそうな筍ごはんがそこにあった。
―おいしそうなお弁当だね。
皆がランチに繰り出したお昼休憩中、
彼女は一人電話のそばでゴハンを食べていた。
おいしそうに嬉しそうに食べる姿に交渉が上手く行かず
苛立っていたきもちが嘘のように引いていった。
どんなお弁当を食べているのだろうか。
彼女の横顔に近づくと、後ろから覗き込む。
おいしそうに炊けた筍ごはん。
思わず声をかけていた。
彼女は真っ赤になってうなづく。
人が居るとは思っていなかったのだろう。
緊張させて悪いことをしてしまった。
私は営業管理課に頼んでいた資料を取ると、事務所を後にした。
そんな昔のことを考えながら筍ごはんをレンジに入れる。
考えてみたら、私はレンジを自分で使ったことがなかった。
全部妻がやってくれた。
日々の掃除も。子育ても。親の介護も。料理も。
温かい筍ごはんをかきこむと目の奥が熱くなってきた。
自分に泣く権利がないことはわかっていた。
だが、鼻の奥がツーンとするのをとめられなかった。
筍ごはんがおいしかった。
妻の味付けだった。
客間で寝たその朝、妻と顔を合わせることに恐怖を感じた。
離婚の話しを進めなくてはいけない。
名古屋に向かう日は待ってくれない。
来週には職場に近いアパートに引っ越すことになっている。
私は憂鬱な気分でリビングに向かう。
「おはよう。」
妻は何もなかったような顔で私を迎える。
「・・・おはよう。」
私は少し枯れた声で挨拶を返す。
「朝ごはんいる?」
と何事もないように彼女は問いかけてくる。
私は妻に遠慮して要らないと応え、
かばんを取ると逃げるようにリビングを後にする。
玄関で革靴に足を入れていると、
妻がお弁当を玄関にそっと置く。
久しぶりに見る、見慣れた弁当箱だった。
私は思わず妻を見つめる。
妻はあの日のように、真っ赤になってうなづいた。
私はお弁当を大切にかばんにしまうと妻に言う。
「行ってきます。」
私は、タイタニックの船長だが、この航海を成功させられると確信した。
おいしいお弁当と、妻がそこにいるから。
25年も夫婦をやっているわけです。
病めるときも健やかなる時もあるでしょう。
ここからです。
壊れたものを修復するのは難しい。
幸せな話しが好きな人はここで読了してください。
この夫婦を最後まで見守っていただける方はどうか、
次の話しを読んでください。
明日UPします。