お弁当
‐好きな人が出来た。
結婚25周年を迎えようとしたある日の突然の告白に、
私のささやかながら平穏な世界は崩れ落ちた。
私たちは友達のような夫婦だった。
高校を卒業してすぐ就職したのは、
社員の顔と名前が全員一致する程度の規模の中小企業だった。
当時日本はバブル真っ最中で、皆が競うようにお金を使った。
皆がランチに繰り出す中、私はお弁当を持参するのが日課だった。
親元から離れ、独り暮らしの私にはそんな余裕はなかったし、
何よりも、東京の浮かれた雰囲気に馴染めなかった。
白いゴハンに、梅干と夕飯の残りの煮物。
そして卵焼きという質素なお弁当だったが、電話番を買ってでながら事務所で一人で食べるのが、
一日で一番楽しい時間だった。
‐おいしそうなお弁当だね。
営業マンで、めったに事務所に居ない彼から声をかけられたのは、
私の誕生日で、少し贅沢をして竹の子の炊き込みご飯を作ったある日だった。
うららかな陽気の日、パリッとスーツを着こなした彼に、
私は赤くなりただうなづくことしかできなかった。
その日からだった。
彼からの電話を受け取ると、いつもその日のお弁当の中身を聞かれた。
最初はただ、中身を伝えるだけでいっぱいいっぱいだったけど、
営業マンらしい彼の明るいトークに乗せられ、
だんだんと、軽い冗談を交えてやり取りできるようになった。
事務所の電話がなるのが楽しみになり、
彼からの電話ではないと、ちょっとがっかりするようになった。
お弁当の中身が少しだけ、華やかになった。
‐いつもこんなおいしいお弁当を作ってくれる?
うだるような暑さの日、それでも彼は涼しそうにスーツを着ていた。
私は電話のような軽口がたたけず、やっぱり赤くなってうなづくしか出来なかった。
彼には当時、付き合っている女性がいた。
結婚相手を見つけるための腰掛仕事しかしない女性が大半の世の中で、
彼女は当時は珍しい女性総合職だった。
営業マンと肩をならべ、企画をバンバン出している彼女は女性の憧れの姿であり、
男性からは少し煙たがられていた。
彼はそんな彼女と付き合い、お互いを高めあっていた。
彼女はお茶くみをさせようとする頭の固い男性の多い社会に噛み付き、
会社を辞めて留学をしてしまった。
彼は会社で少し同情的な目で見られ、苦笑いしながら営業に出て行くのが常になった。
彼からプロポーズされたのは、皆が彼女を忘れかけたある夏の暑い日だった。
デートもしたことがない。職場でだってあまり話すことはなかった。
ただ、営業先からかけてくる電話で、少し軽口をたたくだけの私になんでプロポーズをしたのか。
そんなことはどうでも良かった。
この暑い中働く彼に、おいしいお弁当を作りたいと思った。
そして、季節は流れ、翌年の春、私たちは結婚した。