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恋愛結婚した夫には妻がいました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/13




 初めてその天幕に入った時、私は思わず息を呑んだ。

 薄い布越しに差し込む夕陽が、中央に座る男の横顔を照らしている。

 金髪は光を受けて柔らかく輝き、青い瞳は澄んだ湖のようだった。

 戦場の荒れた空気の中に、こんな美しい人がいるのかと驚き、一瞬だけ呼吸を忘れた。


 だが──私は仕事で来たのだと気持ちを立て直し、簡素な木机の前に座る彼へ歩み寄った。


 天幕の中は血と薬草の匂いが混ざり、外からは負傷兵の呻き声が遠く響いている。


「派遣看護士のターニャです。

 怪我は、どこでしょう?」


 声をかけると、男は白いシャツの袖をゆっくりとめくった。

 鍛えられた腕に、赤く擦りむいた程度の傷が見える。


「ここ、なんだが……」


 正直、え? というのが本音だった。


 ここは戦場で、歩けないほどの重傷者が何十人もいる。


 なのに、この20代半ばの若い指揮官は、かすり傷で看護士を呼びつけたのだ。


 この程度なら、自分で処置すればいいのでは?

 ──そう思ったが、国のために戦う者に不満をぶつけるわけにはいかない。


「すぐ薬を塗りますね」


 私は水で傷を洗い、薬を塗り、丁寧に包帯を巻いた。


 処置はすぐに終わり、天幕を出ようとした時だった。


「急ぐのかい?」


 外では、まだ兵士たちの声が続いている。


 仕事は山ほどあるが、先の衝突で出た重傷者の応急処置は、ひと段落している。


 特別、急いでいるわけではなかった。


「いいえ?」


「そうか。

 では、菓子を食べていくといい。

 妻が領地から送ってくれたんだ」


 ──ああ、やっぱり。

 こんな綺麗な人、結婚していて当然だ。


 それに貴族なら、政略結婚なんて当たり前。


 私は胸が少しだけざわつくのを感じながら、差し出された皿を見つめた。


 木皿の上に、焼き色のついたクッキーが並んでいた。

 形も大きさも、庶民が食べるものと大差ない。


 けれど、貴族の食べ物は材料からして違うと聞く。

 どんな味なのか興味がわき、私は1つ手に取った。


「いただきます」


 口に入れた瞬間、ふわっと溶けた!


 こんなこと、あるのだろうか。


 小麦粉は驚くほどきめ細かく、甘味はドライフルーツではなく砂糖そのものの甘さ。


 噛むたびに香りが広がり、気づけば夢中で手を伸ばしていた。


 外の喧騒も、天幕の薄暗さも忘れてしまうほどに美味しかった。


 はっと気づいた時には、皿の上はほとんど空になっていた。


 私は慌てて背筋を伸ばした。


「すみません……あなたの分まで……。

 あまりに美味しかったので……」


 視線を落とすと、彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。


「気にしないでくれ。

 君たち勇敢な女性たちに、いつも助けられている」


 ──勇敢。

 そんな言葉を向けられるとは思っていなかった。

 私は慌てて首を振る。


「勇敢なのは、戦士の皆さんではないですか。

 私たちは、後方で支援しているだけです」


「いやいや、戦場に来ること自体が凄いことだよ。

 妻など経営が忙しいからと、ちっとも来てくれないからね」


 それは当然では? と喉まで出かかった。


 妻が戦場に来ないのは普通だ。

 むしろ来られては困る。


 けれど、私はその言葉を飲み込んだ。




 それから何故か、私は指揮官であるカシアン・ドレイモンド子爵の専任に指名された。


 怪我をしていない時でさえ、彼の天幕で一緒に待機することになった。


 人手が足りないのだから、怪我をしている兵士のところへ行ってあげたい。


 だが、貴族である指揮官にもしものことがあっては困るので、近くに医療従事者が常に待機していなければならない──そう上官に言われた。


 本当に“もしものこと”があるのかは疑問だった。

 彼はほとんど前線に出ないし、怪我といってもかすり傷程度。


 それでも私は、薄暗い天幕の中で彼の隣に座り、本を読んだり、紅茶を飲んだりするのを横で見守る役目になった。



 天幕の中は、乾いた土埃と薬草の匂いが混ざっている。


 外からは兵士たちの声が遠く響き、時折、風が布を揺らした。


 そんな中で彼は毎日、机に向かって手紙を書いていた。


「愛妻家ですね。羨ましいです」


 思わずそう言うと、彼は手を止め、少しだけ苦笑した。


「そんなんじゃないんだ。

 送らないと、支援を止められるんだ」


 私は思わず顔を上げた。

 支援を止められる? どういう意味だろう。


「え? 何故です?」


 問いかけると、彼はペン先を紙に置いたまま、青い瞳を伏せた。


 その横顔は、初めて見た時と同じくらい美しいのに、どこか影が差しているように見えた。


 驚いていると彼は、説明を始めた。


 前ドレイモンド子爵はギャンブルに溺れ蓄財を失くし、領地経営も傾いたまま亡くなったという。


 後を継いだ息子であるカシアンは、必死に家を立て直そうとしたが、うまくいかなかった。


 途方に暮れていた時に、現在の妻マルセラから縁談が舞い込んだのだという。


 マルセラは若くして有名商会を経営する遣り手で、舞踏会でたまたま見かけたカシアンに一目惚れしたらしい。


 そして、結婚するなら領地を建て直してやる──そう言われた。


 年老いた母に貧しい生活をさせていることを気に病んでいた彼は、その申し出を受け入れた。


 結婚すると、マルセラは豹変したという。


 領主代理権を巧妙に騙し取るとモンド商会を買収し、当主代理権も寄越さなければ商会を王都に移すと脅してきた。


 モンド商会は元々ドレイモンド子爵家が経営していた、領地最大手の歴史ある商会だ。


 それがなくなれば、税収だけでなく、民の生活も立ち行かなくなる。


 彼は泣く泣く当主代理権を渡した。


 そこからのマルセラは、やりたい放題だった。


 税収の3割を自分の労働報酬に設定し、その報酬分をカシアンに貸し付ける形にしたという。


 つまり、彼は妻に大きな借金を負ったのだ。


 語り終えた彼は、机の上の手紙を見つめたまま、静かに息を吐いた。


 天幕の外では風が布を揺らし、遠くで兵士たちの声が響いている。


 その音が、彼の孤独を際立たせているように感じた。


「妻に逆らうと、破滅させられてしまうんだ。

 だから、こうやって機嫌を取るために手紙を書き続けなければならない。

 母や領民たちを人質に取られているようなものだから」


 その言葉は、戦場の喧騒よりも重く胸に落ちた。


 貴族なんて横柄で贅沢しているだけだと思っていた。


 けれど、こんな苦労があるなんて知らなかった。


 政略結婚が多いのは知っているが、中には酷い人もいるものだ。


 彼のように、平民の私を差別せず、気さくに話しかけてくれる優しい人を支配するなんて──ひどい。


 そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


「結局、領地の乗っ取りが奥様の目的だったのですか」


 問いかけると、彼は苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべた。


「そうなんだ。僕たちの間には、愛なんかないよ。

 しかも、彼女は僕の見た目を気に入っていて、アクセサリーとして連れて歩きたいみたいだ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。


 こんなに綺麗な人が、そんな扱いを受けているなんて。

 気づけば、視界が滲んでいた。


 涙がこぼれたのを自分でも驚くほど、はっきり感じた。


「ああ、どうしたんだ。泣かないでくれ」


 彼は慌てたように立ち上がり、刺繍の入った上等なハンカチを取り出した。


 そっと私の頬に触れ、涙を拭ってくれる。


 ここにいる間だけでも──

 私が彼を幸せにしてあげたい。


 そんな思いが、自然に胸の奥から湧き上がってきた。




 それから私たちは、ゆっくりと、けれど確実に愛情を深めていった。


 彼の天幕で簡単な料理を作り、皿に取り分けて差し出すと、青い目を丸くした。


「こんなことして貰ったことない」


 その言葉に胸が温かくなる。


 だが続いた言葉に、私は思わず手を止めた。


「家にいる時は、いつも僕がかしずいて妻の口に食事を運ぶんだ」


 信じられなかった。


 この美しい人が、そんな扱いを受けているなんて。


 マルセラは、とんでもない悪妻だ。


 胸の奥が、じくじくと痛んだ。


 私にできることは何でもしてあげよう。

 そう決めてからは、甲斐甲斐しく彼の身の周りの世話を焼いた。


 紅茶を淹れ、肩の埃を払ってやり、寒ければ膝掛けをかけた。

 そのたびに、彼は優しい笑顔でありがとうと言ってくれた。


 彼と一緒にいると、胸の奥が満たされる。

 きっと彼も同じ気持ちでいてくれる──そう信じた。





 給料日。

 私は、いつものように養父の家へ向かった。


 乾いた風が吹き、戦場の土埃がまだ靴に残っている。


 私は孤児だったが、義父に引き取られ育ててもらった。


 看護士になり自立すると、義父は言った。


「今まで縁もゆかりもないお前を育ててやったんだから、育てるのにかかった費用を返せ」


 確かに"もっともだ"と思い、生活に必要な分を除いた給料をすべて渡していた。


 だが、それも今日で終わる。


 戦場の看護士は、一般より給与が高い。

 だから、払える額も多い。


 9歳から学校を卒業して就職する15歳までの6年分の生活費と学費──

 ようやく返し終わったのだ。


 静かな達成感が広がった。


 これで私は、誰にも縛られない。

 そして、あの優しい人のために、もっと自由に動ける。


 渡した金額を確認した養父は、まるで天気の話でもするように言った。


「お前に縁談が来ている」


 縁談──?


 ひやりとした。


 この国では普通、女性は16~18で結婚する。

 私はもう24だ。

 今さら結婚するなんて考えてもいなかった。


 私の縁談相手は体の悪い老貴族で、介護要員兼妻が欲しいらしい。


 義父は当然のように続けた。


「看護士の前にぴったりだろ。

 しかも貴族になれるんだぞ、喜べ。

 ただし持参金は、こちらで持たせないから結婚後も働いて、自分で持参金を作れ」


 私は思わず問い返した。


「持参金は、いくら必要なの?」


「孤児のお前が貴族に嫁ぐんだから、白金貨100枚はいるな」


「そんなに?!」


 白金貨100枚。

 国民の平均年収が白金貨5枚。

 つまり20年分だ。


 そんな額、どうやって払えというのだろう。


 義父は私の驚きなど気にも留めず、淡々と続けた。


「戦場看護士は儲かるんだから、いいだろう。

 向こうも分割でいいと言ってる。

 すでに承諾の返事をしているから、今さら抵抗したり拒否したりすれば、貴族への侮辱として首をはねられるからな」


 頭が真っ白になった。


 承諾の返事──?

 私は何も聞いていない。


 私の意思など、最初から存在していなかったのだ。


 義父の家の薄暗い部屋で、私は立ち尽くした。


 窓の外では夕陽が沈みかけ、街の影が長く伸びている。


 自由になれたと思ったその日に、また新しい鎖が首にかけられた。




 どうしていいかわからないまま、とぼとぼと彼の天幕へ戻った。


 顔色の悪い私を見て、彼はすぐに立ち上がった。


「どうしたんだ?」


 義父に言われたことを、そのまま伝えると彼は"信じられない"というように眉をひそめた。


「そんなの許せない。

 任せてくれ。これでも貴族なんだ」


 その言葉は心強かったが、現実は厳しい。


 カシアンは子爵で、結婚相手は伯爵。

 どうにかできるものではない。


 気持ちだけで十分嬉しかった。


 ──そう思っていた。


 しかし、数日後。


「ターニャ、喜べ! 義父を逮捕したぞ!」


「ええっ」


 青天の霹靂だった。


 彼は誇らしげに胸を張り、続けた。


「本来、養父は養子に生活費の返還を求めてはいけないと法律で決まっているんだ」


 そんな法律、知らなかった。


「だから義父は有罪になる。

 養子縁組みは解消されるから、義父が勝手に承諾した婚姻契約書も無効になる」


 その瞬間、胸の奥が熱くなった。


 気づけば、私は彼に抱きついていた。

 金髪が頬に触れ、彼の体温が伝わる。


「君はもう自由だよ。良かったな」


 耳元で囁かれたその声は甘くて、優しくて、涙があふれた。


 白馬の王子様なんて、絵本の中だけだと思っていた。

 でも──本当にいたのだ。


 彼に救ってもらった。

 人生を変えてもらった。


 ──この人のために生きよう。


 この時、私は心の底からそう誓った。





 秋から始まった戦争は、冬になると停戦した。


 てっきり彼は自宅へ帰るのだと思っていたが、戦地に残ると言った。


 テントでは冬を越せないため、彼を私の宿舎へ案内した。


 そこから、私たちの同居が始まった。


 同じ屋根の下で迎えた最初の夜、彼は照れくさそうに小さな箱を差し出した。

 中には、銀色に輝くペアリングが入っていた。


「愛してる」


 その一言で胸が熱くなった。


 彼の金髪は暖炉の火に照らされて柔らかく光り、青い瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。


 喜びを噛み締め、しばらく抱き合っていたが一転──彼は「マルセラが不妊で子供ができず、跡取りを作らなければ当主から降ろされる」と怯えて語った。


 私は迷わず申し出た。


「あなたの子を産みます」


 彼は驚いたように目を見開き、それから少しだけ不安そうに言った。


「マルセラの養子にしなければならないが、いいのか?」


 そんなの、決まっていた。


 私はカシアンに恩返しがしたかったし、何よりも彼を愛していた。


 彼の役に立つなら、何でもしたいと思っていた。


 それに、夫を虐げる悪妻の子供より、私の子供の方が彼も愛せるだろうと思った。



 冬の間、私たちは懸命に子作りを続けた。


 そして春、戦争再開の直前に妊娠がわかった。


「大事な子供に何かあると困るから、看護士の仕事はやめてくれ。

 僕がちゃんと養うよ」


 その言葉に胸が震えた。


 言われた通り看護士を辞め、彼が用意してくれた借家に移った。




 そして、また冬になった。

 彼──いや、夫はマルセラのいる自宅に帰らなかった。


 愛されている。

 そう実感した。


 生まれた子供は、夫にそっくりだった。

 金色の産毛に、澄んだ青い瞳。


 抱きしめるたびに胸が満たされた。





 開戦して2年が経った秋、ついに決着がついた。


 彼は「一緒に領地へ帰ろう」と言ったが、私は不安だった。


 マルセラが我が子に何かするのではないか──その恐怖が胸を締めつけた。


 そんな私に、彼は嬉しそうに笑った。


「実は、サプライズしようと秘密にしていたんだが──マルセラとは離婚したんだ」


「え? そんな、まさか……どういうこと?」


「顔に大怪我をして治らなくなったと嘘の手紙を送ったら、まんまと騙されてくれて離婚届を送ってきたんだ。

 それで先日サインして出したよ。

 だから、ほら、ここにサインして」


 差し出されたのは婚姻届だった。

 手が震えた。


「じゃ、じゃあ、マルセラは、もう家にいないのね?」


「ああ。実家に戻ったよ。

 家のことは執事がしてくれてる。

 どう? 驚いた? 嬉しい?」


 私は彼に抱きついた。

 胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうだった。


 こんな幸せがあるなんて、想像もしなかった。

 一生、日陰の身だと思っていた。

 それが今、彼の本妻になる。


 子供と3人で幸せになれる。


 そう信じて疑わなかった。




 4日かけてドレイモンド子爵邸に着いた。

 平民の家よりは大きいが、貴族の屋敷としては素朴だった。


 私は子供を抱き、彼の後ろを歩いた。

 胸は期待でいっぱいだった。


 ここが、私たちの新しい家になる──そう信じていた。



 玄関に入ると、茶色い目と髪の平凡な容姿の女性が立っていた。

 メイドではない、上質な服を着ている。

 従姉だろうか、と一瞬思った。


 夫は迷いなく言った。


「帰ったよ、マルセラ」


 え? 今、なんて言った?


 マルセラ──?


「お帰りなさい」


 落ち着いた声が返ってきた。


 息が止まりそうになった。


 夫は私の背を軽く押し、誇らしげに言った。


「こちらはターニャ。

 今日から、ここで一緒に暮らす。

 これは僕らの子だ」


 マルセラの茶色い瞳が、ゆっくりと私と子供を見た。


「それは愛人ということ?」


「愛人だって? 彼女は入籍してないだけで妻だ。第2夫人だ」


 入籍してない?

 第2夫人?

 誰が?

 私が──?


 頭が真っ白になった。


 マルセラは小さく笑った。


「ふうん。今夜1晩だけ泊めてあげるわ」


 その声音は冷たく、底が見えなかった。


「なんだ、泊めるって?

 ここは僕の家だろう。

 そんなこと言うなら追い出すぞ」


 え?  意味がわからない。

 恐妻に頭が上がらないはずじゃないの?


 マルセラは、眉ひとつ動かさず言った。


「そんな口のきき方するなら離婚するわよ」


「ま、待ってくれ。

 それだけは……許して、マルセラ」


 次の瞬間、彼はマルセラの足にしがみつき泣き出した。


 ──嘘でしょ。

 嘘だよね?


「あなた、泣けば許されると思ってるでしょう」


 マルセラの声は、冷たく澄んでいた。


「そんなことない。

 ただ僕は、君がいないと生きていけないんだ。

 君に子供ができないから、よそで作ってきただけで……愛してるのは君だけだ。

 君を1番、愛してる! 捨てないでくれ!」


 息ができなかった。


 あまりのことに気絶しそうになった。


 けれど、腕の中の子供を床に落とすわけにはいかない──その一心で必死に耐えた。


 足が震えて立っていられず、私はその場にしゃがみ込んだ。


 ──吐きそうだ。

 胃の中には何もないのに、胃液を全部吐き出してしまいたいほどだった。


 私兵が近付いて来て、私と子供を無言で地下牢へ連れていった。


 石造りの階段を降りるたび、冷気が肌に刺さる。

 牢は暗く、湿っていて、冬の空気が骨に染みた。


 寒い。


 私は粗末なベッドに置かれた毛布で子供を包み込み、震える手で抱き寄せた。


 何が起きているの?

 どうなっているの?

 意味がわからない。




 時間の感覚が消えていった。


 ここに来て9回、食事が運ばれた。

 つまり3日は経っている。


 いつになったら出られるの──?


 その時、兵士が来た。


「体を洗って着替えろ」


 桶と服を置いていく。

 桶の中身は水だった。


 晩秋の地下牢で、水。


 私は震える手で服を脱ぎ、歯が鳴るほど冷たい水で体を洗った。


 皮膚が痛い。

 冷たさが骨に刺さる。


 それでも"逆らう"という選択肢はなかった。



 準備が終わると、兵士は無言で私を連れ出した。


 階段を上がり、光のある場所へ。


 そして──応接室に通された。


 暖炉の火が揺れ、柔らかい絨毯が敷かれ、温かい空気が満ちている。


 地下牢とは別世界だった。

 けれど、安心なんてできなかった。


 心臓が早鐘のように鳴り、手が震えた。


 扉が開き、マルセラが入ってきた。

 茶色い目と髪の、平凡な容姿の女性。

 だが、その佇まいは圧倒的だった。


「座っていいわよ」


 私は言われるまま椅子に腰を下ろした。


 メイドがお茶を置き、静かに下がる。


 マルセラは書類を差し出した。


 不貞の慰謝料の請求書だった。

 それも、恐ろしい額。


 息が止まった。


「す、すみません……払えません。

 というか私、カシアン様と入籍したはずなんですけど……」


 声が震えた。


 請求書には、ターニャ・ハーグと書かれている。


 私はターニャ・ドレイモンド子爵夫人のはずだ。


 マルセラは書類の束から1枚を抜き取り、私の前に置いた。


「もしかして、これのこと?」


 そこには、私のサインが入った婚姻届があった。

 見覚えのある筆跡。


 震える指で触れた瞬間、胸が締めつけられた。


「そ、それ……なんで……教会に提出するって言ってたのに……」


 あの日、彼は優しく笑っていた。

 “これで僕たちは本当の夫婦だ”と。


 マルセラは小さく笑った。

 その笑みは冷たく、どこか哀れみすら含んでいた。


「提出できるわけないじゃない。

 この国では貴賤結婚が禁止されてるのよ。

 平民のあなたが、どうやって夫と結婚するの」


 息が止まった。


 知らなかった。

 そんな法律があるなんて。


 平民でも貴族と結婚する例が稀にある──

 それはつまり、裏技があるということだ。


「し、知りませんでした……本当です。

 私……入籍してると思ってたんです」


 マルセラは、こてんと首をかしげた。

 その仕草は柔らかいのに、言葉は鋭かった。


「おかしいわね」


「え……?」


「婚姻届にサインしたのは、いつなの?」


「最近です……2週間前です」


 茶色い瞳が細められる。


「おかしいわね。

 あなたの子供、1歳くらいに見えるんだけど?」


 心臓が跳ねた。

 喉が詰まり、言葉が出ない。


「それは……」


「おかしいわね。

 まるで、あなた結婚詐欺にでも遭ったような言い方。

 それ以前に、不倫したのよね?」


 胸が抉られたように痛んだ。


「そ、それは……しかし……『夫人が不妊で跡継ぎが必要だから』と言われたのです……」


 マルセラは、今度は逆に首をかしげた。

 その表情は、まるで子供の嘘を見抜いた教師のようだった。


「おかしいわね。

 私には子供がいるわよ、カシアンの子がね」


 世界が止まった。


 そんな──

 そんな馬鹿な。


 彼は言っていた。

 跡継ぎができなくて、当主交代されないか不安だと。


「私が、いつ不妊症になったの?」


 淡々とした声が胸に突き刺さる。


「そんな……違います……私は……だって……」


 言葉が喉で絡まり、うまく出てこない。


 マルセラは再びこてんと首をかしげ、まるで私の混乱を観察するように見つめた。


「私が不妊症だったとして──。

 先に私の許可を取らずに勝手に子供を作ったら、その子が跡取りになったとしても、慰謝料請求は避けられなかったわね」


 その声は静かで、冷たく、揺るぎなかった。


「さっきから自分を被害者みたいに言ってて鼻につくんだけど。

 あなたがするべきは言い訳じゃなく、謝罪でしょう」


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。

 呼吸が苦しい。


 でも、言わなければ──


「あ、え、あ、その、ですが……夫人にカシアン様が虐げられてると……。

 夫人がカシアン様から領主代理権を騙しとり、借金を強制して、当主権も奪って……やりたい放題だと……。

 それで、お母様と領民を人質に取られ、毎日手紙を書かされてるって……可哀想で……」


 言いながら、自分の声が震えているのがわかった。

 

 思考がまとまらない。


 マルセラはふっと笑い、机の横に置いてあった紙束を取り上げた。


 そして、私の前に静かに置く。


「読んでみなさい」


 震える指で1通目を開いた瞬間、胸が締めつけられた。


 そこにあったのは──

 戦場からマルセラへ送られた、カシアンの手紙だった。


 紙には、彼の癖のある筆跡が並んでいる。


『マルセラ寂しい、会いたい。

 浮気したら許さないからな。

 マルセラにも寂しい、愛してるって言ってほしい。

 そうだ! "愛してる"と100回書いて送ってほしい。

 お願いだ、君の愛がないと生きていけない』


 息が止まった。

 次の手紙を震える手でめくる。


『どうして、君じゃなく母に"愛してる"と書かせるんだよ?

 酷いじゃないか!

 僕は君に書いてほしいのに……。

 でも、まあ悪い気分じゃないよ』


『前線に行かされそうだ。怖いよ。

 助けて……マルセラ』


『マルセラの言う通りにしたら作戦がうまくいって、僕は今、英雄扱いされてるよ!

 ありがとう。

 それで、部下たちを労いたいから現金を送ってほしい。

 頼りになるのは君だけだ。

 愛してるよ、僕のマルセラ』


『君が結婚してくれてから今までのことを毎日、思い返してるよ。

 僕しか知らない君の体は、永遠に僕のものだ 。

 早く戻って、君を抱きしめたい』


 視界が揺れた。

 手が震え、紙がかさりと音を立てる。


 マルセラは淡々と次の束を差し出した。


「こっちが、あの人が持って帰ってきた私の手紙」


 恐る恐る開いた。


『私も寂しいけれど、それを戦地で言ってはダメよ?

 兵士たちに舐められてしまうわ』


 その次には、整った筆跡で“愛してる”が100回。

 カシアンの母が書いたものだ。


『あなたの代わりに領地経営をしていて忙しいのよ。

 義母様に書いてもらったから、それで許して』


『兵士たちに誰が頼りになるのか聞いて。

 名前が多く上がった者のうち3人を副官に指名して、彼らに現場を任せるのよ』


『今年の冬も、雪が多いそうだから帰って来れないわね。

 でも、元気出して!

 いつか帰ってきたら、暖かいお茶を淹れてあげるわ』


 読み終えた瞬間、意識が遠のきかけた。


 ──全部、嘘だった。


 虐げられていたのは、彼じゃない。


 泣いて縋っていたのも、甘えていたのも、依存していたのも──


 私に向けていた“弱さ”は、ただの演技だったのか。


 ずぶずぶと沈んでいく。

 世界が反転し、足元が崩れ落ちるようだった。


 しかしマルセラは、それでも容赦なく私に追い打ちをかけてきた。


「私は夫に『どうしても結婚してほしい』と頼まれて、結婚してあげたのよ。

 婚約の打診が来た時、私はまだ前の婚約者が亡くなったばかりで喪に服していたの。

 だから最初は断ったわ。

 でも彼が『どうしても、私じゃなきゃダメ』と言うから、仕方なく結婚してあげたのよ」


 そう言うと、彼女はまた書類を取り出した。

 机の上に置かれたそれは、当時の釣り書きと婚姻契約書だった。


 目を通した瞬間、頭がぐらぐらと揺れた。


・持参金の管理は妻

・妻の資産には一切手を出さない

・妻に政務を強制しない

・浮気禁止

・ギャンブル禁止

・妻の許可なく借金を負わない



 マルセラは淡々と続ける。


「男爵令嬢だった私が、階級が上の子爵であるカシアンに対して、これだけ強気な契約内容を突きつけるということは──つまり、それだけ夫が私を欲してたということよ」


 言葉が出なかった。


 私が信じていた“弱くて可哀想な彼”は、どこにもいなかった。


 マルセラは、またしても、こてんと首をかしげ言った。


「おかしいわね。

 私が仮に悪妻だったとして──何故それが、あなた方の不貞を擁護する理由になるの?」


 胸が締めつけられた。

 呼吸が浅くなる。


「あなたが夫を可哀想だと思ったなら、離婚しても損しないように、法律家のプロを探すなり、打開策を考えれば良かった話でしょう。

 なぜ"可哀想"が“不倫を肯定する理由”になるの?」


 言葉が喉でつかえ、声が震えた。


 マルセラは、こてんと首を逆にかしげた。


「おかしいわね。

 相手が可哀想なら不倫が合法になるなんて聞いたことないわ。

 どうして国王でさえ法を勝手にねじ曲げられないのに、平民のあなたにそんな権利があるの?

 おかしいわね」


 その声音は淡々としているのに、逃げ場を塞ぐような冷たさがあった。


 マルセラが控えていたメイドに軽く合図すると、扉が開きカシアンが連れてこられた。


 助かった──

 そう思った。


 彼が来れば、誤解が解ける。

 彼は私の味方だ。


 だが、彼は迷いなくマルセラの隣に座った。


 え……?

 私の隣じゃないの?


 マルセラは横目で夫を見て、静かに問いかけた。


「どうして、彼女に子供を産ませたの?」


 カシアンは、まるで当然のことを話すように答えた。


「僕が出兵した時、君が妊娠してること知らなかったんだ。

 後継がいないと親族が、また『当主交代しろ』と騒ぐだろう。

 だから部下に『傷物にしても騒ぐ親族のいない、子供の産める年齢の女を用意しろ』と言ったら、この女が来たんだ」


 息が止まった。


 傷物にしても騒ぐ親族のいない──

 この女──

 用意しろ──?


 頭が真っ白になり、呼吸がうまくできない。


「君が妊娠したこと伝えてくれていれば手は出さなかった」


 手は……出さなかった……?


 私の人生は、そんな理由で……?


 マルセラは目を細めた。


「でも、あなた『愛人でなく第2夫人だ』って言ったじゃない」


 カシアンは軽く笑った。

 あの優しい笑みと同じ形なのに、まったく違うものに見えた。


「君が取り乱すか、見たかったんだよ。

 君は僕の愛情に答えてくれないじゃないか。

 少しくらい試したって、バチは当たらないだろう」


 は……?

 試し……?

 試した……?


 理解が追いつかない。

 視界が揺れた。


 私が信じていた“愛”は──

 彼の優しさは──

 全部、全部、全部……

 ただの“遊び”だったの?


 世界が音を立てて崩れていく。

 足元が消え、息ができない。


 私はただ、震える指で口元を押さえ、声にならない声を漏らした。


 カシアンは、まるで自分が正しいと信じて疑わない子供のように言った。


「だって、君は僕を愛してくれないだろう?

 だから少し揺さぶってみたんだよ。

 僕のことを、どれだけ想ってるか知りたかっただけだ」


 あり得ない。

 ふざけないで。


 私の人生を──子供の人生を──“揺さぶりのため”なんて言葉で、片づけるつもり?


 喉の奥から叫びが込み上げた瞬間、マルセラが静かに口を開いた。


「それで──この女は、どうするの?」


 カシアンは、どうでもいいことのように肩をすくめた。


「どうって?

 別に、君の好きなようにしていいよ。煮るなり焼くなり。

 そんなことよりも、子供と一緒にティータイムしようよ」


 空気が凍った。

 私の心臓も、思考も、すべてが止まった。


 マルセラは眉ひとつ動かさず言った。


「私は、まだ『あなたを許す』って言ってないわよ」


「まだ、そんなこと言うのか。

 ……じゃあ、いいよ。

 僕が君の目の前で──この女と子供を“殺せば”それで気が済むかい?」


 “殺せば”……。


 意味を理解した瞬間、世界が暗転した。


 私の子供を?

 私を?

 この人が──?


 マルセラは静かに手を上げた。


「処分は私がするから、もう下がって」


「いやだ、一緒にいたい。離れたくない」


 カシアンは、マルセラの足にしがみついた。

 泣きながら縋りつき、必死に。


 その姿は、私が知っていた“優しい指揮官”ではなかった。

 ただの、依存と執着にまみれた男だった。


 その瞬間──


 笑いが込み上げてきた。


 抑えようとしても抑えきれない。


 胸の奥から、喉の奥から、次から次へと笑いが溢れ出す。


 けたたましい声で、私は笑い続けた。


 だって──


 あまりにも滑稽だったから。


 私が信じた“愛”も、

 私が捧げた“人生”も、

 私が守ろうとした“彼”も、

 全部、全部、全部──


 茶番だったのだから。




 どのくらい笑っていたのか、わからない。

 気づけば、私はまた地下牢に戻されていた。


 石の床の冷たさが背中に染み込み、ようやく意識が戻った。


 寒い。

 寒い。

 寒い。


 その時、牢番が無言で近づき、鉄格子の隙間から書類を差し入れた。


「サインを」


 例の──不貞の慰謝料の書類だった。


 もう何もかも、どうでもよかった。


 どうせこんな金額、私に稼げるわけがない。

 書いたところで、どうにもならない。


 やぶれかぶれでサインし渡した。


 しばらくすると私兵が来て、私を牢から引きずり出した。


 冷たい風が、頬を刺す。


 馬車に押し込まれた。


「ちょ、ちょっと……子供は?! 私の子!」


 牢に置かれたままの我が子のことが、頭をよぎり叫んだ。


 兵士は冷たく言った。


「黙れ。殺しはしない。おとなしくしろ」


 その言葉が、逆に恐怖を増幅させた。

 “殺しはしない”──なら、何をするつもりなの?


 ドアが乱暴に閉められ、暗闇が私を包んだ。


 馬車が動き出す。

 揺れが体に響く。

 子供の温もりが腕にない。

 胸が裂けそうだった。


 どこへ連れて行かれるのかもわからない。

 何をされるのかもわからない。


 ただひとつだけ確かなのは──

 もう、元の世界には戻れないということだった。







 ──10年後。


 私は鉱山で娼婦をしていた。


 最初は城下町の娼館に売られた。

 だが、30歳を過ぎると客から指名されなくなり鉱山へ送られた。


 逃げ場はない。

 未来もない。


 その日、鉱山はいつになく慌ただしかった。


 私も駆り出され、掃除や片付けを手伝った。


 "領主が現地視察に来る"というのだ。

 私を地獄に落とした男、カシアンが……。


 10年経っても、あの金髪と青い瞳は忘れられない。

 私はキッチンから小型ナイフを盗んだ。

 震える手で握りしめる。


 ──殺して、自分も終わらせよう。


 そう思った。


 だが、しばらくして現れたのはカシアンではなかった。


 マルセラだった。

 まあ、夫人なのだから不思議ではないけど……。


 彼女は変わらない落ち着いた足取りで、周囲の空気を変えていった。


 マルセラの後ろには、10歳くらいの男子が2人と、その妹らしき少女。


 そして、執事として彼女の傍に控えていた男がいた。

 ただし、今日は燕尾服ではない。


 カシアンの姿は──どこにもなかった。


 上の子2人は金髪で、カシアンにそっくりだった。

 けれど、背丈も顔つきも違う。双子ではない。


 どくん、と心臓が跳ねた。


 ──上の子は、マルセラが産んだカシアンの子。

 ──そして下の男の子は……。


 あの日、兵士が言った言葉が蘇る。


『子供は殺さない』


 あれは……私が産んだ──


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「ルシアン……」


 その名を呼んだ瞬間、下の男の子が驚いたように、こちらを見た。

 青い瞳がぱちぱちと瞬く。


 やっぱり──あれは私の……。


「僕を知ってるの? おばさん」


 その声は幼く、無邪気で、何も知らない。


 胸が締めつけられた。

 でも、ここで名乗ることはできない。

 彼の人生を壊すわけにはいかない。


 私は深く頭を下げた。


「……申し訳ございません。

 新聞で拝見したもので、知った気になってしまいました。

 単なるファンでございます。

 敬称をつけずに呼びましたことを、お許しください」


 ルシアンは不思議そうに眉を寄せたが、すぐに興味を失ったように言った。


「ふうん、そうなんだ。別にいいよ。

 ──じゃあ」


 その無邪気さが、逆に胸を刺した。


 その時、責任者から説明を聞いていたマルセラが、こちらへ歩いてきた。


「ルシアン、おいで」


「はい、お母様」


 ルシアンは、素直にマルセラの元へ駆け寄った。

 その姿は、完全に“マルセラの子”だった。




 一家が去ったあと。

 私は人目のない場所で、そっと涙を拭った。


 ──ただ、嬉しかった。

 息子が、ちゃんと成長してくれて。

 上等な服を着ていた。

 痩せてもいなかった。


 その時、背後から声がした。


「お前、ターニャだったのか」


 振り返ると、管理責任者が歩いてきていた。

 動悸が一気に跳ね上がる。


 髪は真っ白で頬はこけ、シミだらけの顔。

 老人にしか見えない。

 けれど──青い目だけは、見覚えがあった。


「……カシアン様?」


「そうだ。ずいぶん老けたな。気付かなかった」


 その声は、ただの侮蔑と怨嗟と自己憐憫だった。


「お前なんかと不倫したせいで、俺は離婚され、当主の座を降ろされた。

 お前が甲斐甲斐しく世話を焼くから、情が移って連れ帰ったのが間違いだった。

 お前のせいだ」


 胸の奥が、すっと冷えた。


「そうね。悪かったわ。

 要件がないなら、もう行くわね」


 背を向けようとした瞬間、彼が言った。


「いや、待て」


「まだ何かあるの?」


「お前が養父に搾取された金、あれは俺が貰っておいたぞ」


 思考が止まった。


「……は?」


「だって、証拠がないのに貴族権限で強引に逮捕できたのは“俺のおかげ”だろ。

 だから手数料として貰っておいた。

 ──じゃあな」


 カシアンは見下したように笑い、背を向けた。


 ──10年前、あの屋敷で見た“本性”のまま。

 何ひとつ変わっていなかった。


 私は、さっとポケットに手を入れた。

 そこには、キッチンから盗んだ小さなナイフがある。


 刃は細く、頼りない。

 けれど──私の手は迷わなかった。


 10年分の絶望と、喪失と、裏切りと、空虚。

 そのすべてが、ひとつの点に収束していく。


 私はナイフを取り出した。


 そして──物語は、ここで幕を閉じる。


 




□完結□




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― 新着の感想 ―
ルシアンが幸せになれたことを遠目で見れたから、それを励みに生きていけそうだったのに、クズ男刺してまた全うな人生から遠ざかりそう。 誰も幸せにしない男ですね。
身も蓋もない言い方したら、素性の分からないヤツの悲惨な身の上話を真に受けたら結婚詐欺師だった!って話よね。 この後、逮捕されて洗いざらいぶちまけたら、反面教師の教訓として名前と共に広く定着したりして・…
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