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後編

 ある年、井戸浚いのために井戸の外に出されていた菊が言った。

「外の世界は、時が経つのが早うございますね……。」

 昼間、白木の桶の中で泳いでいると、小さな子どもが桶を覗き込んだのだと菊は言った。

「その子が私の桶に手を入れようとした時、その子のお母様が、その子の手をそっと手に取って、優しく言いました。『駄目よ、そのお魚は井戸神様の御使いなのだから。それにしても、本当に綺麗な緋鯉だこと。』と。そうして、その子のお母様が、その子と一緒に桶の中を覗き込んだのです。それが何と、いつかほんの少しこの井戸に居て、すぐにお父様の元に帰った、あの子じゃありませんか。それはもう、驚いてしまいました。」


 菊はそれきり、その親子についての話をすることはなかった。


 この国から武士というものが消える頃、この家に女子が、次いで男子が、そして最後にまた女子が生まれた。

 その三人の子どもたちは大きくなると学校というものに通い、そこで西洋式教育とかいうものを受け、海の向こうの国々のことなど、新しい学問を学んでいるということだった。

「あら、またあの子たち、新しい歌を歌っているわ。」

 学校から帰って来た姉妹が何やら歌っているのを、菊は、半ば羨ましそうに聞いていた。

 井戸神は、菊の心が外の世界に向かっていることを知り、悩んだ。

――菊が外の世界で疎外され、傷つけられることが恐ろしい。しかし、この狭い井戸の中に留めて置くのもあまりに酷な気がする。

 しかし、なかなか決心がつかぬまま、時だけが流れていった。


 三人の子どもたちのうち、二人の女子は他家に嫁ぎ、男子は大学を卒業する直前に、分家の従妹を娶った。

 若夫婦の最初の子は、流行り風邪のためにたった五歳でこの世を去った。その二年後、待望の男子が生まれたのだが。

「井戸神様、このままではあの子は早死にします。そうなったら、この家が絶えてしまいます。」

 その翌年、井戸浚いのために外に出ていた菊が、井戸神にそう訴えた。どういうことかと尋ねると、菊は説明した。

 よちよち歩きの赤子が、縁側まで菊のいる桶を覗きに来た。たいそう可愛い子だったが、その子が頭から桶に落ちるのではないかと、菊はそれはもう、気が気ではなかった。早く母か子守か乳母か、誰でも良いから来てくれないかと思いながら、こちらに笑いかける赤子を見つめていると、その子の行く先が見えてしまったのだ。

「あんまりじゃありませんか、あんなに小さくて可愛い子が、二十歳になったと思ったら、お嫁も貰わないうちに兵隊に取られて、遠い南の島に送られた後、飢えて渇いて、味方の内で虐められて、最後は敵に骨も残さず焼かれてしまうなんて。」

 菊が本気で憤慨していた。――井戸の外でこの家の子として暮らしていた時に家族から冷遇されていたせいか、実父が頓死した時にも、実母が老病で黄泉へ旅立った時も何の悲しみも抱かなかったというのに。

 しかし、菊が井戸に他の子が来た時には、自分から面倒を見てやっていたことを井戸神は思い出した。新しい弟だ、妹だ、とはしゃいでいた気もする。

――その子が死んで、この家が絶えたら、悲しいかえ?

「当たり前じゃありませんか、この家は、私と、私の弟たちの家ですもの。」

 菊は当然のようにそう言った。

 そういえば何代目かの当主は、井戸の底で菊が面倒を見てやった銀鯉だった、と井戸神は思い出した。いつかの真白の鯉の父でもあったと思しい。

「どうしましょう、旱魃でもあれば、あの子のお父様が、あの子を井戸に放り込んでくれるでしょうか。」 

 それはあるまい、と井戸神は思った。何しろ、今の当主にはその赤子一人しか子はない。しかも、どうやら歴代の当主とは異なり、村よりも自分の妻子の方がよほど大切だと思っているらしいことを、箒神から聞いていた。

――それより、その子が兵隊に取られるということは、戦でもあるのかえ。もし左様(そう)ならば、その戦が如何なる道を辿るのか、菊には見えるかの?

「ええ、見える限り、お話しいたしましょう――。」 

 菊は井戸神に、その戦の起こりや、この国の町という町が焼け尽くされて、負け戦となることを話した。

「空から、敵が火の雨を降らせたり、素早い弾が幾らでも出て来る鉄砲を撃ってきたりするのです。火は此処までは来ませんでしたが、戦が終わる頃には思いもしないような遠方から、食べ物を求めて沢山の人が来ます。それから、国中が他所の国の軍に占領されてしまって、この家の田畑も大方取られてしまいます。今のお父様は、坊やを兵隊に取られてからは身体も気も弱ってしまうのですもの、この家とその周りをどうにか守るのがせいぜいです。」

 井戸神は菊に尋ねた。

――菊や、菊なら火の雨や幾らでも飛び出して来る鉄砲玉から逃げきれるかえ?

「そりゃあ、何処に火の雨やら鉄砲玉やらが降るか、見えますもの。」

――菊には、この家の土地を取られずに済む方法が分かるかえ。難しいなら半分残るだけでも構わぬが。

 菊が笑った。

「今のお父様よりはきっと上手くやれます。」

――それならば菊、四年お待ち。四年経ったら、人間に戻して、井戸の外に出してあげよう。

「まぁ。それは楽しみだこと。」


 こうして、四年後、今の当主の子である正と菊を入れ替えることを決めた。それまで、菊とは、様々なことを話し合った。井戸はいずれ閉ざされる。その時は鯉に変えた正を氏神の社の裏の池に隠そう。戦が終わったら菊が正を養子に迎えよう。それから、それから――。

 *           *

 四年後。菊は人間の姿に戻り、正を井戸に落としてこの家の子に成り代わった。正が金の鯉になって遊んでいる間も菊は勉学に励み、父母に孝養を尽くした。女学校に上がって間もなく母が病で亡くなると、気持ちが弱った父を優しく労った。

 ある日の夕方、菊が夕飯の前に父に顔を洗うように勧めると、父は井戸に行ったきり、なかなか戻って来なかった。

 菊が庭に出ると、父は井戸の側で倒れていた。

「お父様、目をお覚ましになって。」

 菊が駆け寄ると、父は目を開けた。しかし、その目は焦点が合っていなかった。

「……正が、井戸の底に。」

 まだ悪夢に魘されているようだった。先程、父が読んでいた書簡に薄っすらと残っていた、嫌な気配。それが父の肩に移っていた。菊は、父の肩をとんとんと叩いてその気配を祓い、父と目を合わせた。

「お父様、しっかりなさって。正さんが井戸の底にいるわけがありません。きちんと家のお墓で、お母様と一緒に眠っているのでしょう?」

「……ああ、そうだ、そうだった。」

 父の目の焦点が合い、声にも次第に力が戻って来た。

 本当は、家の墓で母と眠っているのは正の姉だが、父は井戸神が記憶に細工をしたので、自分の子は姉の菊子と弟の正で、流行り風邪で死んだのは正の方だと思い込んでいた。菊は、既に死んでしまった父の最初の子、菊子として、この幾年かを生きてきたのだ。

「お父様、お支えしますから、どうぞ肩に掴まってください。それとも誰か人を呼んで来ましょうか。」

「そんなに年寄りだと思って貰っては困るよ。」

 父は笑うと、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。

 二人は、並んで家の中に入って行った。

 菊子は父が食後の夕涼みに出ている間に、掃除にかこつけて例の手紙をこっそりと処分した。その家の因習による祟りだの呪いだのは、その家の中だけに留めて置いてほしいものだと思いながら。

 正は氏神の池で無事に過ごしており、戸籍の「修正」も菊子が学校に上がる前に済んでいた。もはやこの家に召集令状が来る気遣いはなかった。

*          *

 井戸神は夢を見ていた。

 井戸の底で、小さな鯉たちと遊び戯れている夢を。

 現実には、全ての子どもたちが揃ったことなどありはしないのに、夢の中では真鯉も緋鯉も、銀の鯉も真白の鯉も、金の鯉もいて、その他の色とりどりの鯉たちもいて、とても綺麗で賑やかだった――。


 井戸神は、かねてから、戦が終わってから二十年後に、この井戸に続く水脈が枯れることを菊から聞かされていた。

 もうすぐ自分の存在は消えてなくなるのだろうが、もう、この家についていなくても大丈夫だと思った。


 戦後の混乱が続く中、井戸神が過去の記憶を封じて幼い姿で人間の世界に戻した正を、菊子は遠縁の子――正一として引き取って育て、大学まで出してやった。この春、正一が無事に就職したので、次は良いお嫁さんを、と張り切って見合いを持ち込んでいる。その度に、正一はまだ早い、と苦笑いするのだが、菊子に全く気にする様子はない。

「あら、正一さんがお嫁さんを貰わなきゃ、妹たちだっていつまでもお嫁に行けないじゃないの。」

 正一の「妹たち」とは、菊子の産んだ娘だ。菊子は娘二人、息子一人を産んだが、正一を跡継ぎとし、下の息子には夫の家を継がせることに決めていた。

「お父さんも、お母さんに何とか言ってくださいよ、まだ僕に結婚は早いし、お見合いなんて時代遅れだって。」

 正一が菊子の夫に助けを求めると、菊子の夫はおっとりした口調で決まってこう答える。

「お見合い、大いに結構じゃないか。私も母さんと初めて出会ったのはお見合いの席だったんだからね。」 

 夫はおっとりして見えるが、菊子が辣腕を振るう際には盾にも矛にもなってくれる、なかなか頼もしい男である。

 娘たちが双子で生まれた時、井戸神は気を揉んだものだが、彼女たちも菊子に似て賢く、美しく育った。末の息子はと言えば――。

「それで、正一兄さんたら、今日も逃げるように出掛けて行ったんだけれど、どうせそこでお見合い予定の女の子に出会って一目惚れするんですよ。」

 十五歳になっても、わざわざ庭の井戸までやって来て、井戸神にそういう話をしてくれる。菊子の力を継いでいるのは、この子だけらしい。

「あ、ごめんなさい、神様。今日はそういう話をしに来たんじゃなかったんだ。」

「洋二さん、先に来ていたのね。」

 正一を送り出した菊子が、庭に出て来た。

「神様、申し訳ありません。正一さんのお嫁さんの姿を見て頂きたかったのですけれど、とても間に合いそうにありません。」

 戦で焼け尽くされた町は、この二十年で見違えるように復興し、町の象徴となる高い楼閣が建てられることになった。その楼閣の地下の基礎を造ると、水脈がそこから途絶えて、こちらの井戸に流れる水も涸れてしまう。菊は反対運動を起こすと言ったが、井戸神自身がそれを止めた。町中に水道が引かれ、井戸がもはや必要ではなくなったこともある。だが、目まぐるしく変わる時代に疲れてしまったのが一番の原因かもしれない。

「井戸神様。――いいえ、当家の初代当主であらせられます氏神様の母神様。貴女様は、長きに渡って井戸にお留まりになり、我が一族を守ってくださった母なる御方でもあらせられました。これまで当家をお守りくださったこと、歴代当主に代わり、御礼申し上げます。」

 菊子が手を合わせると、洋二もそれにならった。


――もう遠い昔のことゆえ、知る者は誰もないと思うておったに。

 水神が人間と恋に落ち、子を産んだのは、遥か昔のこと。その子が興した家の行く末が気になって、井戸の底に留まり続けたのだ。そのために、本来よりも力が落ち、出来ぬことばかりが増えたけれども。

「どうか、これよりは氏神様と共に、天より私たちを見守っていてくださいませ。」

 菊子の言葉を聴くと、神の身に力が戻って来た。

 神は玻璃のように美しく煌めく龍にその姿を変え、ゆっくりと天に昇っていく。


 龍が天に昇る途中、その龍にそっくりだが、少し小柄の龍が寄り添うようについて来た。

――ああ、母上。漸くお目にかかることが叶い申した。

 小柄の龍を振り返った龍は、まさかと眼を見開いた。

――吾子……。これは幻かの?

――幻ではございませぬ。母上の子の澄麻呂にございまする。

 龍は恐る恐る目の前の我が子を抱き締め、それが幻ではないことを知った。そして、喜びの涙をこぼしたのだった。

*        *

「晴れているのに、雨が降って来ましたね、母さん。」

 天を見上げて、洋二がそう言った。

「そうね。そろそろ、正一さんも未来のお嫁さんに出会う頃かしら。」

 菊子の言葉に、にやりと洋二は笑った。

「傘を忘れた娘さんに、自分の傘を貸すなんて、兄さんにしては気が利きますよね。」

「それが二人の馴れ初めだもの。さぁ、貴方も家にお入りなさいな。」

 菊子は洋二を促し、最後にもう一度天を見上げた。

それは輝く雨粒に隠れて見えにくかったけれども。

 二匹の龍が寄り添いあって天に昇る姿を、彼女はしっかりと目に焼き付けた。


〈了〉


 

 






 

 


 



  

 

 

菊子「だから言ったじゃありませんか、『なぁんにも心配いらない』って。」

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― 新着の感想 ―
狭いけど壮大な話でした……。
止めることのできない、時の流れ。そこには色んなものが混ざり合い変わっていく。 その様を丁寧に描写されているように感じました。 戦争経験者の祖母の話では、鯉さえも国に没収されてしまったようですから、戦争…
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