前編
虐待に関する記述や、性犯罪(未遂)、人が死ぬ描写などがあります。苦手な方はご注意ください。
深い、深い水底で。井戸神は小さな鯉たちと遊び戯れていた。歌をうたって、謎かけをして、先だって外の子どもがうっかり落とした毬を玩具にして。
真鯉に、緋鯉、金の鯉……。どの子も皆、元はこの井戸のある家の子どもだった。
この井戸のある家は代々、村の田畑を潤す用水の管理を担い、長きに渡って村の重鎮を務めていた。それは、誰がこの国の支配者になろうと変わらなかった。
この家の始まりは、神と人とが結ばれて子を成すことが、まだそれなりにあった時代に遡る。
初代は人ではあったが、母を通じて神の血を引き、神々と言葉を交わす巫でもあった。そのため、人の目には見えぬ地下水脈の流れを知り、雨を司る龍神が機嫌を損ねても、容易く宥めることが出来た。これから起こる災難を予知し、前もって備えることも出来た。
故に、人々は彼をこの村の中心と仰ぎ、何よりも大切な水の管理を委ねた。井戸神がこの家の井戸に宿ったのは、その頃のことだった。
初代の死後。その子孫にも巫の力は受け継がれ、家は代を重ねるごとに富と権威を増していった。
そして、初代を氏神として祀った祠が小さいながらも立派な鳥居のある社に変わった頃。この家の跡継ぎには、初代の力を受け継ぐ者よりも、最年長の男子の方が優先的に選ばれるようになっていた。
それは仕方がない、と井戸神も思った。神々と人々との距離が、少しずつ遠ざかりつつあることには気付いていたから。
そしてさらに時代が下ると、巫の力を持つ子が神の声を聞いたと言っても、大人たちは全く取り合わないか、滅多なことを言うなと叱るばかりになった。かつて初代がどのようにしてこの家を興したのかを知る者がいなくなったのだ。
そしてそのうち、初代と同じ力を持つ子が生まれることもなくなった。
それも致し方ないことなのだろう、と井戸神は半ば諦め、淡々と自分の務めを果たすだけとなった。
その井戸神が、初めて当主に子を捧げることを求めたのは、かつてないほど酷い旱魃の年だった。
その時の当主には、息子が二人いた。
妻を娶って五年経っても子に恵まれずに悩んでいた時に、忠実な配下が自分の末の娘を妾として差し出した。その娘は間もなく身籠り、無事に男子を産んだ。だが皮肉なことに、その数ヶ月後に本妻の懐妊が判明したのだ。こちらは難産ではあったものの、生まれてきたのはやはり男子だった。
妾が産んだ兄と、隣村の有力者の娘である本妻の産んだ弟。歳の差は僅か一つ。
当主は本妻の子が三つになったのを期に、こちらを跡継ぎと定めた。それまでも妾の子には甘い顔を見せなかったが、跡継ぎを定めてからは、庶子でしかないその立場を弁えよ、と一層厳しく接するようになった。それは何も庶子を虐げようと思ってのことではあるまい。しかし本妻は夫の方針に何を思い違いしたのか、立場を思い知らせてやるとばかりに、たびたび妾とその子を辛い目に遭わせた。
井戸神とて知ってはいた。跡継ぎとそれ以外の子の待遇を変え、両者の間に越えられない壁を設けるのは、一族間の内紛を防ぐ為の人間なりの知恵だと。
しかし、まだ五つにも満たぬ子に何かと言いがかりをつけて折檻を加えたり、その持ち物を取り上げたりする本妻の行いは、心得違いというもの。
夫としてそれを戒めるのも当主の務めのはずだったが、当主はそうしなかった。本妻の実家との揉め事を避けたかったのだろう。本妻の両親は常軌を逸するほど娘を溺愛し、娘が嫁いだ後もその態度を変えなかった。本妻が質の悪い神に守られていることを箒神から聞いた時、さもありなん、と井戸神は嘆息した。
妾の父が、娘が男子を産んだのを見届けた翌月に卒中で鬼籍に入ったこともあり、妾とその子には庇ってくれる後ろ盾も、逃げ場もなかった。
妾は本妻から課されるあれこれの雑務で食事をする暇も寝る暇もなく、過労と心労から病がちになった。そうしてとうとう、我が子が七つになる直前に儚くなった。
井戸神には、この妾が遺した子が気がかりでならなかった。
その頃から、夕餉時が終わった頃に来て、やけに水を飲むようになり、顔や手足を洗う水に、血の臭いが混じるようになった。
――ひもじい思いをしているのか、怪我をしたのか。
聞こえぬだろうと思っても、そう尋ねずにいられなかった。
「……その声は、母様なの?」
子どもが不思議そうにそう聞き返した時、井戸神は泣きたくなった。もう、初代の力を継ぐ子は生まれぬものと思っていたのに……。
――家を継ぐべきは本妻腹の弟ではなく、妾腹の兄である。
仮に当主の夢枕に立ってそう告げたとて、妾の子が跡継ぎの座に据え直されることはあるまい、と井戸神は考えた。
それどころか、跡継ぎを替えたらあの本妻が何を仕出かすことか。そうでなくてさえ、虐め殺してしまいかねないのに。旱魃の対策にかまけて家の中を顧みない当主が妾の子を守ってくれるとは思えなかった。
それならば、いっそ――。
井戸神は当主の夢枕に立ちこう告げた。
――そなたの庶長子を生きたまま井戸に入れよ。さすればこの村とその周辺の村々には、旱魃を乗り切るだけの水を与えよう。
当主はその翌日の晩、我が子に因果を含めた。
井戸神は、従容と井戸に身を投げた子を抱き止め、水の中でも生きられるよう、黒い真鯉に変えた。
そして、これまで何もしてやれなかった分を償うつもりで大切にし、可愛がった。母を亡くし、父からは冷淡に扱われていた真鯉も、すぐに井戸神を慕うようになった。
あの晩、当主が何を思っていたのかは分からない。ただ、我が子を井戸に捧げて以降、毎朝欠かさず、直々に握り飯を握って井戸の中に入れるようになった。
井戸神は約束通り、この村とその周辺を覆う雨雲を呼び、村内の幾つかの場所には地下深くから水を湧き出させた。
真鯉は十年ほど、井戸の底で暮らした。年に一度の井戸浚いのたび、上等な白木の桶に入れられて、井戸浚い人夫から「井戸神様の御使い様」と丁重に扱われ、くすぐったそうにしていた。
その当時、井戸の中で鯉を飼う家は珍しくなく、そういう鯉は井戸神の使い、或いは井戸神そのものと信じられていたのだ。
そのうち、本妻の二人の息子が疱瘡に罹って命を落とし、本妻自身も看病疲れと気落ちからか、同じ病に罹って死んだ。本妻を守っていた悪神も、疱瘡神には敵わなかったのだろう。
井戸神は真鯉を家に帰すべきかと思ったが、今更、当主が真鯉にとって良い父になれるとも思えなかった。そして結局、真鯉をあの父の手元には帰すまい、と決めた。
ある夏、当主の従兄で城下で医師をしている男とその妻が、この家を訪ねて来た。その日は座敷の庭に面した障子を全て開け放していたからか、当主と医師の話はよく聞こえた。
医師は、暮らしには困らないが、子のないことが悩みだと言った。それを聞いた井戸神は勿体ないと思った。よほど人柄が良いのか、医師と妻は、井戸の底にいてもはっきりと感じられる徳の持ち主だったから。
そこで、井戸神は決断した。医師夫妻が帰路に着いて間もない頃を見計らって、真鯉を七つばかりの人の子の姿に戻し、医師夫妻の後を追わせたのだ。
井戸神の力もあるが、前世からの縁もあったのだろう。医師夫妻が真鯉を記憶を失った迷い子と思い込み、自分たちの子として迎えたことは、懇意にしている蛙神から聞いた。
それからさらに二十年経ち、真鯉は若くして養父の跡を継ぎ、この家にも出入りするようになった。しかし当主は若い医師が実の子であるとは少しも気付かなかった。井戸神は、当主も後妻とその子らが、真鯉を「腕利きの先生」としてありがたがっているのを滑稽に思った。
これで終われば、井戸神にとってはただの真鯉との思い出であったのに。
それからずっと何十年も後のこと。真鯉の甥にあたる子の、そのまた息子が当主となって数年後、再び酷い旱魃がこの国を襲った。
するとこの当主は、躊躇いなく自らの子を井戸に投げ込んだのだ。
その子の名前は菊。紛れもなく、当主とその本妻の子であった――。
菊はその代の当主夫妻にとって最初の子だった。普通ならその誕生を喜ばれ、一族の皆から可愛がられるはずの子だった。
それにもかかわらず、両親は菊に対して格別な関心も愛情も示さなかった。乳母にはしっかり世話をさせ、着物もそれなりに良い物を着せていた。しかし、それは世間体を気にしただけのこと。
母は、家族や使用人のいない時には、子守唄の代わりに、赤子の菊の耳に恨みと呪詛を吹き込んだ。嫁いで三年、姑から早く丈夫な男子を産めと責められ続け、死ぬような思いをして産んだのに、何故男に生まれて来なかった、と。
父は家庭に関心のない人間だった。
祖父母は、いずれ他家に嫁いでいく子を特別可愛がる必要もない、と考えているらしかった。
だから、菊が三歳の時に弟が生まれると、何となく菊は家の中で疎外されるようになった。世話をしたり遊び相手を務めたりする子守は付いていたが、その子守とて、身も心も未熟な少女でしかなかった。
四つになった菊が、子守相手に庭で遊んでいた時。菊が何気なく呟いた一言に、子守は主人に対するとは思えない剣幕で噛み付いた。
「――お嬢様、そんな縁起の悪いことは言っちゃいけません!」
「……だってほんとうだもの」
「それだから、余計にいけないんですよ。お嬢様の言ったことは、決まって本当になっちまう。太助が足を折ったんだって、お千代の家が焼けたんだって、お嬢様のせいですよ。そんなに皆に災難をおっ被せる、おっかないお嬢様なんか、旦那様や奥様が可愛がってくださるもんですか!」
子守の剣幕に、菊は怯え、激しく泣き出した。そこに、菊の祖父が現れた。子守の言葉の後半が聞こえたらしい。菊に対して無関心でも、子守の無礼は許せなかったのだろう。彼は子守をきつく叱責した後、すぐに実家に送り返した。送り返された少女の実家が困窮していることは知っていたが、井戸神は気の毒とも思わなかった。
――菊の言葉は初代の力を継いで生まれた証。その言葉が災厄を招くなどと……。
井戸神は、少女の実家の井戸を涸らした。
子守の件があっても、菊が予知した内容を口にしなくなることはなかった。そこから、菊の祖父と父は、菊が特別な子だと考えるようになったらしい。彼らは菊の扱いに気をつけるよう、家人に徹底するようになり、時には甘い顔も見せるようになった。
箒神から、菊の祖父と父が、菊を内々で「神の気に入り子」と称していることを聞いた井戸神は、胸の辺りがざわついた。
大昔のように初代と同じ力を持つ子を大切にしてくれるのなら良いが、何か嫌な予感がする、と。
そして、それは当たっていた。
菊の祖父が亡くなり、当主が菊の父に替わって数年後。旱魃が村を襲うと、菊は父によって井戸に放り込まれた。この家に生まれた者は皆、村のために尽くさねばならぬ、神の気に入り子である菊の務めは、神に雨を賜わるよう願うことだ、と言い含められて。
井戸に投げ込まれた菊の着物の袂には、二度と上がって来ないよう、ずっしりと石が入れられていた。真鯉の父でさえ、ここまでの仕打ちはしなかったというのに。
井戸神は菊を緋鯉に変え、この子はずっと側に置こうと決めた。家が絶えることは望まぬゆえ雨は降らせたが、菊の父を許すことは出来ず、井戸の側で頓死せしめた。
以後、旱魃や大水害のたびに当主たちが我が子を井戸に捧げることが、習いとなった。無論、皆が菊の父のように酷薄だった訳ではない。大抵は、泣く泣く子に因果を含め、その後欠かさず子の冥福を祈って手を合わせに来る者ばかりだった。
井戸神はその子どもたちを鯉に変え、隔てなく可愛がった。菊も、井戸に入れられた子どもたちを新しい弟妹だと言って楽しげに世話を焼き、共に仲良く遊んだ。
しかし、その子たちが長く井戸に留まることはなかった。
災害後は疫病が流行る。そのため、本家や分家の跡継ぎがいなくなることも多かった。初代の血筋を絶やしたくはない。そう考えた井戸神は、家の者たちの記憶に細工をした上で、一度は井戸に受け入れた子どもを、人の世に帰した。彼らは井戸の中にいた頃のことも、それ以前のことも忘れて、人の世に馴染み、それぞれの生を全うした。
異色だったのは、ある代の当主の、八つの娘だった。その子は何故か日の高いうちに井戸に入れられた。しかも当主である父が、震える声でこう言ったのだ。
「お前を守れぬ非力の父を幾ら恨んでもよい。だが、罪のない家の者たちのことは、どうか堪忍しておくれ」
井戸神は八つの娘を真白い鯉に変え、事情を聞いた。
朝、娘が門前で遊んでいると、身なりの良い若い武家に声をかけられた。そこへ、慌てた様子で父が駆けて来て、娘を抱き寄せながら、武家に向かって膝をついた。
武家は、その見目良き娘をすぐにも当家の別荘に寄越せ、と父に言ったらしい。
父は、支度もありますゆえ後ほど、と返事をし、武家が去った後、恐ろしいことになったと呟いた。
娘が武家の別荘に参ったならば、きっとただ殺されるばかりでは済むまい、と。
今ひとつ話が飲み込めなかった井戸神は、その晩、城下を通る風の神に話を聞いた。風の神は、その武家はこの近くに別荘を持つ上級の武家の嫡男だ、と答え、次のように話した。
――その嫡男は先日、屋敷近くで九つの女子を見て意馬心猿となり、無体を働こうとした。それを偶然己の父に見咎められ、別荘での謹慎を命ぜられたのだ。おそらくその真白の鯉も、父が駆け付けなければそのまま連れ去られたに違いない。
井戸神は、幼女を狙った武家の嫡男に対し、すぐさま誅罰を下した。井戸と件の武家の別荘の湧き水が同じ水脈で繋がっていることを利用し、その嫡男だけが湧き水を飲んだ後に切腹するよう、呪いをかけたのだ。その行状の悪さから嫡男を守る神は一柱もなく、呪いは上手くいった。
翌朝。もう危険はないと見た井戸神は、真白の鯉を親元に帰した。下女が水を汲み出す時に人の身に戻すゆえ、水汲み桶に掴まって外に出よ、と教えたのだ。幼女はその通りにして外に出た。
それ以後、幼女の父は毎日井戸に手を合わせ、供物を欠かさなかった。それはかつて真白の鯉だった娘が無事に成長し、他家に嫁いでからも続いた。
他の子どもたちが井戸の外に出て行くのを、菊がどのような思いで見ていたのか。井戸神は、迂闊にも気づかずにいた。




