序章
天井まで届く大きな窓ガラスはきれいに磨かれ、春の穏やかな日差しを濁すことなく迎え入れる。
しかしその陽を背後に受けたひとりの男の登場で、エルシャの背筋には冷や汗が流れ落ちた。
ランヴァイル・ポートワイズ王子。
陽を受けて彼の銀色の髪が、海のさざ波のように輝いている。逆光で表情が見えづらいなか、不思議と瞳だけはっきりと浮かんでみえた。
「面白い話が聞こえた気がしたんだけど。婚約破棄、とかなんとか。聞き間違えかな」
からかうような、挑発するような声だった。
エルシャは言葉を詰まらせた。背後で父が「ひえっ」と怯えた声を出し、エルシャの影に隠れるように身を縮こませたのがわかる。
このオヤジめ、と心の中で愚痴をこぼしつつ、ランヴァイルの出現で止まっていた頭の回転を再開させる。
どうしよう。王族との婚約を破棄できる身分ではない。聞き間違えで貫き通すか? 別の話題を出して話を逸らすか?
ランヴァイルは長めの前髪の間からのぞく目を細める。口元に笑みを浮かべている。口を開く様子はみせない。
エルシャの言葉を待っていた。エルシャに弁解の余地を与える優しさからではない、この状況を楽しんでいるのだ。どのような言い訳をエルシャがひねり出すのか、興味を持っている。
本気で断られると思っていない、王者の、男の余裕。
そのことに、怒りで目の前が赤く染まった。胸に沸き上がる気持ちを、せき止めようと思っていた考えなどかなぐり捨てる。
相手が王族? そんなの知るか!
「ええ、婚約破棄を願い申し上げます! ランヴァイル様、あなたと私の婚約を破棄したいのです!」
後ろで、父が「ひえええっ」と泣き声をあげたけれど、無視する。目の前のランヴァイルだけを睨みつけるように見据えた。
一瞬たりとも、目をそらしてやるものか。
ランヴァイルは一瞬きょとんと目を見開いたが、次の瞬間には大口をあげて笑い声をあげる。馬鹿にしているわけじゃなく、本気で愉快そうに笑っていた。そのことに心底苛立った。
「まさか断られるとは思っていなかったよ、エルシャ嬢」
「ええ、そうでしょうね。それでは」
「でも、難しいだろうね。残念ながら、これでも俺は王族の末席に名を連ねている者。エルシャ嬢との婚約を、三人の大臣から承諾を得ている。婚約破棄するためには、当事者である俺はもちろん、同じように三人の大臣からの婚約破棄の承諾を得なければいけない。が、一度決めた婚姻を簡単に覆さない」
ランヴァイルが一歩踏み込んでくる。憎々しいことに、足が長いので一歩も大きい。あっという間に距離を詰められ、体を寄せられた。
顔が近づいてくる。髪色より深い灰色の目でのぞき込んできた。反射的に足を後ろに引いて距離を取ろうとしたが、面白がるようなランヴァイルの表情に気づき我慢する。むしろぐっと背筋を伸ばして、近づくランヴァイルの顔を堂々と迎え撃つ。
「諦めて、俺と結婚したほうがいいよ。俺のかわいいお嫁さん」
「いや、本当、そういう態度が無理なんで! ハラスメントですから、それ!!!」
「よくわからないけど、もしかして、フリじゃなくて本当に嫌がってるの?」
「ええ、もちろん! 要は、大臣から反対されたら結婚できないというわけですね。残念ながら、断られる自信があります。これからは好き勝手にやることにしましたので!」
大声で叫ぶと、体中の空気が吐き出された。体と心が求めるがまま、酸素を思いっきり吸い込んで補充する。
重厚な家具が醸す少し湿気た空気、埃っぽい匂い。それらが肺いっぱいに満たされた。
「あははは。エルシャ嬢、変わったね。別人格みたいだ」
当たっているかもしれません、とエルシャは内心で応えて笑みを浮かべた。
そう、エルシャは数時間前まで『ウルストンクラフト家の人形姫』の異名をもつ人物だった。
笑わない、話さない、動かない。まさに人形。
しかし数時間前、エルシャは思い出したのだ。別世界に住む人物として生きていた人生の記憶を。
日本という文明の発展した世界で生きていた記憶。中規模の会社で総務の仕事をしていた記憶。
思い出すと同時に、エルシャは思った。
セクハラ、パワハラ、モラハラ、などなど。
こんなハラスメントだらけの世界、絶対にいやだ!!!
「絶対、婚約破棄します!!!」
「あははは。楽しみにしてるよ、エルシャ嬢」