第98話 大規模襲撃の発端
朝のうちまでは、いつもと変わらない平和な空気が流れていたはずだった。
私はセシリア・ローゼンブルク。共和国の代表のひとりとして、今日もレオンと一緒に視察に出かけている。旧貴族派との軋轢が懸念される中でも、表向きは街が落ち着きを取り戻しているように見えたし、私自身、昨日のうちに警備強化を依頼しつつも「きっと穏便に解決できる」と信じていた。
「どう? この辺りは新たな市場が開設されたばかりらしいけれど、住民に聞いたらけっこう好評みたいね」
私はレオンと並んで、新しい露店や建物を見回る。復興が進んで街が活気づくのを見ると、ちょっと安心する。露店の主人たちが「あ、セシリア様、レオン様!」と手を振ってくれるのも嬉しいものだ。レオンは人懐こい笑顔で応じながら、店先で売っている果物に興味を示している。
「うん、思ったよりにぎわってるな。これなら商人同士の取引も活発になるはずだよ。……あ、これ食べてみるか? 甘くて瑞々しいって評判らしい」
彼が店先の果物を軽く叩いて鮮度を確かめている時、私は笑って「もう、視察というより買い物じゃない」と軽口を叩きたくなる。
でも、そののどかな空気が突然崩れたのは、ほんの一瞬のことだった。
――ドォンッッ……!
遠くで何かが爆発するような轟音が響き、地面がわずかに揺れた。何かが崩れ落ちるような音が混じり、人々のざわめきが静寂を切り裂くように広がる。
「え……な、なに今の音……?」
あまりの衝撃に、思わずその場で声が詰まった。レオンも果物を持ったまま硬直している。周囲の露店主や客たちが口々に「爆発?」「火事?」と叫び出し、走り回る音が聞こえてきた。
次の瞬間、視界の先にある建物の角から、濃い黒煙が立ち上っているのが見える。まるで悪夢のように空へ昇っていく煙に、私は心臓がぎゅっと締めつけられたような感覚を覚えた。
「レオン……まさか、あれは……」
うまく言葉にならない。それでも、彼はすぐに表情を引き締めて、私の手を引くように駆け寄る。
「セシリア、しっかり! 多分、何かの仕掛け爆弾か火炎瓶が使われたんだろう……。大丈夫、俺がついてるから!」
嫌でも脳裏に浮かぶのは、昨日のデモや旧貴族派の動き。まさかと思いたいけれど、あの不穏な予感が現実になったのかもしれない。
店先には果物が転げ落ち、周囲の人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。私の耳にも、ガラスの割れる音や金属がぶつかり合うような声が混ざって、酷い混乱が伝わってきた。
「皆さん、落ち着いてください! こちらへ逃げて!」
わたしはレオンと声を上げながら、人々が安全な方向へ走るよう促す。しかし、次の瞬間――さらに激しい爆発音がもう一度鳴り響いた。
――バンッ……ドォォンッ!!
振り返ると、何か火炎瓶のようなものが投げ込まれたらしく、建物の窓が粉々に砕け散り、火の手が上がっている。すすけた煙が視界を奪い、人々の叫びがのどかな市場を地獄絵図へ変えていく。
「嘘……こんな大規模だなんて、聞いてない……!」
胸が痛み、呼吸が苦しくなる。あまりに突然すぎる。昼間の晴れやかな空気を一瞬で奪うテロ行為――これはただのデモなんかじゃない、間違いなく戦闘を意図した攻撃だ。
そこへ、数名の黒いマスクをつけた人物が走り込んできて、怯える市民を威嚇するように火炎瓶を振りかざす。
「皆を駆逐するんだ……! 偽りの共和国め!」
その声がひび割れたような狂気を帯びていて、思わず背筋が凍る。周囲にはパニックが広がり、年配の商人や親子連れが必死に逃げようとして将棋倒しのようになっている。
レオンが眉を吊り上げ、私の前に体を差し出す。
「セシリアは後ろにいてくれ。これはもうただの小競り合いじゃ済まない……!」
「嫌よ! 私も戦える。こんな時にあなたに任せっきりなんてできないわ」
そう反論しながら、私はできるだけ怯えを封じ込めて現状を見極めようとする。さっきの爆発を起こした連中がいるなら、奴らはまだこの街のどこかで火炎瓶や爆弾を使う可能性がある。
すぐ近くでは、混乱に乗じて別の覆面の男が火を放ったようで、小さな家屋の屋根から煙が上がっている。焦げた匂いが鼻を刺し、視界がさらに霞んでいく。
「セシリア、危ない! そっちからも来る!」
レオンが叫ぶ方を振り向くと、別の男が剣を振りかざしてこちらへ突進してくる。私に気づいたのか、「革命の象徴め、消えろ!」と叫んで斬りかかる構えだ。
私は何とかそれをかわし、レオンが間に入って男の剣を防いでくれた。金属の衝突音が耳を打ち、火花が散る。市街地でこんな殺気を帯びた光景を見るなんて……苦しくて、そして怒りが込み上げる。
「レオン!」
私が短剣を抜きかけた瞬間、レオンが素早い動きで男の武器を弾き飛ばした。男がよろけた隙に、私は周りの民衆に「早くここから逃げて!」と叫ぶ。
しかし、煙と混乱の中で視界は悪く、逃げ道を見失う人々もいる。泣き叫ぶ子どもの声が胸を裂くように響き、なんとか一人でも多くを避難させなきゃ、と必死になる。
「クソッ、こいつら本気でこの街を破壊する気だ……!」
レオンが歯を食いしばり、男たちを牽制するように腕を構える。しかし、正面から敵が次々やってくるわけではなく、火炎瓶を投げ込んで混乱を作り出し、逃げ惑う人々を狙っているのがわかる。
そんな卑劣なやり方に、私は強い嫌悪を覚えながらも、冷静に自分ができることを探す。
「落ち着いて、火元を消すか、まず人々を避難させるのが先よ! レオン、私も一緒に誘導するわ!」
「わかった! グレイスや他の仲間にも連絡を取ろう……」
彼が叫ぶと、ちょうど付近で警備に当たっていた兵士たちの姿が見えた。大声で「民衆を安全な場所へ誘導しろ!」と指示を飛ばし、兵士が駆け寄ってくる。
だが、その時――また一発、爆音が空気を震わす。まるで連鎖するように、複数の仕掛け爆弾が同時に爆発したようだ。炎の舌が建物の壁を舐め、薄暗い煙が街路を覆っていく。
「まさか、これほどの規模だなんて……」
私は言葉が出ない。まるで戦場が街に再現されたような錯覚に陥る。衝撃と絶望が入り混じり、足元が揺らぐような感覚を必死でこらえながら、レオンの腕をつかむ。
「セシリア、大丈夫か? 俺が市民を避難させるから、君は安全な場所から指示して……!」
「いいえ、私も行くわ。誰がこの惨事を収拾するの? あなた一人に背負わせるわけにはいかない」
怖い。正直、手が震えているのを感じる。でも、ここで怯んでたら命を救えない。私たちは一緒に走り出し、燃え盛る街角へ向かう。
人々がパニックで押し合いへし合いになる中、レオンは「落ち着いてください! あっちの大通りへ!」と声を張り上げて誘導する。私もできるだけ大声で指示を出し、警備隊がそれに呼応して避難経路を確保しようとする。
遠くから聞こえてくるのは、覆面の男たちの叫び声と火炎瓶を投げつける音。とても“小規模”なんてレベルじゃない。誰かが組織的に準備したテロ行為……それは既定路線のように最悪の事態を生み出しているのだ。
(いったい、どうして……!? こんな方法で国を再び混乱に陥れようなんて……)
頭は混乱で回りそうになるが、なんとか心を奮い立たせる。私たちが諦めたら、この共和国は再び血の海になりかねない。
――建物の上階から吹き出す火、路地裏から上がる絶叫。街全体が地獄に変わりかけているのを眼前にして、私は怒りと恐怖で胸が詰まる思いだ。だけど、振り向けばそこにレオンがいる。彼もまた苦しそうな表情をしながら、懸命に市民を助けているのがわかる。
「大丈夫よ、私たちは必ず乗り越えられる……!」
誰に対してかも分からず口にして、私は炎に照らされた空を仰ぐ。静かだった生活が、わずか数分で恐怖と混乱に塗り替えられたこの現実――これが、旧貴族派の本気だとしたら……まだ始まったばかりなのかもしれない。