第95話 不穏な噂
朝の柔らかな光が窓から差し込むなか、わたしは机に向かって書類の山とにらめっこしていた。革命後の共和国体制が軌道に乗り始めたとはいえ、政治関連の業務は増える一方だ。ここ数日は領地の要望や周辺地域との連携案など、頭を抱えるほどの書類が届いている。
「うーん、これとこれを一緒に処理すれば、作業が重複しないはずだけど……あれ、でも担当部署が違うのね」
自分でつぶやきながら、ペン先で書類を指し示す。どこかの村長が提出した開墾計画と、貴族の元屋敷を公共施設に転用する案が重なり合っているようで、どうにもうまく調整がつかないらしい。
そのとき、執務室の扉がノックされ、官吏らしき人物が入ってきた。細身の体躯に地味な上着をまとい、あきらかに緊張している表情が窺える。
「失礼します、セシリア様。先ほど、情報担当から報告が入りまして……最近、旧貴族派がなにやら妙な動きをしているとの噂があるようです」
思わず眉をひそめる。旧貴族派は王太子に忠誠を誓っていた一部の貴族たちで、革命後は表向き大人しくなったはずだが……。
「旧貴族派……具体的にはどんな動きなの?」
官吏は書類を取り出しながら、一枚を私の机の上に広げる。そこには「地下組織らしき者たちが夜な夜な集会をしている」との記述が、曖昧な筆跡でまとめられていた。まだ信憑性ははっきりしないが、不吉な予兆を感じさせる。
「情報の正確さは不明ですが、彼らが“いつか王政を復活させる”と唱えているらしい、と。資金や兵器の調達もこっそり進められている可能性がある……とのことです」
官吏の声には明らかな不安が混じっている。でも、私としては大騒ぎする前に、まずは冷静に事態を把握したい。静かに息をつきながら書類を一読してみるが、断片的な噂ばかりで確かな証拠には乏しい。
「わかったわ。とりあえず、担当者にもう少し調査を続けてもらって。騒ぎにするには早いけれど、何か事件につながるような証拠が出れば、すぐ報告を」
そう指示すると、官吏は安堵したように頭を下げ、「では、失礼いたします」と部屋を出ていく。ドアが閉まると、室内には再び静かな空気だけが残った。
わたしは書類を見やりつつ、胸の奥にかすかな不安が生まれる。……とはいえ、今の共和国は多くの市民が支持していて、旧貴族派が簡単に王政を復活させられる状況ではないはずだ。正直、そこまで大きな脅威になるとも思えない。
「けど……念のために気をつけないとね」
そうつぶやいて、再び仕事に没頭しようとした矢先、執務室の扉がこんこんと鳴る。ゆるりと扉が開いて現れたのは、見慣れたレオンの姿だった。明らかにリラックスした面持ちで、わざわざ私を訪ねてくるなんて珍しい。
「セシリア、頑張ってるみたいだね。大丈夫か? そろそろ休憩を入れたらどうだ?」
彼の声を聞くと同時に、思わず肩の力が抜ける。緊張していた自覚はなかったけれど、レオンが来たことで一気に安心感が広がった。
「ちょうどいいところに来たわ。あなたにも聞いておきたい話があるの」
私は先ほどの書類を取り上げ、簡単に概要を説明する。旧貴族派の陰謀めいた噂と、いまだに自分たちが王政を取り戻そうとしている可能性があるという件だ。
説明を終えると、レオンは少し険しい表情を浮かべて、一枚一枚書類をぱらぱらとめくりながら確認する。
「……なるほど。ま、噂レベルと言っても、放置はよくないな。旧貴族派の動きは一応警戒しておいたほうがいい。でも俺も、いきなり大騒ぎするほどじゃないと思うよ。彼らが本気で王政を復活させる力があるなら、とっくに動いてるはずだから」
わたしもうなずく。彼がそう言うのなら、私が感じている警戒が過度ではないはずだ。
「そうよね。情勢は私たちを支持する勢力が圧倒的だし、旧貴族が資金や兵器をひそかに集めていても、すぐに力を振るえるわけじゃない。……それでも、一抹の不安は拭えないわ」
私が肩をすくめると、レオンが穏やかに微笑み、手を伸ばして私の頭をぽんぽんと叩く。ささやかな仕草だけれど、彼にこうされると何故か照れてしまう。
「大丈夫だよ。セシリアが心配するのも分かるけど、革命軍として頑張った仲間だっているし、現行の共和国を支える兵も少なくない。旧貴族派が馬鹿なことを始めようとしても、俺たちが抑えられるさ」
彼らしく、力強い言葉。私は思わず笑みがこぼれる。
「あなたがそう言うなら、少し安心できるわね。いちおう情報担当にはしっかり目を光らせてもらうように指示しておく。それで様子を見ましょうか」
「うん、それがいいだろう。状況を見つつ、必要があれば俺も動くからさ」
少しだけ強張っていた背筋が、彼のひと言ですっと楽になる。考えてみれば、わたしは彼と共に革命を成し遂げたじゃないか。いまさら旧貴族派のちょっとした陰謀が何だというのだろう。
わたしはレオンと一緒に書類を机に置いて、改めて大きく息を吐く。すると、彼が軽く首をかしげて言った。
「そういえば、まだ昼飯食べてないんじゃないか? さっきグレイスが“セシリア様は休みなく働いてる”って心配してたぞ」
その名を出された途端、私は苦笑する。あのドジな侍女が気を遣うなんて、これまた珍しい。
「本当にあの子はドジなんだけど、意外と周囲をよく見ているところがあるのよね。じゃあ、休憩がてら何か食べましょうか。……あなたも忙しいんでしょう?」
「まあな。でも、こうして君と一緒に昼を食べられるなら嬉しいもんだ。グレイスが新しいスープを用意してくれたらしいから、試してみないか?」
「そうしましょう。気になってたの。……噂の件は、とりあえず後で再度検討してみるけど、深刻に考えすぎないようにするわ」
そう言ってレオンと視線を交わす。この国が平和になってから、私たちは公務の合間にこうして一息つけるようになった。本当にありがたいことだ。
勝手に不安に駆られて戦々恐々とするより、落ち着いて情勢を把握しながら、みんなと協力して対策を練ればいい――それが今の共和国の強みでもある。王太子が独断で暴走した時代とは違って、いざとなれば仲間が集まってくれるはずだ。
「じゃ、行こうか。あの子がまたこぼさないうちに、さっさと食べちゃおう」
「ふふ、そうね。グレイスが転んだら全部台無しだわ。下手するとスープが床に……考えたくない」
「だから、今すぐ行くべきだろ」
「ええ、賛成」
そんな軽口を叩き合いながら、わたしはレオンとともに執務室を出る。外には明るい光が射し込んでいて、廊下に並んだ花瓶の花が優雅に揺れていた。
旧貴族派の不穏な噂――気にはなるけれど、いまはまだ大騒ぎにするほどでもない。きっと、これも共和国の一歩として乗り越えられる障害なのだろう。少なくともレオンと私はそう信じている。
心の中の不安をほんのり抱えながらも、私はそれを忘れさせるかのような暖かい雰囲気の中で、彼の腕をつかんで足早に歩き出した。こぼれる笑い声と、遠くから聞こえるグレイスの「きゃあ、またやっちゃった!」の声――そんな日常が愛おしくてたまらない。




