第94話 未来を語り合う夜
夜の帳が降りるころ、私はレオンとふたり、屋敷の小さな書斎で静かに過ごしていた。
明かりは控えめにランプ一つだけ。昼間の喧騒が嘘のように穏やかな空気が漂っていて、まるでこの世界には私たちだけしかいないかのように感じられる。かつては戦場や政務で追われて、こんな時間を取ることすら難しかったのに、今ではこうして落ち着いて語り合える夜がある。
私はすでにローゼンブルク家という高貴な肩書きは形骸化し、今はただレオンの妻として、そしてこの国の一市民として生きている。でも、不思議と心はとても満たされているのだ。
「セシリア、疲れてないか? 昼間にあれだけ書類をさばいたのに、まだ机に向かってるんだな」
背後からレオンの声が聞こえてきて、私は机に置いた書類の手を止める。彼はいつの間にか私の椅子の後ろに来ていて、そっと肩に手を置いた。
「ええ、少しだけ確認しておきたくて。今日の議会で決まった項目をまとめていたの。……でも、もうこれくらいにしようかしら。あなたの顔を見たら、なんだか安心しちゃった」
「はは、俺にそんな癒やしの効果があるなら光栄だよ。でも、本当に頑張りすぎは禁物だぞ。休むのも大事だからな」
レオンの声には優しい響きが混ざっていて、私はふっと微笑む。彼の手を肩からするすると滑らせて、そのまま振り向いてみると、ちょうど目が合う。ランプの淡い光に照らされた彼の瞳は、まるで穏やかな湖面のようだった。
私はそっと書類を閉じ、椅子を立って彼の隣へ歩み寄る。外ではかすかに虫の声が聞こえる。戦乱の名残は完全には消えていないけれど、こうして平和な夜を迎えられる喜びを噛みしめながら、私はレオンの手を取った。
「レオン、あなたとこうして一緒にいられるのが、まだ時々夢みたいに感じるの。戦いの頃はずっと張り詰めていたから、今の当たり前がこんなに幸せだなんて……」
「……俺も、正直な話、こんな風に君と静かな夜を過ごせる日が来るなんて想像してなかったよ。あの暗い夜会の日から、長かったような、あっという間だったような」
私たちは思い出すともなく、あの革命の記憶を胸に抱えながら、お互いを感じ合う。以前は喉を締めつけるような恐怖や緊張ばかりだったが、今は違う。暖かな、安心できる距離――それがここにある。
「ねえ、レオン。今日は……何も考えずに、ただゆっくりしてもいいかしら?」
「いいよ。俺も資料は明日回しにして、今日は君の顔だけ見ていたい」
「もう、少し甘い台詞が多いわね? 前はもっと照れてたくせに」
「はは、もしかして色々経験を重ねて、俺も場数を踏んだのかな。戦いよりこういう場の方が緊張するが……君と夫婦になった今なら、多少は慣れてきたんだと思う」
その口ぶりに、私は思わずくすりと笑ってしまう。あんなに不器用だったレオンが、ちょっとした冗談を言えるようになるなんて、随分進歩したものだ。
遠くから時計の音が小さく刻を告げる。ゆったりと流れるこの夜を堪能するように、私はレオンと手を繋いだまま窓辺へ向かう。カーテンを開けると、星空が広がっていて、まるで宝石を散りばめたように輝いている。
「セシリア、どうかした?」
「ううん、ちょっと星が綺麗だなと思って。……今の私たちは、この星空を見上げながら将来の話をしてもいいっていう、そんな自由があるのよね。昔は想像もできなかった」
「そうだな。王太子に抑圧されていた頃は、明日を迎えられるかさえ分からなかったから」
昔の自分を思い返すと、王太子の傲慢に苦しんでいたり、必死に反乱の種を探していたり、そんな暗い日々が思い浮かぶ。でも、すべて乗り越えて今がある。
レオンは私の肩をそっと抱き寄せ、まるで何よりも大切な存在を守るように優しく力を込める。その温もりに安心しながら、私は頬を窓の冷たいガラスにすり寄せて、星空を仰いだ。
「……レオン。もし、いつか私たちの間に子どもが生まれたら、どんな国を見せてあげたいか、考えたことある?」
「子ども……か。そうだな、あんまり想像してなかったけど、最近はいろいろ考えるようになったよ。きっと、子どもが生まれたら、君に似て賢そうで俺に似て元気な子がいいな、なんて」
「ふふ、でもあなたも賢いところあるじゃない。それにわたしだって元気なんだから、どの要素をどちらがあげるかはわからないわよ?」
「なるほど。それもそうだな……じゃあ子どもには、君の美しさと俺の……俺の何かな? とにかく、いいとこ取りしてもらおう!」
「もう、うまく誤魔化さないでよ。それでも、わたしも子どもにあなたのまっすぐさを受け継いでほしいと思ってるわ」
そんな他愛のない会話をしていると、不意に胸がきゅっとなる。王太子と婚約していた頃は、子どものことなんて考える気にもなれなかった。それが今では、こうして大切な人との未来を語り合える。何度繰り返しても、胸に温かさが広がる。
「わたし……子どもができたら、この国がどうなるかを見せてあげたいの。もう、王や貴族が威張り散らす世界じゃなくて、自分の意見を言える場所がある国。戦うだけが道じゃない国」
「うん。俺たちが作ろうとしている共和国は、まさにそのために始まったんだよな。子どもたちが争いに怯えず、自由に夢を描ける国――簡単じゃないかもしれないけど、きっと君となら成し遂げられると思う」
「ありがとう、レオン。あなたがいるから、私もそう思えるわ」
そう言って彼を見上げると、レオンはそっと私の髪を撫でてくれる。大きくて、でも繊細なその手のひらに触れられるたびに、私の心は安心で満たされる。
星々の光が部屋の中にわずかに差し込み、彼の顔を薄く照らしている。私は彼の瞳を見つめながら、自然と笑みがこぼれた。
「なんだか甘い雰囲気ね。……でも、いいわよ、こういうのも」
「そうか? 俺はいつでも甘い雰囲気大歓迎だけど……」
「もう、調子に乗らないで。……でも、大好きよ、その少し不器用で優しいところが」
私が素直に言葉にすると、レオンは照れたように目を逸らす。そういうところも昔から変わらない。
しばらく沈黙が流れる。だけど、それは決して気まずいものじゃない。穏やかで、互いの存在を感じる夜の沈黙――私は、それを心地よく味わう。
外からは風の音が聞こえ、遠くには人々の生活の息遣いが続いている。戦が終わって得た日常は、こうして確かに続いているのだ。
「セシリア……明日も、領地の視察があるけど、一緒に行けるか?」
「もちろん。必要な書類はグレイスに届けてもらうとして、実際に足を運ばなきゃわからないことも多いし。あなたがまとめてくれる資料に私も目を通したいわ」
「わかった。じゃあ、朝早めに出発しよう。寝坊は厳禁だぞ?」
「言ってくれるわね。あなたこそ、寝坊ばかりじゃない」
「え、俺はそんなに寝坊しないよ!」
「ふふ、そんな言い合いしてると眠り損ねちゃうわね」
軽口を交わしながら、私はもう一度レオンに寄り添い、彼の腕に抱きしめられるように身を任せる。彼の鼓動が心地よく伝わってきて、まるで子どものように安心してしまう。
しばらく無言のまま、星空を眺めていた。戦いばかりだったあの頃には信じられないほどの静けさと幸福感――私は心から、この平和が続くことを願っている。
「わたし、あなたと一緒にいれば、どんな困難でも乗り越えられるって確信してるの。だから……これからも、一緒に頑張りましょう?」
「ああ、もちろん。君の夢も、俺の夢も、二人でなら叶えられるはずだから」
「ありがとう。じゃあ、そろそろ寝ましょうか。明日に備えなきゃ……でも、後でちょっとだけおしゃべりしてもいい?」
「構わないさ。夜は長いんだから、好きなだけ話そう。朝起きられなくなっても、二人なら仕方ないか」
「もー、あなたって……まぁいいわ。明日は絶対起こしてよね?」
「はは、承知したよ。我が妻を二度寝させないように努力するさ」
そんな他愛のない会話が、何にも代え難い宝物に思える。私は夜の空気を一度深く吸い込み、幸せの形を確かめるように吐き出した。
窓の外には、星々がきらめきながら新しい未来を祝福しているように見える。わたしはレオンと手を繋いで、静かに寝室へと向かう。最後にふと振り返った夜空の向こうにも、きっとまだ越えなきゃいけない問題が待ち受けているのかもしれない。
でも……いまはそれでいい。平和を手に入れたこの国で、わたしとレオンが築く日常を守りながら、明日も努力すればいいのだ。確かなことは、私たちはもう一人じゃないということ。二人、そして仲間たちがいれば、きっと大丈夫。
「おやすみ、レオン。明日もがんばりましょ」
「おやすみ、セシリア。大好きだよ」
彼の腕が私の肩を優しく引き寄せ、そっと唇が触れる。闇の中でも顔が赤くなる自分に笑ってしまいそうだけど、これが私たちの当たり前の愛情表現なのだろう。
戦いのない夜、甘い時間を分かち合いながら、私たちはゆっくりと目を閉じる。明日へ続く一歩を想像しながら――これこそ、私が望んだ平和であり、私たちの歩む未来なのだ。