第8話 王宮へ向かうレオン
夜会当日の夕方――。
俺とグレイスは宿の狭い一室で身支度を整えていた。まだ日は落ちきってはいないものの、空には淡いオレンジ色が混じり始め、そろそろ王宮へ向かわねばならない時間だ。
「レ、レオン様、リボン……じゃなくて、この襟元のネクタイがうまく結べなくて!」
「はあ……落ち着け、グレイス。自分のリボンじゃないんだから、そう慌てずにゆっくりやればいい」
「で、でも時間もあんまりないし……あっ、ほらもう、また曲がっちゃった!」
俺の正装は普段とはまるで違う華やかさを帯びている。襟も袖も飾りが付いていて、いつも着ている質素な服とは段違いに着心地が落ち着かない。
グレイスが必死に整えてくれているけれど、肝心の彼女自身も侍女服を少しアレンジした形で、普段とは違う可愛さ――いや気品? を目指しているらしい。結果、二人して慣れない衣装を着てバタバタ状態だ。
「だ、大丈夫ですか? これで失礼のない服装になってます? 王都のお店で買った簡易の正装だけど……」
「少なくとも恥はかかない程度には見えるだろ、たぶん。俺だって王都の貴族のドレスコードとか詳しくないけどさ。まあこれが精一杯だな」
「わたし、ドジしないように気をつけますね。せっかくの夜会に泥を塗らないよう……」
「夜会って場所がそもそも未知数なんだけどな。とにかく頑張るしかない」
身だしなみを整え、馬車に乗って王宮へ。宿からそう遠くはないが、やっぱり王宮のある地区は別格で、門をくぐるあたりから高級馬車がひっきりなしだ。立派な紋章を掲げた車や、派手な装飾のついた馬たちが列を成して並んでいる。
周囲を見ると、まばゆいドレスやタキシードに身を包んだ貴族たちが、すでに夜会の始まりを待ちわびるかのようにうろうろしている様子だ。いやはや、こんなきらびやかな行列に混ざるとか、場違い感がすごい。
「こんなところ、本当に俺が行っていいのか……うわあ」
「きゃー! 隣の馬車の飾りが豪華すぎます。金色の羽飾りがついてるんですね。すご……」
「おい、グレイス。あんまり馬車の中で暴れないでくれ、落ちそうだぞ」
「す、すみません。でも見るもの全部が新鮮で……!」
馬車がゆっくりと王宮正門へ近づく。間近で見ると、その門の大きさは圧巻だ。飾り彫刻が施され、両脇には衛兵が槍を携えて立っている。
一歩中に入れば、壮麗な庭園が広がっていて、華やかな花が夜でも映えるよう明かりが仕込まれているようだ。おまけに、奥には巨大な宮殿がそびえ立つ。いったいどれだけの費用をかければ、こんな建物を維持できるのか想像もつかない。
「これは……すごいな。王都の貴族街とはまた次元が違う」
「はい……わたし、息が止まるかと思いました。王宮の庭園ってこんなに広いんですね。お花、夜でもちゃんとライトアップされて……きれいです」
「そ、そうだな。でもぼんやり見とれてたら目的を忘れそうだ」
馬車を降り、衛兵がいるゲートに並ぶ。何台もの馬車が次々と来るため、係の者が手際よく誘導している。
順番が回ってくると、衛兵がこちらに近づいてきた。鋭い眼差しで、俺の身分証を求めている。
「ご招待の方だな? お名前をうかがおう」
「クリフォード領のレオン・クリフォードです。こちらに招待状を……」
慌てて差し出す招待状を、衛兵が丁寧に確認している。グレイスは横でハラハラしながら見守り、そのうちヒヤッとした声を出した。
「だ、大丈夫ですかね……。下級貴族が呼ばれるなんてやっぱり珍しいとか……」
「しっ、声が大きい。おい、衛兵がこっち見てるぞ」
「すみません……」
衛兵は招待状の文面と俺の顔を見比べ、「……確かに王太子殿下の招待客だな」と言って通してくれた。緊張で一瞬心拍数が跳ね上がったけど、どうやら問題なしのようだ。
続いて、敷地内の案内役の従者が来て、「馬車はこちらでお預かりしますので、あちらの入口からお入りください」と腰を低くして誘導する。俺たちは言われるまま宮殿へ歩を進める。
周囲を見回せば、並んで歩いている貴族たちはどれも品のある装いだ。俺とグレイスの服も一応正装だけど、それでも見劣りするのは否めない。しかし、もう来てしまった以上、どうこう言っても仕方ない。
「レオン様……ドキドキしてきました」
「俺もだ。お前が自然体でいてくれた方が助かるけど……まぁ無理はするなよ。とにかく堂々と、な」
「はい、がんばります。……あ、あれ、わたしの裾が何かに引っかかって……」
「……ちょ、気をつけろよ、転ばないように!」
いろいろと紆余曲折を経て、ようやく王宮の大きな扉へ辿りつく。そこにはさらに身分確認があるらしく、名簿を持った係が名前を読み上げる。その先にいよいよ夜会の会場があるのだろう。すでに音楽のかすかな旋律が聞こえてきて、華やかな空気が漂っているのがわかる。
グレイスが小声でささやく。
「レオン様、ほんとに……行くんですよね」
「行くさ。ここまで来て帰るわけにもいかないだろ」
「それはそうですけど……。わたしたち、ちゃんとやっていけますよね?」
「……わからん。でも、臆する必要はない。俺たちにも誇れるものはある。領民の支えや、父の期待だって背負ってるんだから」
自分に言い聞かせるように俺は息を深く吸う。この夜会はきっと、ただの華やかなパーティーでは終わらない気がする。それは胸の奥でざわつく不安とも似た予感だ。
衛兵のチェックを終え、名簿係が俺の名前を読み上げると、大扉が静かに開く。暖色の照明に照らし出された大広間――そこには、まばゆい社交の舞台が待ち受けている。
「行こう、グレイス。こっからが本番だ」
「は、はい……! レオン様、わたし、しっかりついていきます!」
こうして、夜会の入り口に足を踏み入れた俺たち。華やかな楽曲が一層響いてきて、大勢の貴族たちがグラスを片手に会話を弾ませている姿が見えた。
胸の高鳴りを抑えきれないまま、一歩踏み出す。これが俺の、そしてグレイスの、運命を大きく動かす夜の始まりになる――そんな予感が背筋を震えさせたのだった。