第78話 ライナス率いる傭兵隊
王都の城壁の上からは、先ほどの激しい交戦の名残がかすかに見えた。城門前を大きくえぐるように血と瓦礫が散乱しているが、革命軍の大半は後退し、包囲を再編している。そんな様子を無表情に眺めていたのは、黒いマントを羽織ったひとりの男だった。
ライナス・ブラックバーン。王太子フィリップの雇った傭兵隊の隊長として、この場にいる。しかし、彼の瞳にはどこか冷めた光が宿っているのが分かる。すぐ隣では王太子軍の将校が昂った声で怒鳴っていた。
「何をしている! 早く下の連中を射殺せんか! 包囲網を抜ける前に、奴らを焼き払えと殿下は仰せだ。民衆だろうが革命軍だろうが、まとめて消し去れ!」
「……なるほど。市街地もろとも、ね」
ライナスは低くつぶやいた。遠目には、城下町の一部が革命軍の攻撃と王太子軍の迎撃の余波を受けて混乱している様子が伺える。しかし、今は主戦力が後退したため、大規模な衝突は一旦小康状態になっていた。
それでも王太子軍の指揮官がなお執拗に攻撃を続行しろと叫ぶのは、包囲されたストレスと、殿下の“やるなら徹底的に潰せ”という方針ゆえだろう。
「ライナス、貴様たちも黙っていないで、下に降りて敵を追い討ちしろ。ゲリラだの革命だのと言わせるか。全員皆殺しにするんだ!」
「……それが殿下のご命令か? 革命軍は既に下がっているのに、民衆まで巻き込む意味があるのか」
ライナスは抑えた声で応じるが、将校は顔を赤くして食ってかかる。
「貴様が雇われの身であることを忘れるな。命を受けて働くのが傭兵の定めだろうが。殿下の意向に疑問を抱くなど身の程知らずだ!」
「身の程……ね」
ライナスはしばし城壁の下を眺めた。そこには戦いの爪痕が残り、血がこびりついている。足元の甲板には矢が散乱し、かすかに焦げた匂いが漂っていた。
彼の背後では、同じ傭兵隊のメンバーが神経質に周囲を見渡している。金目当てで集まったはずの部下たちも、王太子軍のやり口には内心限界を感じているのだろう。最近は指揮官であるライナスに「もうこれ以上、罪もない人々を殺すのは勘弁だ」と訴える者が増え始めていた。
「隊長……奴ら、本気で市街地ごと焼けと言ってますよ。もし従わなかったら、殿下側に裏切り者扱いされるのは間違いありません。だけど、俺たち……本当にやるんですか?」
「……黙ってろ」
一瞬、そう言いかけたライナスだったが、その声音はむしろ揺れている。傭兵として金を受けている以上、契約通り働くのが筋だ。ところが、これ以上の無差別な蹂躙に加担することに、既に嫌悪感が頂点に達しているのを自覚していた。
ふと、城壁の先、遠くに見える革命軍の旗が風に揺れているのが目に留まる。俺たち傭兵が逆にあちら側につくとして、果たして受け入れてくれるのだろうか。いや、それ以前に全員を引き連れて去るのも至難の業だ。
王太子に逆らえば、それこそ命は保証されない。しかし――
「ライナス、何を渋っている。下の門を開いてでも出撃しろと言っているんだ。耳が聞こえないのか?」
将校がライナスの腕をつかもうとした瞬間、ライナスは鋭く振り払った。
「……触るな。俺は王太子に雇われた傭兵であり、貴様の部下じゃない。敬語くらい使ったらどうだ?」
「貴様……!」
将校が激昂しかけるが、ライナスの放つ威圧感に飲まれ、思わず後ずさる。背後では傭兵たちがざわついており、空気がピリリと張り詰めた。
一瞬の沈黙の後、ライナスは部下に向けて静かに口を開く。
「……この戦、あまりに筋が通っていない。王太子は勝手に民を焼くよう命じてるが、俺たちがそれに従う理由は金だけだ。だが、そんな金で心まで売る気はない。お前らはどうだ?」
「隊長……俺たちも、こんなのはもう御免だ。金で片づく問題じゃねえ。昨日も村を襲えだの、手当たり次第に殺せだの理不尽な命令ばかり……」
「俺らだって好き好んで虐殺に手を貸したくねえっすよ。もし何かほかの道があるなら、ついていきたい」
傭兵たちが小声で口々に言う中、ライナスはゆっくりと首を振る。こうして皆が限界に達しているのを確かめ、心を決めたように青い瞳を細める。
「なら決まりだな。……この場で契約を破棄しよう。俺たちはここから引く。革命軍につくかどうかは分からんが、少なくとも王太子に加担はしない」
「な、何を言うか! 契約違反だぞ、貴様ら! 殿下の名を何だと思っている!」
将校が血相を変えて怒鳴るが、ライナスは風を切るように背を向け、部下たちに手を振る。
「俺たちは“報酬”という契約の範囲で動いていた。しかし、破棄はお互い様だ。お前たちが言っている要求は、もはや契約外の暴挙だろう。市街地もろとも焼けだなんて……付き合いきれん」
将校が剣を抜きかけるが、その瞬間にライナスの部下たちが素早く武器を構えて牽制する。王太子軍の兵が周囲で慌てるが、何人も傭兵隊に取り囲まれて進むに進めない。
「じゃあな。後は好きにしろ。俺たちは撤退する……王太子に伝えてくれ。ライナス・ブラックバーンはこれ以上、地獄の片棒を担ぐ気はないと」
ライナスの言葉と同時に、一斉に傭兵たちが下へ動き出す。城壁を守っていた王太子軍は「おい、待て!」と口々に叫ぶが、傭兵隊の統率はライナスのもと盤石なため、混乱する王太子兵が手を出す前に通路を進んでいった。
この一連の騒動で、城壁上の防備体制に一瞬の乱れが生じる。ライナスたちが抜けた箇所を、王太子兵が埋めるのに戸惑い、指揮系統が混乱しているようだ。
「な、何をしている! そこをカバーしろ、傭兵隊が抜けた穴を埋めるんだ!」
「そっちにも兵が足りません! 梯子部隊が来たら対応できません!」
動揺の声が飛び交う中、ライナスはすでに隊を率いて城内通路を駆け下りていく。彼らが城門付近に到達すれば、一部の扉を開けて突破するかもしれないし、あるいは別のルートで城外へ消えていくかもしれない。
遠くからその動きを見ていた革命軍側も、馬上の兵士や偵察が「あれは傭兵隊が抜けているようだぞ……?」と騒ぎ始める。セシリアやレオンが遠方からその奇妙な動きを確認し、何かが起きているのを直感する。
「……あれはライナス・ブラックバーンの隊か? まさか、王太子に逆らって撤退する気か……」
革命軍の指揮官の一人が驚き混じりにつぶやく。もし傭兵隊が本格的に寝返るなら、城壁の防衛が大きく崩れるだろう。実際、城壁の一部区画が手薄になっているのは確認できる。
案の定、混乱の波紋が広がり、城壁上の守備兵が慌てて配置を変えようとしている。そこにうまく梯子を掛けたり、門へ接近したりできれば、革命軍が突破口を開くチャンスかもしれない。
「これで城壁の一部が崩れて門へのアクセスがしやすくなるかもしれない……! みんな、急げ!」
誰かがそう叫ぶのを合図に、先ほどの攻撃で引き下がっていた革命軍の一部が再度前に出る。包囲を維持しながら、空いている区画へ楔を打ち込もうと試みているのだ。
一方、王太子軍の将校たちはライナスの離脱に大混乱し、「裏切り者だ!」と叫びながらも追撃する兵を割けない状況だ。城壁の守りが手薄になり、門近くにも暗雲が立ち込める。
「くそっ、あの傭兵隊、金だけ受け取って逃げるつもりか……! 追え! 殿下に顔向けできんぞ!」
王太子軍の一部が必死に城内を駆け回るが、ライナスたちは無駄な戦闘を避けるように動き、城外へ向かうか、あるいは裏道へ消えていった。
こうしてライナス・ブラックバーンの傭兵隊が王太子の元を離れた影響は甚大だった。王都守備における一大戦力がごっそり抜け、城壁防衛に穴が生じている。その事態をいち早く嗅ぎつけた革命軍側は、包囲網をより強固にし、城壁への再突撃を考え始める。
王都の空は曇天に包まれ、まるで来たる大嵐を予感させるようだ。その下で、王太子軍の士気は下がり、革命軍の方は「チャンス到来か?」と色めき立ち、戦局が大きく動こうとしている。
ライナスたちが去った後、城壁上では王太子軍の将校が苦い顔をして指揮を振るう。
「隊長、どうしますか? 傭兵隊が抜けた以上、こちらの兵力だけで城壁を支えるのは難しいかと……」
「黙れ! 殿下に報告だ。裏切り者のライナスは後で徹底的に追跡して処分する。まずは城壁を死守……死守するんだ!」
だが、守るべき城壁が広範囲に渡るため、守備兵が散らばり始めている。そこには革命軍が漬け込む隙が必ずある。
この離反は小さな出来事に見えて、王太子軍の支配が崩れる兆しでもあった。ライナス・ブラックバーンは完全に革命軍へ寝返ったわけではないが、それでも王太子軍の大きな戦力が離れた事実は揺るぎない。おまけに守備の要所を埋めるため、手薄な区画が出てくるのは必至だ。
「……ま、俺たちは俺たちで勝手に動くだけだ。革命軍がどうなるかは知らん」
どこかの路地裏から聞こえた低い声。城内を抜けるライナスが吐き捨てるようにつぶやき、部下が「隊長、行き先は?」と問う。彼は少しだけ口元を歪めて答える。
「とりあえず城外へ逃げる。どのみち王太子とは縁が切れたからな。民衆の虐殺なんて、もう御免だ。……今後、革命軍と手を組むかどうかは後で考えよう」
そうして、闇に溶け込むように消えていく。
一方、遠くからそれを見ていた革命軍の兵士たちは、「傭兵隊が抜けたぞ!」「城壁に隙がある!」と興奮し、さらに攻めの姿勢を強める。先ほどの正面攻撃で痛手を負ったが、今度は王太子軍が薄くなった区画を突くチャンスかもしれない。
戦況はまさに激変の最中だ。王太子軍の主力傭兵がいなくなったことで、城壁の防御は混乱をきたし始め、革命軍の包囲がより狭まろうとしている。ライナスが残した穴が、門へと続く活路を開く鍵になるかもしれない――そうして、まるで大波が寄せるように、決戦へ向けた流れは加速するのだった。




