第76話 決戦前のひととき
翌朝、陽が昇りきる前に野営地はにわかに慌ただしくなっていた。戦闘の支度を進める兵士たちが、鎧の点検や武器の最終チェックに追われ、周囲はどこか殺伐とした空気が漂う。皆、今日はただの行軍ではなく、本格的な戦闘が起こりうることを悟っていた。
「デニス隊、どうだ? 兵の装備は足りてるか?」
「はい、鎧や槍は一通り準備できました。弓矢も補充済みです。ただ、やはり全員が揃ったわけでは……」
「わかった。焦らず合流してくれ。別働隊の確認にも回るから」
俺は野営地の中央を歩きながら、あちこちで声をかける。昨日から少し睡眠を取っただけだが、戦いへの緊張と高揚で眠気は感じない。周辺では騎兵が馬を整え、物資係が弾薬や薬草を管理していた。
「レオン様、おはようございます!」
「おお、グレイスか。今日はどの部署を手伝ってるんだ?」
声をかけてきたのはグレイスだ。彼女は笑顔で手を振りながら走ってくるが、もうすでに嫌な予感がする。昨日の夜から落ち着かずにバタバタしていたし、なにかしらやらかすのではと心配になる。
しかも本人は黒いマントか何かを抱えて猛ダッシュしている。どうやら誰かの衣装を運んでいるらしい。
「あ、セシリア様から預かってた服を……きゃああっ!」
まさに予感的中。地面の微妙な起伏に足を取られ、グレイスは盛大に転倒した。胸いっぱいに広げていた衣装が宙を舞い、野営地の地面へダイブ。一瞬の悲鳴とともに、泥の混じった土が衣装にべったりとついてしまう。
俺も思わず「おわっ!」と変な声を出して後ずさる。どうやら被害は衣装だけに留まらず、彼女自身も顔から土に突っ込んでしまったらしい。
「だ、大丈夫か!? グレイス!」
「うわあん、ごめんなさい! やっぱりわたしって……あ、ぎゃああっ!」
さらに悪いことに、丁度そこを通りかかったセシリアが状況を目撃してしまった。きっとこの衣装は彼女の大事な指揮服なのだろう。特別な仕立てのマントやドレス風の装飾が施されていて、汚れると厄介だと思うが……まさに今、それが泥まみれだ。
「グ、グレイス……これは、わたしの衣服……しかも、今日のために用意していた特別仕様なのに……」
セシリアは一瞬絶句する。周囲の兵士が「あーあ、やっちまった」と気まずそうに目を逸らす。俺も思わず「これは修羅場かな」と背筋が冷えるが、グレイスは半泣きで慌てふためく。
「すみません、セシリア様! わたし、急いでたら足元がつまずいて……で、でもそんなに汚れてないですよね? このくらい洗えば落ちますかね……」
「洗えば落ちるかもしれないけど……今日はすぐにでも指揮用の衣装が必要なのよ。まったく……」
セシリアが呆れ混じりに額に手を当てる。彼女が本気で怒ると相当怖いが、いまの様子はそこまで切羽詰まった感じでもない。むしろ、かなり手痛い失態なのに、なんだか苦笑している風に見える。
「はは、まあ、グレイスらしいな。まったくもってドジとしか言いようがないが……大丈夫だ、セシリア。別のマントも用意してあるだろ? 少しシンプルにはなるけど、そっちを使えばいい」
「そうね、わたしの予備があるから……昨日からこうなる予感はしていたわ。グレイスが服を運んでいるのを見たら、少し嫌な予感がしたのよ」
セシリアが肩をすくめると、周囲の兵たちがくすくす笑い出す。「ほんと、グレイスお嬢には気をつけないとな」「戦いの前にちょっとした笑いができてよかった」と、見事なまでに場が和んでいる。
グレイス本人はすっかり意気消沈の体で服を拾い上げ、泥をぺしぺしと払い落としていた。
「うう、セシリア様ごめんなさい……でも、わたしどうしてこんなにいつも転ぶんでしょうか……。こんな朝っぱらから……うう、わたしってば……」
「まったく……いいわ。指揮服の代わりはちゃんとあるし、その汚れたのは後で洗ってちょうだいね。グレイス、あなたはもう少し周囲を見て走りなさいな」
セシリアは少しだけ苦い顔をしているが、失望や怒りというよりは呆れ半分、諦め半分という印象だ。兵士の中には口元を押さえて笑いを堪える者もいて、堅かった空気がほんのり和らいでいた。
「わざとじゃないんですー……でも、こんなことばかりで皆さんに迷惑かけるなんて……」
うなだれるグレイスを、俺が軽く叩いて立ち上がらせる。
「いいんだよ、グレイス。これが戦い前のピリピリをほぐす効果があるんだからな。兵士たちだって、こっちを見て笑ってるだろ? 悪い意味じゃなく、助かったって言ってるように見える」
「え? 助かった……?」
グレイスが目をパチクリさせ、兵士たちも「おい、ありがとな! 逆に気が引き締まったぜ」と声を掛ける。泥んこになった指揮服を見て「うわあ……すげえ泥だな」と苦笑する者もいたが、それだけで周りの緊張が解けたらしい。
「ほら、せっかくの大事な衣装が台無しだっていうのに、セシリアもそこまで怒ってないだろ? それは、お前がやらかしがみんなの和みになってるからだよ」
「そ、そんな……わたしが役に立ってるのかどうか、よくわかりませんけど……。お役に立ててるなら、うう、よかったのかな」
グレイスはきょとんとした表情で自分の失敗を見下ろしているが、周囲からはまたくすくすと笑いが起きる。と同時に「よし、こっちも頑張るか!」と気を取り直して武器を点検する兵が増えていた。
セシリアは泥のついた衣装を改めて確認すると、口元にかすかな笑みを浮かべてから言う。
「ドレスというほどじゃないけど、これが駄目になったのは痛いわ。でもいいの。代わりのマントを羽織れば指揮はできるし、皆がこんなに楽しそうなら悪くない。今朝は戦闘前のピリピリが肌で感じられたから……ありがとう、グレイス」
「えっ、セシリア様が“ありがとう”なんて。あ、あの、いえ、すみません、やっぱりわたし悪いことしちゃって……」
「いいのよ。失敗は痛いけど、今回はちょうど良かったかも。これでまた士気が上がったから」
ツンとした口調を残しながらも、セシリアはやや満足げに腕を組む。グレイスは目を潤ませつつ、周囲の兵士たちに「ごめんなさい」と頭を下げて回るが、皆が「ドンマイ!」と返してやり、大きな笑い声が広がった。
俺も改めて大きく息を吐きだしてから、野営地の中心に向けてみんなに声を掛ける。
「よし、これで目も覚めたな。準備できた者は各隊の集合地点に集まってくれ! 今日はいよいよ王都に近づく大事な日だが、焦らず行こう。笑いと気合いで、王太子をぶっ倒すんだ!」
「おう!」
「やってやるぞ!」
部下たちが一斉に歓声を上げ、装備を整えながら散っていく。その中で、ぐったりしているグレイスをセシリアが軽く支え、苦笑しているのが見えた。彼女がツンとした声で何か言っている。
「まったく……あなたはもう少し慎重になりなさい。別に大失敗していいわけじゃないのよ? 今回はたまたま良い方向に転んだだけなんだから」
「は、はいっ! 次こそは絶対気をつけます……あわわ、転ばないようにゆっくり歩きますね」
微笑ましいやり取りに、俺も思わず口元が緩む。戦場の緊張感の中にも、こういうコメディがあるからこそ皆が笑って前に進めるんだ。
俺は少し目を伏せ、心の中で「よし」と気合いを入れ直す。泥だらけになった指揮服には悪いが、これで皆の士気はまた一段高まった気がする。最後に改めて声を張り上げた。
「さあ、行くぞ! 王都を解放するんだ! みんな、気を抜かずにしっかり準備してくれ!」
ドタバタの余韻が残る空気の中で、兵士たちが「おう!」と答え、次々に動き始める。セシリアとグレイスも小さく笑みを交わしながら、再び役割をこなすべく散っていった。
こうして、俺たちは決戦へ向けた最後の朝を迎える。緊張に押し潰されそうになる一方で、ほんの一瞬でも笑いあえる仲間がいるからこそ、踏みとどまれる。泥まみれの衣装とグレイスの大失態が生んだ笑い声が、見事にみんなの心をほぐし、新たな一歩を踏み出すきっかけをくれたのだ。
振り返って、俺は王都の方角を見据える。もう後戻りはできない。けれど、この仲間とともに立ち向かうのならきっと大丈夫だ。兵士たちの顔は引き締まっていても、悲壮感よりは希望の光が伺える。さあ、ついに戦いの幕が上がる――そんな胸の高鳴りを噛みしめながら、俺は深呼吸して足を踏み出した。




