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第75話 ささやかな時間

 夜の闇が深まる頃、野営地の中央を離れて少し歩いた先に、小さめのテントがひとつ建っていた。薄い布越しにランタンの灯りが揺れ、外から見ると温かな光が滲んでいる。大規模な軍議を終えたあと、俺はセシリアと一緒に地図の最終確認をするため、このテントへ入ったのだ。


「……思ったより静かね」


 セシリアが小さなため息をつきながら、机代わりの折り畳みテーブルへ地図を広げる。外の喧騒からは少し離れた場所だからか、ここにはほんの少しだけ落ち着いた空気が流れていた。明日の夜以降は、ここまでゆっくり会話する時間が取れるかどうか分からない。


 俺はランタンを調整し、地図が見やすいよう明かりを少し強める。


「さっきまで兵たちと話していたから、余計に静かに感じるな。みんながワイワイ騒いでいるのも、戦前の落ち着かなさの裏返しかもしれないけど」

「そうね……誰だって、不安と興奮が混ざっているのは同じかもしれないわ。わたしも、正直言って、怖いもの」


 セシリアがぽつりとつぶやいた声には、いつもの毅然とした響きはなく、少し弱さが滲んでいた。俺は思わず彼女を見やり、心配そうに眉を寄せる。


「やっぱり……怖いか? そりゃそうだよな。俺も、明日の状況次第ではどうなるか分からないって考えると、胸がざわつくよ」

「……でも、あなたがいるから。わたし、何とか立っていられるの。あの……何度も言っているようで、恥ずかしいんだけど」


 セシリアがうつむき加減になりながら、テーブルの端を握りしめる。その姿がどこかか弱く見えて、普段の高貴な(たたず)まいを知る俺としては思わず胸がきゅっとなる。


 俺は言葉に詰まりながらも、軽く手を伸ばして彼女の肩に触れた。自分でも驚くくらい手が震えているのが分かる。戦いの準備を主導する立場として、必死に平静を装ってきたが、本当は俺も不安だらけだ。


「セシリア……俺も、同じ気持ちだよ。君がいなかったら、ここまでまとめあげることは無理だったと思う。いつも助けてもらってばかりで、ありがとう」

「……なにそれ。わたしだって、あなたに助けられてばかりよ。焼かれた村を見たときも、絶望に陥りそうだったのに……あなたがいたから踏みとどまれた」


 セシリアが少しだけ顔を上げる。ランタンの明かりが彼女の瞳を照らし、震える光が見えた。お互いの距離はほんの一歩分。テントの中という閉ざされた空間が、気恥ずかしいほど二人を近づけているのを感じる。


 小さな沈黙ののち、俺は彼女の手をそっと取った。冷たい指先が、かすかに震えている。お互いに緊張しているのが伝わってきて、逆に温もりを確かめたくなった。


「セシリア……いつか、この戦いが終わったら、ちゃんと話したいことがあるんだ。いや、ずっと前に気づいていたけど、今は戦いが最優先で言い出せなくて……」

「ううん、いいの。わたしも分かってる。今は革命軍を率いるあなたとして、余計な気持ちに振り回されるわけにはいかないでしょう?」

「まぁ……そうだけど。俺は君に……あ、いや、何でもない」


 思わず言葉を飲み込む。決戦の前夜に愛の告白めいた話を始めるのは場違いかとも思うが、いつ命を落とすか分からない状況だからこそ、伝えたい気持ちもある。


 けれど、セシリアは「ふふっ」と微笑んでくれた。少し照れくさそうに頬を染めながら、俺の手をぎこちなく握り返す。


「わたしたち……こんな形で出会って、ずいぶん遠回りしてきたわね。あの日、あなたが王太子に真っ向から逆らった夜会のことを思い出すと、懐かしいわ」

「そうだな。あのときは正気じゃないって言われたよ、周りの貴族には。俺自身も、どうしてあんな無茶をしたんだろうって思うけど……でも、後悔はしてない」

「……わたしも、あの夜を忘れられないの。あのまま殿下に従い続けていたら……想像したくもない。だから、あなたが声を上げてくれて救われたのよ」


 セシリアの目に涙が浮かぶ。俺は焦って「泣かないでくれ、こういう場面で泣かれると、どうしていいか分からなくなるんだ」と言葉を投げるが、彼女は小さく首を振り、笑みをこぼす。


「ごめんなさい……別に悲しいんじゃなくて、嬉しいの。でも、怖いの。もしあなたが傷ついたら、わたし、どうなるんだろうって。明日からの戦いで、あなたの身に何かあったら……わたし……」


 胸が締め付けられる思いだ。セシリアの言葉はまさに俺の気持ちでもある。もし戦いで、どちらかが倒れたら、どうなるんだろう。生きる意味を失ってしまいそうで怖い。


 だからこそ、俺は震える彼女の手をもう少し強く握った。お互いの鼓動がテントの中で混ざり合っている気がする。


「大丈夫だ。絶対に生きて戻る。……君を置いてどこかへ行くつもりはない。むしろ、一緒にこの国を変えて、その先の未来を――」

「未来を……何?」

「いや、別に。終わったら、いろいろやりたいことが山ほどあるって話だ。王太子に蹂躙されてきた地方を再建したり、魔の手から解放された人々と笑顔を取り戻す手伝いをしたり……」


 本当はもっと先のことを言いたい。たとえば結婚とか、落ち着いた家庭とか。でも、言葉に出すにはあまりに恐れ多いし、今はそんな余裕はない。ただ、セシリアが隣で小さく微笑んでくれるだけで胸が満たされる。


 すると、セシリアはランタンの光で照らされたテーブルに目を落とし、「ねぇ、地図の確認を終えないと……」とつぶやいた。


「そ、そうだな。俺たち、地図を見に来たんだっけ。やっべ……つい話が横道にそれてた」

「ふふ。もう少しだけ、こうしていたかったけど……仕方ないわ。決戦前夜なんだもの。仕事を後回しにはできない」


 名残惜しい気持ちを抑えながら、俺たちはぎこちなく手を離し、それぞれ地図に目を移す。しかし、さっきまでのロマンチックな雰囲気がまだ消えていなくて、気づけば何度も目が合ってしまう。


 結局、数分程度で地図の確認を終えたあと、セシリアは笑って「これでいいわね」とまとめる。そのままランタンを少し弱めて、立ち上がった。


「……ありがとう、レオン。少しだけ、ほっとできた。明日から本当に厳しい戦いが待っているだろうけど、わたし、頑張る」

「俺も頑張るよ。君の力が必要だから、絶対に無理はしないでくれ。……二人で最後まで生き抜くんだ」


 再び沈黙が落ちる。テントの入口からは夜風が入り込み、ランタンの炎が揺れる。俺は躊躇(ためら)いながらも、そっとセシリアの肩を抱き寄せた。ぎこちないスキンシップだけど、ずっと心が求めていた。


 セシリアも一瞬驚いたように息を呑むが、やがてそのまま身を預けてくる。テントの外で兵士の話し声や足音が聞こえるのに、ここだけは二人きりの空間だ。


「レオン……わたし、あなたを失うなんて考えられないの。だから、絶対に生きて戻ってきてね」

「わかってる……。君だって、無茶はしないでくれ。お互い、まだ伝えたいことは山ほどあるんだからさ」


 彼女が小さく笑うのが分かる。夜の闇に沈み込むようにして、ほんの数秒だけ静寂が訪れた。外の世界が遠のいたような錯覚の中、俺はセシリアの髪から漂う香りに胸が詰まる。


 しばらくして、セシリアは名残惜しそうに身を引き、かすかな照れを浮かべてランタンを手に取る。


「……ごめんなさい、わたし、ちょっと顔が熱いから先に出るわ。レオンも早めに休んでね。明日も早いから」

「うん……ありがとう。気をつけて。夜道は暗いからな」

「まったく……わたしの方があなたより夜道に慣れてるわよ。夜会の帰りなんか散々経験してきたんだから」


 ツンとした口調が戻ってきたものの、セシリアの頬はかすかに赤く染まったままだ。俺も恥ずかしくなり、視線を逸らす。彼女はテントの布をめくり、足早に外へ消えていった。


 残された俺は、ランタンの淡い光の下で静かに息を吐く。怖いと感じる部分もあるが、同時に心の底から奮い立つものがあった。


(絶対に守る。セシリアを、みんなを、そして俺たちが紡ごうとしている未来を――)


 決戦前夜の闇がテントを包む。明日の朝日が昇る頃には、また大きく情勢が動くかもしれない。でも俺は迷わない。何があっても、一緒に生き抜くと誓ったんだ。


 ほんの数分のささやかな時間だったが、セシリアと確かめ合った気持ちは何よりも大きな支えになる。外では兵たちの巡回が続いているし、やるべきことは山ほどあるけれど、今夜くらいは、この温かい余韻に包まれて眠りたいと思った。


(戦いが終わったら、いつか真っ直ぐ気持ちを伝えよう。決して君を孤独にしないと――俺はもう逃げない)


 そう胸に刻み、俺はテーブルに並んだ地図をざっと確認すると、ランタンの火を少し弱めて深く息を吐いた。勝利を信じて、そしてセシリアの笑顔を守るために。夜の静寂が広がるテントの中、俺はかすかな決意を灯しながら目を閉じる。明日へ向かうための短い眠りに、そっと身を任せるのだった。

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