第66話 セシリアの再決意
私――セシリア・ローゼンブルクがいま身を置いているのは、仮設の医療テントだった。壊滅した村から、あるいは戦場の片隅から運び込まれた負傷者たちが所狭しと並び、悲鳴やうめき声が絶えず響いている。
揺れるランプの淡い光の下、複数の医師が血に塗れた包帯を交換し、侍女や民兵の若者が慣れない手つきで薬箱を探る。前日の焼き討ちで深刻な火傷を負った村人もいれば、王太子軍との小競り合いで骨折や切り傷が絶えない兵もいる。医薬品も決して潤沢ではなく、私たちは限られた物資で応急処置に追われていた。
「その手当てはまだか? 止血が不十分だ!」
「こっちの包帯が足りません! 誰か倉庫から追加を……」
「くっ……痛い、あああっ……」
一瞬にして体の芯が冷えるような叫び声が飛び交う。こんなにも惨たらしい光景を、わたしは王都でもそう多くは見なかった。戦場の最前線で生死をさまよう人々を目の当たりにすると、息が詰まりそうになる。
けれども、いまは立ち止まっていられない。わたしにできることは限られているけれど、その“限られたこと”を最大限に発揮するしかない。
「……あの方の火傷には冷たい水と軟膏を。あと、この薬草を煮出した液を布に浸して患部を覆ってあげてください」
「セシリア様……ありがとうございます。こういう薬の使い方、初めて聞きました」
近くにいた侍女が私の指示で動きはじめる。王太子と婚約していたころ、あるいはローゼンブルク家で教育を受けていたころ――思えば、さまざまな知識を学ばされてきた。それがいま、こんな形で役に立つとは。
わたしは薬草や調合用の道具を手渡し、次に血まみれの布を抱えた兵士のもとへ駆け寄る。地面に仰向けのまま動けない彼は、太腿に深い切り傷を負っているらしい。
「そのまま安静に! こちらで傷口を固定しましょう。あまり動くと出血が止まらないわ」
「う、ぐ……すみません、セシリア様……痛みが……」
「耐えて。いまから薬を塗るから……大丈夫、落ち着いて深呼吸して」
取り出した薬瓶は、王都から持ち出した希少な治療薬の一部で、それを薄めて使わないとすぐ底をついてしまう。少しでも傷の感染を防ぎたいが、数がまるで足りない。
医師や侍女に的確な指示を出しながら、私自身も手を汚すことをためらわずに消毒液を使って布を浸す。高貴な令嬢としての誇り? そんなものはとっくに捨てた。いまは、一人でも多くの命を救いたい、それだけだ。
ふと、横たわった兵士の苦しげな息遣いに応えようと、わたしは静かに言葉をかける。
「あなたたちが必死に戦ってくれたから、村の人が救われた部分もあるの。どうか、自分を責めないで……必ず治してみせるわ」
「セシリア様……ありがとう、ございます……」
兵士は半分意識を失いかけながら、かすかに微笑む。それだけで私の胸は苦しくなる。こんなところで泣いてはいけない。わたしが泣いたら、皆が混乱してしまう。
少し離れた場所では、水くみの係や炊き出しの係が忙しなく動いていた。火災や戦闘で家を失った村人へ、少しでも温かい食事をと用意しているのだが、食料も限りがある。あちこちで「不足だ」「鍋が足りない」などの声が交錯している。
(わたしにできることは、まだあるわ。医薬品の管理を調整しなくちゃ。あと……そう、炊き出しの配置も適切にしないと……)
自分の頭の中で優先順位を組み立てる。
一度に全部は無理。それでも一歩ずつ、目の前の混乱を整理するしかない。わたしは疲れた体を奮い立たせ、近くの侍女に声をかける。
「そちらの炊き出しは、できるだけ傷病兵や年長者を優先に配って。グレイスに伝言を。物資倉庫で調整してもらえるようにお願いするわ」
「かしこまりました! セシリア様、こちらにはまだ布団や毛布が足りないという報告が……」
「わかったわ。後で倉庫へ行って確認しましょう。とにかく皆に伝えて、絶対パニックにならないようにね」
部屋の奥で火傷の手当てをしていた医師が「セシリア様、こちらにも薬を!」と呼ぶ声がする。心が折れそうな悲惨な光景だけど、ここで止まるわけにはいかない。私は急ぎ足で向かう。
(わたしは……無力だと感じている。それでもやるべきことは山ほどある。こんな仕打ちを目にして、王太子を許すわけにはいかない)
頭の片隅で、王太子の高圧的な態度や冷たい笑みが浮かび、胸が怒りに燃える。焼き討ちに遭った村の人々の苦痛を目の当たりにすれば、どれほど残酷なことをやられているか、痛切に感じる。
かつては王太子の婚約者だった私が、今はこうして彼の犠牲者の血と涙の中にいる。不思議な運命だと思うが、同時に強い意志も生まれている。彼の身勝手がもたらす苦しみを、一刻も早く止めなくては。
「……王太子はこれほどの理不尽を積み重ねて、まさか後悔しないと思っているのかしら。絶対に、許せないわ」
どこかで自分の声が震えているのを感じたが、泣き叫ぶ暇などない。薬箱を抱え、医師と共に負傷者のもとへ急ぐ。
その合間に負傷した兵や村人が「セシリア様、あなたがいて助かった」と言葉をかけてくれる。本当は私なんかがいるだけでは到底足りないのに。それでも、少しでも支えになっているというならば、もっと頑張らなくては。
「こんな惨状を黙って見過ごすわけにはいかない。殿下には、必ず報いを受けさせる」
しっかりと心の中で誓う。これまで高位貴族として温室育ちだった私が、まさかこんな場所で生々しい血の匂いを感じながら助力するとは、昔の自分なら想像もできなかっただろう。
でも、いまは迷う余裕さえない。悲しみと怒りが私を動かしているのかもしれない。苦しむ人を放っておけないし、自分の手でできることは何でもやりたい。
「セシリア様、最後の包帯がもう切れそうです……替えを探していますが、どこにあるか……」
「ああ、倉庫の奥に少しだけ予備があったはず。すぐ手配するわ。ガーゼが足りないなら古い布でも清潔に洗って使って。衛生には気をつけてね」
「かしこまりました。すぐに準備します!」
そんなやり取りを繰り返し、私たちは一人でも多くの命をつなぎ止めるよう奮闘する。時々、泣き叫ぶ声を聞くたびに心が砕けそうだが、それでも足を止められない。これが戦いの現実。
遠くで、まだ王太子軍との衝突は続くのかもしれない。レオンたちが必死にゲリラ戦を展開しているのだろう。それを思うと、私が弱気になるわけにはいかない。
「……わたしがローゼンブルク家の名を持っているなら、こんなところで泣いてばかりもいられない。皆を救うため、そして王太子を止めるために、わたしの力を全部使うわ」
心の奥でそう決意すると、不思議と視界がクリアになった気がする。レオンがどんなに無理をしてでもこの領地を守りたいと言っていたように、私も動じるわけにはいかない。
次から次へと押し寄せる苦難に、必死で対処しながら、そして心の底に燃える怒りと哀しみを力に変えて――私は今ここにいる。王太子が引き起こしたこの地獄絵図を、いつか終わらせるために。
(必ず終わらせる。そうしないと、犠牲になった人たちが報われない。レオンと一緒に、この戦いを勝ち抜いてみせる)
その強い思いを胸に抱きながら、わたしは再び傷病兵のもとへ駆け寄った。血と消毒薬の匂いで息苦しい空気の中でも、希望を捨てられない。辛くとも、一歩ずつ前へ進むしかないのだと自分に言い聞かせる。
全身は泥と灰にまみれていても、わたしの魂は以前よりずっと熱く燃えている。この地獄のような惨状にピリオドを打つために、わたしは再び立ち上がる。セシリア・ローゼンブルクとして、レオンたちと共に、王太子への反撃を決して諦めない――そう固く誓いながら、私は次の患者へと歩み寄った。




