第58話 グレイスの大失敗?
夜もかなり更け、領主館の廊下はしんと静まり返っていた。
討伐軍の脅威が迫るなか、俺とセシリアは作戦会議の資料やら領民への通達書やらを抱えて執務室へ向かっていた。さっきまで微妙な空気が漂っていたけれど、今は少し落ち着いて、照れと気まずさが入り混じったような感覚だけが残っている。
「……もう少し、作業が溜まってるんだよな」
「わたしも書類の分類を進めたいし、領民への新しい指示書の整合性を確認しなくちゃ。レオン、まだ大丈夫?」
「平気、平気。眠気はあるけど、これを片づけないと明日に持ち越して大変なことになるし……」
そんな会話をしながら、薄暗い廊下の先にある執務室のドアを開ける。部屋の中もやはりランプの灯りだけが頼りで、外は月の光がうっすらと差し込んでいる。
さあ、ひと仕事と思った矢先――突如ドタバタと走る足音が、こちらへ近づいてくるのがわかった。
「レオン様~! セシリア様~! たたた大変です~っ!」
甲高い声とともに、勢いよくドアが開かれて飛び込んできたのはグレイスだった。慌てすぎてバランスを崩したのか、彼女は足をもつれさせながら室内へ突入。そのまま机に置いてあった書類の山に顔面からダイブして、どしゃっと派手に転ぶ。
「きゃあっ……うそ、い、痛い……!」
「グレイス!? 大丈夫か!」
慌てて駆け寄ると、彼女はテーブルの端で勢いよくおでこを打ったらしい。顔をしかめて涙目になっている。セシリアは呆れたような表情で溜息をつきながらも、その様子をのぞき込んだ。
「ちょっと、何があったの? そんなに慌てて……そしてこんな派手に転ぶなんて。まったくあなたは……」
「す、すみません、わたし、すごく焦ってたんです。あの、大事な書類が見つからなくて……いろいろ探してたら、あわわ、転んじゃって……!」
グレイスが書類の山を崩したまま、床を這うように必死に拾い集めている。見渡すと、あちこちに紙が散乱していて、先ほどまで俺たちがきれいにまとめようとしていた作業が台無しだ。
「ええと、何の書類? まさか、王太子に関する機密文書か?」
「はい、そうなんです。王太子派の領主の動向をまとめた書類が紛失しちゃって、わたし……あれ、ここにある紙は違うし、あれも違う……あああ~、どうしよう!」
床に散らばる紙を片っ端から確認しては「違う、違う!」と大騒ぎするグレイス。セシリアは腕を組んだまま、表情をきつくするでもなく、しかしやれやれと言わんばかりの溜息を漏らした。
「落ち着きなさい。わたしが分類した書類なら、アルファベット順にファイルをまとめてあるから、そこを見れば一目瞭然よ。ほら、この棚の二段目を覗いてみて」
「そ、そうなんですか!? あ、すみません! わたし、そこまで確認せずに慌てて……」
グレイスは急いで棚のほうへ走り、言われたとおり二段目を探す。すると「ありました~!」と安堵の声を上げる。どうやら紛失と思い込んでいただけで、ちゃんとセシリアがファイリングしてくれていたらしい。
ほっとしたのも束の間、グレイスは嬉しさのあまり勢いよく立ち上がり、棚の角に肘をぶつけて盛大に転び直す。
「きゃあ! いったあ~っ!」
「こ、こら……大丈夫か? グレイス、ほんとに今日はどうしちゃったんだ」
俺は慌てて手を貸すが、グレイスはまた涙目になって「痛いです~……」と悲鳴を上げる。書類をしっかり抱えたままなので散乱せずに済んだのは幸いだが、部屋には彼女の大騒ぎがこだまする。
セシリアは肩を落とし、呆れた様子で首を横に振る。
「まったく……こんな夜にこんな調子で来られたら、こっちが台無しだわ。書類もめちゃくちゃになっちゃうし……」
「す、すみません、セシリア様……で、でも、ちゃんとファイルが見つかったから、結果オーライですよね!」
「あなたってほんとにすごいわね……よくそのドジっぷりで毎日過ごせるものだわ」
その声にはいつもの棘はなく、どこか柔らかさが混ざっている。俺はというと、さっきまでセシリアと二人きりで妙に意識しあっていた雰囲気が、一瞬でぶっ飛んでしまったことに半分安堵し、半分残念な気持ちになる。
あまりにグレイスのドタバタが激しすぎて、先ほどまでの微妙な空気が跡形もなく消し飛んだのだ。
「まあ、でも無事に書類が見つかったならよかったよ。ありがとう、グレイス。この書類がないと俺たちも困ってたし……」
「はい! わたし、どうしても見つけなきゃって思って……あっ、あはは、結局セシリア様がちゃんと整理してくれてたなんて、知らなくて大失敗しちゃいました」
グレイスは頭をかきながら笑う。おでこには少し赤い痣ができているが、本人は痛みに耐えつつも元気そうだ。まるで天真爛漫なマスコットのようで、俺たちが深刻になりすぎるのを防いでくれる存在でもある。
セシリアは軽く溜息をつき、微笑むとも呆れるともつかない表情で声を投げる。
「ほんとにあなたは……わたしの整理がなかったら、今ごろ大騒ぎになってたわね。少しは注意して行動なさいな」
「はい~、すみません~……でも助かりました、ありがとうございます!」
グレイスがペコペコ頭を下げるのを見て、セシリアはクスリと笑みをこぼす。いつもならツンとした態度になるところだが、今はどこか柔和な空気をまとっているのがわかる。
俺はその笑顔を見て「おや?」と胸が温かくなる。最近、セシリアは領民やグレイスのドタバタに対して、少し優しい表情を見せることが増えた気がする。
「セシリア、どうかした? なんだか、いい表情だね」
「え? 別に何でもないわよ。ただ……あなたたちの慌ただしさにつられて、少し肩の力が抜けただけ。こんな時期に馬鹿みたいだけど、悪くないかもしれないわね……こういう時間も」
そう言ったあと、彼女はグレイスへ向けて続ける。
「書類が見つかって安心したなら、そろそろ自分の仕事に戻りなさいな。わたしとレオンにはまだ作業が残ってるんだから、また騒ぎを起こされると面倒だわ」
「は、はいっ! お騒がせしました~!」
グレイスが書類をしっかり抱え直し、慌てて部屋を出ていく。その足音が遠ざかると、再び静けさが戻る。先ほどまであった微妙なロマンスめいた雰囲気は跡形もなく吹き飛んでしまったが、不思議と嫌な感じはしない。
セシリアは視線を外しながら、小さな声でつぶやく。
「まったく……あの子には振り回されるわね。でも、ほんの少し……救われたかも。今は重苦しいことばかり考えなきゃいけないから、彼女のドジで笑える余裕があるのはありがたいわ」
「うん、そうだな。俺も同じだ。いきなり突っ込んでくるから、思わずこっちも力が抜けたよ」
お互い微妙に赤い顔をしているが、言葉を交わしながらどこかホッとする気持ちが湧き上がってくる。このドタバタが無ければ、もう少し気まずい緊張感が続いていたかもしれない。
俺はセシリアの笑顔を見ながら「ああ、これも悪くないな」と胸中で思う。こんなふうに、ほんの少し笑える時間があるだけで、討伐軍が迫る絶望感を和らげることができるから。
「さて、残りの作業をちゃっちゃと終わらせて、今夜は早めに休もう。明日からまたバタバタになるだろうし」
「ええ、そうしましょう。グレイスの大失敗のおかげで、わたしも変に気負わずに済むかも」
セシリアの言葉には確かな優しさが混ざっていた。ドジっ子の乱入でロマンスムードは台無しになったけれど、それでも彼女が柔らかく微笑む姿を目にできたことで、俺の心は満たされる。
こうやって、いつもの日常と苛烈な戦いの準備が入り混じった日々が続いていく。王太子が起こそうとしている大嵐を前に、俺たちは必死になって耐えるしかない。しかし、こうした小さな笑顔や、ちょっとしたドタバタが、張り詰める空気を緩和してくれるのだ。
(まだまだ苦しい道だけど、こうしてみんなで支え合っていけば、きっと乗り越えられる。たとえ数千の討伐軍が迫っていようとも、希望は捨てないんだ)
そう自分に言い聞かせながら、机に向かって書類を拾い集める。セシリアも向かいで同じように片づけを始めたが、口元にはわずかな笑みが残っている。彼女がほんのり笑ってくれるなら、俺ももう一歩がんばれそうだ。
グレイスの大失敗は、確かに散らかった部屋と混乱をもたらしたけれど、それ以上にこの重苦しい戦況にちょっとした息抜きをもたらしてくれた――そんな気がしてならなかった。




