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第56話 緊張の日々と二人の距離

 討伐軍が迫っているとわかってから、クリフォード領には重苦しい空気が漂うようになった。村々ではあちこちで兵や民兵が訓練に勤しみ、鍛冶屋や商人たちも物資の確保に奔走している。子どもたちの笑い声が少なくなり、大人たちの表情はいつもどこか張り詰めている。


 そんな日々が続くうち、俺自身も朝から晩まで作業が山積みで、息つく暇がほとんどない。時々、声をかけ合う仲間たちの顔も疲れが見え、笑顔が消えがちだった。まるで、いつ起こるかもしれない大きな嵐を前に、全員が必死に備えているようだ。


 そんな中、ある夜、作業が遅くまでかかった。作戦会議や書類の確認、民兵の訓練計画などが重なり、いつもの執務室には俺を含む数名が集まっていたのだが、夜更け近くになるとアイリーンもグレイスもデニスも、皆限界だといって一旦休みに入った。


「うう、もう頭が回らない……続きは明日でもいいかしら。レオン、セシリア様、お先に失礼するわね」

「わたしも……ふああ。すみません、眠気が限界で……」

「デニスが先に下がるなんて珍しいけど、この二日間ほぼ寝てなかったしな」


 そんな調子で人が次々と抜けていき、気づけば広いテーブルには俺とセシリアだけが向かい合って座っていた。しんと静まり返った室内では、ランプの灯りが淡く揺れている。書類の山はまだ未整理のものが大量に残っていて、目の奥がじんじん痛む。


「……もう少し、続ける?」


 セシリアが書類の束をまとめながら問いかける。彼女の声音にも疲労がにじんでいるが、妙な集中力で踏ん張っているのがわかる。


「そうだな……少しだけやろう。明日までに段取りを決めたいし。とはいえ、君も無理しなくていい。あんまり夜更かしして体を壊したら大変だし」

「わたしなら平気よ。このくらいの寝不足には慣れてる。王都にいた頃は連日夜会があったりしたから……」


 そう言うセシリアの横顔は、ランプの光に照らされてどこか艶やかだ。いつも凛とした彼女が、こんな残業のような地味な作業に付き合ってくれるのはありがたい。それに、最初のころはあまり距離感を縮められなかったけれど、今はこうして自然に言葉を交わせている。


 その事実に胸が温かくなるが、同時に苦しさも込み上げてきた。戦いがいよいよ迫っているこの状況で、俺は彼女に強く惹かれていると認めていいのだろうか。


 視線を感じて、セシリアが顔を上げる。


「どうかした? 急に黙って……体調悪いわけじゃないでしょうね?」

「え? あ、いや……何でもない。ちょっとぼんやり考え事をしてただけ」

「そう。疲れてるなら無理しなくていいわよ?」


 気遣う言葉が意外で、思わず胸が高鳴る。だがそれを悟られたくなくて、俺は急いで書類に目を落とした。「大丈夫、まだいける」なんて言い訳がましい声を出すしかない。


 気まずい沈黙が数秒流れる。部屋の外では家臣たちの足音が時々聞こえるが、すぐ遠ざかっていく。ランプの光が書類の文字を照らすたびに、俺はセシリアの気配を意識してしまい、集中できなくなっていた。


(これじゃダメだ……。大事な書類を整えなきゃいけないのに、何をぼんやりしてるんだ、俺は)


 考えれば考えるほど、戦の危機と彼女への想いが頭の中でせめぎ合う。セシリアを守りたいという決意はあるが、それは領地や民を守る使命感とどう区別すればいいのか。混乱が増すばかりだ。


 ふと、セシリアが書類のページをめくる音がやけに大きく聞こえた。彼女は小さくため息をつき、「ここまで整理できれば十分かしらね。明日は朝からデニスと回って進捗を確認したいし……」とつぶやく。


「うん、そうだな。……そういえば、君はどうなんだ? 怖くないのか? 討伐軍が迫っているっていう現実が……」


 何気なく口に出た質問に、セシリアは少しだけ目を伏せる。


「怖いわよ。嘘じゃない。でも、もう逃げないって決めたの。わたしはあなたたちに救われて、こうやって一緒に戦う道を選んだから……。自分の責任だし、誇りでもあるわ」


 その言葉に、不思議と胸が熱くなる。俺こそ、本来なら王太子に逆らうなんて無謀な行動をしているのに、彼女が誇りと言ってくれるなら救われる気がした。


 気づけば視線が交差する。ランプの淡い光の下、セシリアの瞳が揺れながら俺を映していて、心臓が大きく鼓動を打った。


「セシリア……俺は、もし勝てなかったらどうしようとか、もし君を守れなかったらどうしようとか、正直不安で仕方ない。でも……」

「でも、わたしたちは進むしかない。レオン、あなたがいるからわたしも怖がらずにいられるの。ありがとう」


 まるで喉が乾くような感覚が襲い、言葉を継ぎ足せない。お互いに一瞬だけ視線を反らし、再び向き合う。その数秒のやり取りが心をくすぐる。


 ここで何かを言いたくて、言えなくて、もどかしい。討伐軍との激突が迫る中で、こんな微妙な気持ちに溺れていいのかという戸惑いもある。


「……なあ、セシリア。もし……この戦いが終わったら、いや、終わる前でも……」


 何かを言いかけるが、結局うまく言葉にできない。セシリアは小さく首を傾げる。


「何を言いかけたの? もしかして、わたしに何か隠してる?」

「いや、隠してるってわけじゃ……。ただ、うまく言えなくて……ごめん」


 苦笑いすると、セシリアも切なそうに表情を曇らせる。そして、わざと明るい声を出すように書類を片付け始める。


「もう、今日はここまでにしません? あまり夜更かしすると体が持たないでしょう? あなたまで倒れたら民兵が混乱するわよ」

「そ、そうだな。うん、わかった」


 妙なぎこちなさを残したまま、二人で書類や地図を棚にしまい、ランプの火を弱める。夜更けの執務室を後にしようと扉へ向かうと、廊下もほとんど人影がなく静まり返っていた。


 俺はドアを押さえ、セシリアを先に通そうとすると、狭い隙間で肩がちょっと触れあって、ビクリと体が強張る。セシリアも「ごめん」と小さくつぶやき、視線を逸らす。


(こんなに神経が過敏になってどうするんだ、俺は……)


 内心で恥ずかしさを噛み締めながら、そっとドアを閉める。廊下に出ると、セシリアは口を結んで一瞬迷うように立ち止まったが、すぐに顔を上げて笑みをつくった。


「……おやすみなさい、レオン。明日からまた忙しくなるし、ちゃんと休んでね」

「うん、おやすみ、セシリア。……ありがとう、今日も色々助かったよ」


 言葉を交わし合い、セシリアは部屋の奥へ向かい、俺は別の方向へ歩き出す。背を向け合ったまま、何か言い足りない感情が残っているのに、そのまま扉の向こうへ消えていく。


 廊下の窓から月光が差し込んで、床に淡い影を作っていた。立ち止まり、ふと窓の外を見下ろすと、警備兵が闇夜の中で巡回している姿が見える。戦いはすぐそこまで来ているというのに、俺はセシリアへの想いを明確に言葉にできないでいる。


(恋なんてしてる場合じゃないってわかってるんだけど……。それでも、気づいてしまった以上、止められないんだな)


 自分に言い聞かせるように額に手をあて、深くため息をつく。討伐軍との大決戦を前に、領内は緊迫したまま時間が過ぎていく。その中で、俺とセシリアの距離が微妙に縮まっているのは確かだが、まだ言葉にならないまま。この感情をどう扱えばいいのか、答えは出ない。


 でも一つだけ決めている。彼女を守り抜く、それだけは絶対に譲らない。どんなに大きな戦が迫ろうとも、俺がそばにいれば、セシリアも恐れずに済むと信じたい。


「明日からもっと忙しくなるかもしれないけど……この想いだけは消せそうにない。守りたい、絶対に」


 小さくつぶやき、夜の廊下を歩き出す。部屋に戻って少しでも眠らなきゃ、明日からの激務に耐えられないし、何より大きな戦いに備えるためにも体力が必要だ。


 背後で、セシリアの足音がかすかに遠ざかる気配を感じながら、今夜はそっと胸に芽生えた恋心を温めつつ、それを口に出せないもどかしさを抱え、俺は静かに闇の中へ消えていく――。

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