第55話 戦への準備開始
討伐軍が迫っているという現実を突きつけられた翌日から、クリフォード領は一気に戦時体制へと移行した。俺たちも朝早くから動き出し、民兵や領民をまとめて防衛計画を確認している。昨日の議論を踏まえ、やるべきことが山ほどあるのだ。
「まずはゲリラ戦の拠点を確保しましょう。森や山に隠れ家や補給所をいくつか用意しておけば、敵が大軍で押し寄せても地形を活かして対抗できます」
「了解だ、セシリア様。俺が猟師や木こりたちと相談して、適切な場所をいくつかピックアップしてくる」
デニスが地図を手に、素早く動き出す。もともと森や崖の多い領地だからこそ、ゲリラ戦には一定の優位があるが、敵が本格的に攻めてきたら拠点を複数に分散するしかない。大本営を一か所に置くのはリスクが大きい。
「俺は民兵の士気を高めるためにも、鍛え直しを続けたい。装備もまだ足りないんだが、アイリーン、そっちの調達具合はどうだ?」
「うーん、予算が厳しいわね。それでも商人仲間に頼んで何とか中古の武器や防具を集めてる。雑多だけど、ないよりはマシってやつよ。あと、食糧や薬品もできるかぎり抑えておく」
アイリーンが苦笑いしながら書類を見せてくれる。領内の財政は相変わらずギリギリだが、物資がなければ戦いにならない。彼女が奔走してくれているおかげで、何とか最低限の装備や兵糧は揃いつつある。
「食糧の備蓄も大事ですよね。もし封鎖されたら、村からの補給が難しくなるかもしれないし……」
「ええ、グレイス。そこは農民たちと打ち合わせして、作物を一部隠すとか干し肉を作って備蓄するとか、いろいろ工夫してもらいたいわ」
セシリアが地図にメモを取りながらグレイスへ指示する。グレイスはまだ不安げな表情を浮かべているが、ここ数日で随分と度胸をつけたように見える。
「わ、わかりました! わたし、みんなに声をかけて倉庫を増やせるか相談してきます。もし王太子の軍が来ても、すぐに取られないように……」
「助かる。君の明るい声で、農民たちも少しは安心して動けるだろうからな」
俺はそう言ってグレイスを励ます。彼女はうれしそうに目を丸くしてから、張り切って書類を抱えた。こうやって分担して進めないと、とても全部はこなせない量だ。
「それと、兵の配置も再確認しよう。正面からの衝突は避けたいが、万が一にも大軍が押し寄せれば、守るべき拠点をどこに設定するか明確にしなくては」
「うん。砦として使えそうな古い塔や、以前使われていた小屋なんかを補強すれば、ある程度の防衛ラインになるかも……」
デニスと地図をのぞき込みながら、俺はペンを走らせる。勝算があるかどうかはわからないが、何もしないよりはずっとましだ。少しの手間で状況が変わるなら、やるしかない。
「レオン、それから士気を上げるためにも、一度民衆に話をしてみない? 王太子が大軍を率いてくるなら、隠すより先に心構えを伝えたほうがいいと思うわ」
「そうだな。むやみに怯えさせるわけにはいかないが、事実として大きな危機が迫っていることは知ってもらう必要がある。心の準備と避難計画も整えないと……」
セシリアの提案はもっともだ。民衆が知らないまま急に戦争が起きたらパニックになる。あらかじめ周知すれば、ある程度の落ち着きを保てるかもしれない。彼女はその場で複数の書類を取り出し、簡易的な避難ルート図や救護体制の案を示す。
「わたしが作ったものだけど、これを村ごとに配って、必要な人員を洗い出しておいて。高齢者や負傷者が出たとき、どこへ移動すればいいのか明確にしないと」
「助かる。こういう後方支援の計画は実は疎かになりがちだからな。デニス、若い兵を連れて村々を回ってくれないか?」
「了解です。民兵が混乱しないよう、しっかり教えて回ります」
会話を重ねていくうちに、少しずつやるべきことが形になっていく。もちろん不安は尽きないが、こうやって具体的に動くことで、恐怖に押し潰されるのを避けられている気がした。
「それにしても、戦が本格化する前に、王太子に一泡吹かせるというか、何か揺さぶりをかけられたらいいんだけど……」
「ライナス・ブラックバーンの動向次第かしら。もし彼が完全に王太子の手足になるなら、正直、苦しい展開よ。だけど、少しでも交渉できる隙があれば……」
セシリアが“ライナス”という名前を口にすると、アイリーンが淡い期待を抱くように目を輝かせる。
「寝返らせるとか? あはは、話がうますぎかもしれないけど、もし金や理想で動かせるなら面白いわね」
「どこかでコンタクトを取る機会があれば、可能性はあるかもしれない。もっとも、あいつらは金で動く傭兵隊。簡単にはいかないだろうが……」
俺は苦い笑いを浮かべつつ、淡い可能性に思いをはせる。すでに大戦の足音が聞こえるなかで、一つでも切り札が欲しいところだ。
「よし、とにかく準備を進めよう。周辺領地との連携、ゲリラ拠点の設営、物資の備蓄、避難計画……全部同時にやらなきゃならない。忙しくなるぞ、覚悟してくれ」
「ええ、承知してるわ。わたしも気合を入れる。王太子の横暴なんかに負けないためにも」
セシリアは筆を置き、まっすぐに俺を見つめる。以前はツンとした態度を崩さなかった彼女も、今ははっきりと「わたしも共に戦う」と宣言しているのが心強い。
アイリーンとグレイスも書類を抱えて部屋を出ていき、デニスは地図を片手に兵士たちのもとへ向かう。最後に残った俺は、一人で窓の外を眺める。村の方には活気があるが、その裏には大きな不安が渦巻いているのがわかる。
(明日から先は、本当に“地獄”が始まるかもしれない。けど、ここを守るため、皆で動いているんだ。俺は必ず生き残って、この理不尽な戦いを止めてみせる)
そう心に誓い、机に広げた書類をまとめ始めた。討伐軍がいつ来てもおかしくない以上、時間は貴重だ。一瞬たりとも無駄にできない。このまま引き下がるわけにはいかないのだから。
大規模攻勢の前触れ――その言葉が頭をよぎるたび、背筋が寒くなる。だが、ここで怯むわけにはいかない。領民も、セシリアも、仲間たちも、皆が信じて動いてくれているのだ。俺は彼らを守ると決めた。そう決心して、紙束を抱え込み、執務室を飛び出す。
嵐が来る――けれど、それに備えて俺たちは確かに進み始めている。あともう少し、あともう一歩踏み込んで、王太子の横暴を打ち砕く道を見つけるために。