第52話 ライナスの個人的事情
ライナス・ブラックバーンは、王太子フィリップとの会見を終えた翌日、王都の一角にある小さな宿に滞在していた。傭兵隊長として遠征先を転々とする彼にとって、王都ルベルスの華麗さも特段興味を惹かれる要素ではない。むしろ、過度な装飾と敬意の強要が肌に合わず、今すぐにでも抜け出したい気分だった。
彼は宿の薄暗い部屋で、己の装備を手入れしている。黒ずんだロングコートの裾に、新しい防水処理を施したばかりの艶が残っていた。グリーヴや籠手などの金属部品にも小さな傷が散見されるが、機能上の問題はない。
近くには大振りの片手剣が鞘に収まって置かれている。柄の部分の飾り気のなさが、持ち主の性格をよく表しているようにも見えた。
(クリフォード領か……王太子殿下が金を惜しまないと言うなら、稼げる戦場には違いない。だが、どうにも腑に落ちないんだよな)
鞘を手に取り、軽く重量を確かめる。ライナスは思い返すように目を閉じた。昨日の殿下との会話を鮮明に思い出す。殿下のあの冷徹な態度――敵を叩き潰すためなら手段を選ばないという雰囲気が、ライナスの背筋にかすかな不快感をもたらした。
過去に何度も激戦をくぐり抜け、人を斬ってきたライナスではあるが、無抵抗な民衆を踏みにじるような戦いや、あまりに理不尽な殺戮は好まない。金のために“仕方なく”手を貸した経験はあるが、その後味はいつも悪かった。
(どうせ俺は傭兵だ。金次第で戦場を渡り歩く。そこに道徳や仁義を口にできる立場じゃない。……でも、何度経験しても“殲滅が目的”と公言する相手には胸の奥に引っかかるもんがある)
彼は曖昧な感情を振り払うように、片手剣の刃先をチェックし始める。表面にかすかな傷があるが、研ぎ直せば問題ない。どんな綺麗事を言ったところで、戦いとは血を流す行為だ。仲間のため、国家のため、あるいは金のため――理由はどうあれ、人を斬ることに変わりはない。
遠い記憶が脳裏をよぎる。かつて、ある国の内乱に傭兵として参加したときのことだ。ライナスは雇い主である王族に従って反乱軍を鎮圧し、戦功を挙げた。しかし、その後で王族は、抵抗をやめた農民たちにまで理不尽な処刑を行い、ライナスの制止も聞かなかった。
(あのときは、報酬は満額もらったが……胸くその悪い戦場だった。意味のない虐殺には“金のため”と自分に言い聞かせても、割り切れないもんがある)
ライナスは剣をそっと鞘に納め、無表情のまま立ち上がる。王太子フィリップとの契約においても、同じような展開が待ち受けているかもしれない。むしろ、フィリップは最初から「徹底的に叩き潰す」と言い放っていた。
それでも、ここで契約を断れば稼ぎの機会は失われる。自分の傭兵隊にも生活がかかっている仲間がいる。ライナスが安易に感情を優先すれば、部下たちを路頭に迷わせることになるのだ。
「ライナス様、よろしいですか?」
控えめなノックとともに、隊の副官らしき男性が入ってくる。まだ若いが、ライナスを信頼してついてきた一人。彼は軽く礼をして、報告を口にした。
「王太子殿下から追加の指示がありました。そろそろクリフォード領へ向けて出発するようにと。前金はもう受け取っているし、隊の皆も準備が整いつつありますが……」
「ああ、わかった。隊の連中を集めて、夕方には出るぞ。王都の空気は肌に合わんからな」
副官が「承知しました」と答えて出て行こうとしたところで、ライナスは小さく声をかける。
「……クリフォード領は、殿下が『反逆者』だと断じている相手だが、そっちが本当にただの無謀な田舎貴族かどうか、探ってくれ。自分たちが行う仕事をしっかり理解しておきたい」
「ええ、わかりました。噂によると、そこに希少な資源が眠っているとも聞きますし、いろいろと不明点は多いですね。部隊内でも情報を共有しておきます」
副官が部屋を出ると、ライナスは窓へ歩み寄り、外の光を眺める。王都の街並みは相変わらず賑やかだが、その賑わいはフィリップの暴政によってすぐにでも荒廃に変わるかもしれない。
彼は心の中で、もう一度自問する。
(どんな依頼でも受ける――それが俺の生き方だ。ただ、あまりに理不尽な戦は好まん。一度契約したからにはやるが、どこまで付き合うかは俺次第だろう)
金で動く。それが傭兵の宿命だ。だが同時に、ライナスは自分なりの一線を持っている。フィリップがその一線を越えるようなら、こちらにも考えがある。
大方、クリフォード領は弱小だと甘く見られているのだろう。だが、ライナスが周辺国で得た噂では、既に先遣隊を撃退したり、ゲリラ戦術を巧みに使ったりしているという話がある。必ずしも簡単に陥落するとは限らない。
(そうであってほしいもんだが。あっさり破れるなら、ただの掃討作業になる。俺は金のために動くが、退屈な作業にはうんざりだ。できれば、多少なりとも歯応えがある方がありがたい)
そう思う自分がいるのも不思議だ。戦争で楽しみを見出すなんて狂気じみているが、ライナスにとっては生業。血生臭い戦場を渡り歩きながらも、戦術や駆け引きを心得るのが生き甲斐でもある。
同時に、クリフォード領がただの弱小ではなく、王太子の横暴から身を守るために戦う存在なら――そこにわずかな共感を抱く自分もいる。
「金をもらって戦う。それ以上でも以下でもない。……だが、フィリップ殿下があまりに汚い手を使いすぎるなら、その時は考えものだな」
独り言のようにつぶやき、ライナスは口元を歪めるように笑う。金さえ払えばいいという殿下の態度が、この先にどんな“仕事”を求めるのか、不安とも興味ともつかない感情が渦巻く。
そろそろ時間だ。ライナスは荷物をまとめると、鞄に地図や最低限の着替えを詰め込む。外へ出て、宿の前では隊の兵たちがすでに準備を終えている。馬車には武器や物資が積まれ、兵たちは黙々と確認作業をしていた。
「隊長、お疲れさまです。いつでも出発できます」
「ああ、すぐ出るぞ。まずはクリフォード領の近郊まで移動し、殿下からの指令を待つ。偵察を進めながら、相手の出方を伺おう」
ライナスが指示を出すと、部下たちは一斉に「了解!」と声を合わせる。今日から本格的に“クリフォード領攻略”のために動き出すというわけだ。
馬にまたがり、ライナスはさりげなく王都の方を振り返る。宮廷の尖った尖塔が夕陽に染まっている。あの下で、王太子フィリップは自分の野望を着々と進めているのだろう。
(まあ、まずは様子見だな。クリフォード領とやらがどれほどの抵抗力を持っているか……確かめてやろうじゃないか)
そう心に決め、ライナスは軽く手綱を引いて馬を進める。後続の傭兵たちが静かに続き、その列は王都の喧騒を遠ざけるようにゆっくりと街道に消えていく。
金のためにどこへでも行く――それが彼の生き方。だが、その奥底には“あまりに理不尽な戦”への抵抗感が消えずにくすぶっていた。王太子の命令をどこまで受け入れるかは、戦場で見極めよう。そう決めて、ライナスは冷たい風を頬に受けながら笑みを浮かべる。
「さて……退屈だけは勘弁してほしいもんだな」
そうつぶやく彼の背中に、沈みかけの太陽の光が射す。王都を背にして、ライナス・ブラックバーンは次の戦場へ向けて走り出した。金に縛られながらも、ほんの少しの疑問と迷いを胸に抱いて。




