第51話 ライナスの評判
翌日の昼下がり、王都方面から新たな情報が届いた。アイリーンが商人ルートを使って入手したものだという。俺たちは領主館の一室に集まり、テーブルを囲んでその話に耳を傾ける。アイリーンは手元のメモを見ながら、いつになく深刻な表情で口を開いた。
「どうやら、王太子殿下が傭兵を雇い始めたみたい。しかも、かなりの大物……ライナス・ブラックバーンという名だそうよ」
その瞬間、セシリアが机の上の地図を指でなぞりつつ、小さく息を呑む。何か聞き覚えがあるのかもしれない。デニスも眉をひそめて険しい顔になる。俺は警戒心を募らせながら、アイリーンを促した。
「ライナス・ブラックバーン……王太子が雇ったってのは本当か? 詳しい話を聞きたい。どういう人物なんだ?」
「商人仲間からの噂レベルだけど、相当の腕利きらしいわ。周辺国でいくつもの戦に参加して、反乱軍を一掃したとか、金になるならどこへでも行くとか……とにかく凄腕の傭兵隊長って評判よ」
デニスが腕を組んで、その名を繰り返すように低くつぶやく。
「ライナス・ブラックバーン……昔、傭兵の世界で名を馳せたって聞いたことがあります。とにかく剣の腕が一流で、どんな汚れ仕事も引き受けるらしい。規律のない略奪に走る傭兵隊をしっかりまとめられるのも彼の凄さだとか」
「なるほど。じゃあ普通の先遣隊や正規軍なんかより、よほど厄介な存在になりうるってことか……」
先日、王太子の先遣隊を撃退できたとはいえ、本格的な傭兵隊が動けばまるで状況が違ってくる。単に兵力が増えるだけじゃなく、ライナス自身のリーダーシップや経験が脅威になるだろう。
「厄介ね。こういう連中は正規軍よりモラルが低いことも多いし、何なら略奪や暴行すら平気で行う傭兵もいるわ。もしライナスが本格的にクリフォード領へ来たら、被害は比較にならないかもしれない」
セシリアがいつになく深刻な声を出す。その瞳には、どう戦うかという以上に“領民の安全が一層危うくなる”という危機感が見え隠れしている。
「ライナス本人が暴虐に走るかはともかく、その配下が勝手に乱暴を働く可能性もある。傭兵はあくまで金次第で動くから、相手が気まぐれを起こせば……」
「金で動くということは、フィリップが大量の報酬を用意している可能性が高いわ。つまり、王太子が資源や周辺国との密約を活かして、いよいよ本格的に大軍を動かす準備をしてると見てもおかしくない」
アイリーンがそう指摘すると、俺は小さく唸る。王太子がいよいよクリフォード領をつぶすために動き始めたのかもしれない。先遣隊を撃退したことが逆に彼の意欲を掻き立てたのだろう。
「先日の小規模衝突とはわけが違うな。傭兵隊が本腰を入れて攻めてきたら、今の民兵じゃ対抗しきれないかもしれない。ゲリラ戦術も通じにくいだろうし……」
「そもそも兵数の問題だけじゃなく、ライナスの戦術眼が厄介ね。ある程度こちらの戦術を読み、手強い地形にも対応するだろうから」
デニスが地図を指して説明する。現在、森や崖を利用して敵を翻弄できているが、傭兵が状況を把握したら同じ手は何度も通用しない。彼らは柔軟性があるだけに、まさに難敵だ。
ふと、セシリアが書類の隅に走り書きした情報を見つめながら口を開く。
「でも、ライナス自身は“金次第でどこへでも行く”存在らしいわね。ということは、場合によっては寝返らせることも不可能じゃない、という噂もあるの」
「寝返り……? 金を積めば、こちら側についてくれる可能性がある、って話か?」
俺が半信半疑で問いかけると、セシリアは微妙な表情でうなずく。
「そこまでは確定じゃないわ。ただ、ライナスは“全く筋の通らない命令”や“大虐殺”には興味がないとも言われている。つまり、単に暴れたいだけの傭兵じゃなく、ある程度自分なりの基準があるんだと思う。だからこそ殿下とも衝突する可能性があるかもしれないって……叔父様の密書にもそんな一節があったわ」
「なるほど。ならば一方的に王太子の手足になるわけでもなく、なんらかの交渉の余地があるかもしれない、ってわけか」
俺は腕を組んで考え込む。もしライナスが完全にフィリップに与するなら、こちらにはほとんど勝算がない。しかし、彼が“王太子のやり方が嫌いだ”と判断すれば、状況が変わる可能性もある。もっとも、それを実現するにはどうアプローチすればいいか全く見えないが。
デニスが小さく舌打ちしてから、静かに語る。
「いずれにせよ、ライナスが傭兵隊を率いて動き始めたら、先遣隊どころではない。本格的な軍事侵攻もすぐ視野に入りそうです。今のうちにできることを急がないと……」
「兵力を増やすのは難しいけど、同盟や交渉を進めてなんとか相手を牽制するしかないね。あと、ゲリラ戦をさらに洗練しないと正面衝突ではまず勝てない」
アイリーンは手元の書類を確認しながら、「商人仲間に探りを入れてみるわ。ライナスの詳細な過去の戦歴や習慣、好物でも何でも、弱点らしい弱点があれば情報を得られるかもしれないし」と言う。
グレイスもその言葉に目を輝かせる。「そうですね! わたしも商人たちと仲良くなって、ライナスさんの噂を集めます!」
一方、セシリアは地図を見つめ、柔らかいため息をついた。
「傭兵隊が来るとして、王太子は“殲滅”を望むでしょうね。わたしたちが懐柔しようにも、ライナスはそこに加担すれば大金になる。なかなか誘いに応じるはずもないかも……」
「まあ、その通りだろう。金のために戦う人間に、“守りたい人々がいる”なんて情を説いても通じない可能性が高い。けど、可能性がゼロじゃないなら試してみたい気もするな。相手が王太子のやり方を嫌ってるなら……」
俺は言葉を濁した。倫理観を持つ傭兵という像が本当に存在するのか、実際に会ってみないとわからない。ただ、わずかでも交渉のチャンスがあれば確保しておきたいと思うのだ。
デニスが机を叩いてみんなの視線を集める。
「にしても、先遣隊の比じゃない規模になるのはほぼ確実です。次回の戦いでは、これまで築いたゲリラ戦術や周辺領主との連携が鍵になるでしょう。民兵の士気は上がっていますが、傭兵隊に正面から勝てるとは思えない」
「うん、それを考えると“勝つため”というより“負けないため”の策を練りたいな。王太子軍を長期化させてでも、こちらが持ちこたえられれば、中立勢力が動くかもしれないし」
俺が口に出すと、セシリアが筆を走らせてメモを取りながらうなずく。
「そうね。時間をかければ王太子に不満を抱く貴族たちも動きやすくなる。ライナスとの交渉余地も増えるかもしれない」
「しかし、傭兵隊が早い段階で攻めてきた場合はどうする? すぐ落とされるわけにはいかない。村と畑を守るためにも、各拠点を用意しないと」
「デニスが拠点を作ると言ってたから、地形を活かした砦や陣地構築を急ぎましょう。アイリーンが物資の調達、グレイスが連絡係、わたしが全体の戦略管理……そんな感じで役割を分担するわ」
セシリアはテキパキと役割を振り分けていく。その姿を見ていると、改めて“貴族的才能”を痛感する。こんな状況下でも冷静に指示を組み立て、皆の意見をまとめられるのは凄い。
アイリーンが書類を手に立ち上がり、「じゃあ商人たちの動きと、ライナスの評判を詳しく調べてみるわ。少しでも情報を得られればいいんだけど」と宣言すると、グレイスも「わたしも一緒に行きます!」と張り切る。
「よし、頼む。何かあったらすぐに戻ってきてくれ。俺とデニスは砦と民兵の強化に専念する。セシリア、全体の調整は……」
「わたしがやっておくわ。ネヴィル叔父様の情報と合わせて、ライナスがどう動くか予想しましょう」
こうして、またも俺たちは分散して動き出す。ライナス・ブラックバーンという“強敵”の噂に皆が不安を抱えているが、それでもやるべきことは明確だ。守りを固め、味方を増やし、できる限りの抵抗手段を備える。
部屋を出る直前、セシリアと目が合う。彼女は小さくうなずいて、「絶対に負けないわよ」と静かにつぶやいた。その声は決意に満ちていて、俺もうなずき返す。
(王太子が本格的に傭兵隊を動かすなら、次の戦いはさらに激しくなる。だけど、ライナスという傭兵隊長が“筋の通らない殺戮”を嫌うなら、わずかでも付け入る隙があるかもしれない)
俺はそう信じて動くしかない。それが無謀な望みであっても、まったく道が閉ざされるよりはマシだ。
やがて皆が散っていき、室内には俺とセシリアだけが残った。彼女は書類をまとめながら俺に視線を向け、「ライナスがどう転ぶかはわからないけど、そこに望みを賭けるのは悪くないわ」と言う。
「そうだな。まずは情報を集めて、ライナスの人柄をつかもう。傭兵だって人間だろうし、なんらかの交渉ができないわけじゃない」
「ええ。……ただ、最後は金かもしれないわね。わたしたちにそんな余裕があるかどうか……」
「そこは考えておくしかないな。アイリーンが商人たちと相談してくれるかもしれない。とにかく、今はやれるだけのことをやろう」
そう言い合って、俺とセシリアは微笑みあう。厳しい局面は変わらないが、まだ絶望してはいない。ライナス・ブラックバーンの噂が不穏をかき立てる中、俺たちは一歩ずつ前へ進んでいく覚悟を新たにするしかなかった。




