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第50話 傭兵隊長ライナス

 王都ルベルスの宮廷奥深く。かつては豪奢な宴が開かれ、絢爛な衣装をまとった貴族たちが華やかに談笑していたこの場所も、今ではすっかり殺気じみた空気が漂っている。王太子フィリップ・ラグランジュの冷酷な意志が、宮廷の隅々まで伝わっているのだ。


 そんな空気に包まれた廊下を、一人の男が護衛もつけずに歩いていた。長身で、漆黒のロングコートを羽織り、黒髪に鋭い灰色の瞳を持つ。その名はライナス・ブラックバーン。周辺国で傭兵隊長として名を馳せ、金と契約次第でどこへでも赴くと評判の“戦場の渡り鳥”だという。


 彼が向かう先は、王太子フィリップの執務室。扉の前に控える侍従や衛兵が訝しげな眼差しを向けるが、ライナスはまるで意に介さない。侍従が恐る恐る言葉を投げる。


「お、お待ちしておりました、ブラックバーン様。こちらへどうぞ。殿下がお待ちです……」

「案内は結構。そこをどいてくれ」


 低く威圧的な声音だが、決して乱暴ではない。侍従はすぐさま道を開け、ライナスが重厚な扉を押し開けたとき、執務室の奥に座るフィリップの視線が真っ直ぐにライナスを捕捉した。


「よく来たな、ブラックバーン。待ちかねていたぞ」


 玉座にも似た椅子に腰掛け、肘掛けに手を置きながらフィリップが言う。彼の傍には宰相や側近が居並ぶが、皆、王太子が作り出す張り詰めた空気に呑まれているようだった。


 ライナスはふと室内をぐるりと見回す。一切の緩みを許さない空気の中で、わずかに微笑んだかのように唇を弧にする。


「こっちが指定した日に会うとは、思ったより誠実だな。王太子殿下」

「誠実? お前に余計な時間を与える気はない。用件を済ませたら、すぐに出向いてもらう。……そのためにもお前を呼んだのだ。さっそく本題へ移るぞ」


 フィリップが手を振ると、宰相が前へ進み出て紙束を取り出す。ライナスは宰相をちらりと見るが、あからさまな興味は示さない。


 宰相が乾いた声で読み上げる。


「今回、殿下が周辺国との密約を結ぶにあたり、貴方――ライナス・ブラックバーン殿の傭兵隊と契約を締結したいという意向がございます。金額については前金と成功報酬、いずれも十分な額を用意しておりますので……」

「具体的には、どんな“成功”を求めてるんだ? あんた方が契約したいのは金で動く傭兵。それはわかるが、俺にどう動けと?」


 ライナスが低い声で問いかけると、フィリップが椅子からわずかに身を乗り出し、忌々しげな笑みを浮かべる。


「簡単な話だ。クリフォード領――下級貴族の分際でわたしに逆らう連中がいる。その反逆者を徹底的に潰せばいい。そこには資源もあるらしい。何なら一部をお前たちの報酬にしても構わんぞ」

「ふん、資源ね……噂で聞いた希少金属ってやつか。そいつが本当なら、悪くない報酬だ。ただ、兵が欲しいのはなぜ? 現地の兵力で十分ってわけでもないのか」

「余計な詮索はするな。お前は傭兵としてわたしの命令に従えばいい。わたしは金を惜しまないし、お前に広大な戦場と獲物を提供してやるだけだ」


 フィリップの言葉に、ライナスは唇を歪めて笑うでもなく、ただ無表情にうなずく。


「わかった。金が十分に払われるなら、俺はどこででも戦う。もっとも、意味不明な虐殺とか、まったく筋の通らない命令には乗れない主義だが……」


 この一言に、室内が一瞬凍りついたような空気になる。フィリップの眉がわずかにひきつり、宰相や側近も息を呑んだ。どうやら、ライナスが自分のポリシーを持っていることに面食らったらしい。


 フィリップは肩をすくめて冷たい笑みを浮かべる。


「ならば、お前が筋が通ると思う範囲で戦えばいい。わたしの目的はただ一つ、クリフォード領を跪かせることだ。その過程で多少の犠牲が出ようと、お前の正義とやらを傷つけない程度で済むだろう? いずれにせよ、傭兵に高尚な倫理など求めてはいない」

「ふん……高尚な倫理も正義も、俺にはない。ただ“意味のない大量殺戮”を好まないだけだ。まあ、それも契約の範囲内で済むなら問題はないだろうよ」


 ライナスはあくまでクールに答える。フィリップの目が一瞬、不快そうに細められたが、ライナスの実績と腕前に期待しているのか、あまり強い言葉は吐かないようだ。


 宰相が間を取り持つように咳払いをして、金額や兵の規模について淡々とした口調で説明を続ける。貴族社会であればここで大々的な会議を行うが、今回の打ち合わせは限られたメンバーの秘密裏に行われているらしい。


「殿下は周辺国との交渉も進めておられますが、ブラックバーン殿の傭兵隊に期待するのは“クリフォード領の攻略”。本格的な討伐軍が動く前に、お前たちが先遣隊を率いる形になることもあり得る、というわけです」

「了解だ。先遣隊を殲滅するなり、抵抗を粉砕するなり、仕事の内容は好きにやれってことだな?」

「最終的には殿下の裁量に従い、目的を果たしてもらう。……余計な口出しは許さんぞ」


 フィリップの険しい視線が、まるで“これ以上の条件交渉をするな”とライナスに伝えているかのようだ。ライナスは「わかった」と短く答えただけで、特に反論しない。


 だが、その沈黙の奥には何か言いたげなものが潜んでいる――そう感じさせる雰囲気があった。


「では、契約は成立したということでよろしいですね? 今後は王太子殿下の指示を待ちつつ、クリフォード領へ向かう準備を進めてください。金は前金として相応の額をお渡ししますので……」

「ああ、受け取る。だが、スケジュールを聞いてもいないのにやたら急かすのはやめてくれよ。兵を集めるのにも時間が必要だし、国内での動員は目立たぬよう気を遣う必要があるんでね」


 ライナスの言い分に、宰相がいかにも申し訳なさそうに目を伏せる。フィリップは苛立ちをこらえるように、机をコンコンと指先で叩いた。


「速やかに準備しろ。わたしの計画に遅れが出るなら、追加報酬など無しだ。よいな?」

「……了解した。それでも俺たちにはやることがある。まずは拠点を移し、領内地図を入手し、地形を把握するのが先決だ」


 ライナスが言うなり踵を返し、部屋を出て行こうとする。その背中にフィリップが冷たい声を投げかける。


「一つ覚えておけ。お前は“わたしの駒”にすぎないのだ。金のために動く傭兵なら、余計な口を挟まず指示に従え」

「傭兵は金で動く。それは確かだ。しかし、その事実を認識しているのはわたしだけじゃない。殿下も金で俺を動かしていることを忘れるな」


 言い捨てるように、ライナスは部屋を出て行く。バタンと扉が閉まると、室内に微妙な静寂が降りた。宰相や側近はフィリップの機嫌を伺いながら、息を詰めている。


 フィリップは険しい表情で椅子から立ち上がり、窓の外を睨むように見下ろした。


「金で動くなら、それで十分だ。わたしは誰かの思想など必要としていない。……クリフォード領など一瞬で潰す駒となれば、それでいいのだよ」


 側近が「は、はい」と応じるも、フィリップの背中にはどこか苛立ちが透けている。ライナス・ブラックバーンが完全に言いなりになるかわからない不安と、すでに契約してしまった手前、後戻りできない状況が、フィリップを余計に苛立たせているのかもしれない。


 こうして、王太子フィリップと傭兵隊長ライナス・ブラックバーンの接触は完了した。金が動く以上、ライナスはクリフォード領攻略に参戦する見通しとなった。


 だが、その傭兵隊長の胸中にわずかでも“理不尽な暴政への嫌悪”があるとすれば、やがてフィリップとライナスの間に亀裂が生まれる可能性もある――そんな不穏な予感が、誰にも言えずに宰相の胸をかすめる。


 王都の空は晴れ渡っているのに、フィリップの部屋には重苦しい空気がこもり続ける。あの扉を出たライナスの足取りには、静かな違和感があったが、フィリップにはそこまで気づく余裕はない。彼はただ、クリフォード領を跪かせるための次なる策を考え続けていた。

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