第40話 涙を流すセシリアとレオンの支え
夜の静寂が深まった邸宅で、俺はふと目が覚めてしまった。どうにも寝つきが悪く、このところの王太子の圧力で頭がいっぱいなのかもしれない。少し身体を動かそうと廊下へ出ると、暗い闇にほんの少しのランプの灯だけが揺れている。
「……こんな夜更けに徘徊なんて、珍しいことするなあ」
自嘲気味につぶやきながら、足音を立てないように気をつけて歩いていると、廊下の一角で人の気配を感じた。最初はグレイスかと思ったが、どうもシルエットが違う。背中を小さく丸めて、そのままじっと動かない。その姿に、俺の胸がざわつく。
(こんな時間に、誰が……?)
近づいてみると、淡い明かりの中に浮かんでいたのはセシリア・ローゼンブルクの後ろ姿だった。薄手の寝間着のうえに軽く羽織っただけの姿で、床に膝をついている。
しかも、肩が震えているように見える。声こそ出していないが、涙を流しているのは明らかだ。
「セシリア……?」
そっと呼びかけた瞬間、彼女の肩がビクッと跳ねた。まさか誰かに見られると思っていなかったのだろう。慌てて立ち上がろうとするも、腕に力が入らないのか、よろめいてしまう。
あわてて抱きとめようとする俺の腕に、彼女は一瞬抵抗する素振りを見せたが、結局はそのまま俺の腕の中で倒れ込む形になった。
「きゃ……ご、ごめんなさい。ちょっと足が……」
「だ、大丈夫ですか!? って……」
言葉を続けようとした俺は、はっきりとセシリアの頬を伝う涙を見て息を呑む。いつもは凛としていて、弱いところなど見せようとしない彼女が、こんなふうに涙をこぼしているなんて――。
彼女はついさっきまで泣いていたのか、目尻が赤くなっている。何か言わなきゃ、と思っても、どうしても言葉が出てこない。代わりに、彼女の身体をそっと支えたまま、廊下の片隅に腰を下ろす。
「……わ、わたし、こんなところで何を……」
「セシリア……無理しなくていい。夜中に眠れないことだってあるし、外の空気吸いたくなることもあるし……」
「違うの。そういう単純なことじゃなくて……」
セシリアは顔を伏せ、見られるのが恥ずかしいのか、俺の肩に隠すような格好になる。声が震え、悔しそうに唇を結んでいるのが伝わってきた。
そっと彼女の背をさする。どう言葉をかければいいのか分からないが、何かしら伝えないといけない気がする。
「どうして……わたしだけがこんな目に遭うの……。王太子に追われて、あなたたちまで巻き込んで……わたし、どうしようもなくて……」
弱々しい声が、闇を震わせた。王太子のやり口はますます強引になり、恐らく重税や交易禁止が実施されればクリフォード領は本当に追い詰められてしまう。セシリアは、その一端を自分が担っているという自責の念が、胸を締め付けているのだろう。
俺は言葉を選びつつ、なるべく穏やかな声を出そうと努める。
「君のせいじゃない。殿下が暴走してるのは、セシリアのせいじゃなく、あいつ自身の歪んだ欲望だよ。資源だって、いつかは狙われていた。早いか遅いかの違いだ」
「でも……わたしがここにいなければ、みんなこんな苦しい選択をしなくてよかった。レオンまで、危ない道を歩かなくても……」
セシリアは腕で顔を覆い、再びしゃくりあげそうになるのを必死でこらえている。普段の彼女を知ると、この姿はあまりにも痛々しくて胸が苦しい。
俺はそっとその腕に手をそえ、できるだけ優しく言葉を重ねた。
「聞いてくれ。たとえセシリアがいなくても、殿下はいつか絶対に俺たちを踏みにじる方法を探していただろう。君はきっかけの一つに過ぎない。でも、きっかけがあったおかげで俺たちは現実に対処しようって思えたんだ。逃げるだけじゃなく戦おうって」
「戦う……。そんなの、わたしが引き金じゃない。あなたや領民が血を流したらどうなるの? わたしはそれに耐えられないわ」
「もちろん、誰も血なんて流したくない。だけど俺たちは、自分たちの家や家族を守るために立ち上がる気持ちがある。君はそれに力を貸してくれてるじゃないか」
そう言われても、セシリアは泣きそうな顔を上げて俺の目を覗く。まるで、最後の一枚の拠り所を探すように。
そして意を決したように、ポツリと漏らす。
「わたし、レオンに守られるばかりじゃいたくないの。力になりたい。でも、怖いのよ……。わたしがまた誰かを傷つけることになるかもしれない。王都で仲間だと思っていた貴族たちに裏切られたときの痛みが……まだ消えないの」
こんなに不安をぶつけられたのは初めてだ。胸にぐっと熱いものがこみ上げる。セシリアの悲しみや恐怖が、言葉に乗って直接こちらへ響いてくる。
俺は意を決して、セシリアの肩を引き寄せる。彼女が軽く抵抗した気配はあったが、力を抜いて俺の胸に顔を埋めるような形になった。
「セシリア、もう自分を責めるのはやめてくれ。俺は君を守りたいって決めたんだ。君がここで泣いているだけなら、俺は何のために戦おうとしてるのかわからなくなる」
「でも……わたし……」
「大丈夫。君のせいじゃない。俺が自分で選んでる道だ。君はただ、いてくれるだけでいい。力になろうとしてくれるなら、それで充分」
セシリアの身体が小さく震えるのを感じる。それでも、俺の胸に埋まったまま、すすり泣くような声が漏れ始めた。最初は小さい涙だったが、それが次第に大きな嗚咽へと変わり、俺の腕にしがみつく。
「やだ……こんなの……見られたくないのに……。わたし、強がってばかりで、ひとりで立ってきたと思ったのに……」
「強いよ、セシリアは。だけど、ひとりで全部抱え込む必要なんてない。今は俺が、ここがあるじゃないか」
「……うっ……うわああ……」
彼女の泣き声が、月明かりの差す廊下に切なく響く。俺はもう一切ためらわず、セシリアをしっかりと抱きしめた。こうする以外に、彼女の不安を和らげる方法が見つからない。
彼女の体温が伝わり、その涙が俺の胸元を濡らしていく。切なくて、でもどこかいとおしくて、俺まで泣きそうになるのを必死でこらえる。
(この人がどれだけ孤独を抱えていたのか、俺はまだ全部わかっていなかったのかもしれない)
ふと、セシリアが少しずつ泣き声を鎮め、深い呼吸を始める。完全に落ち着いたわけじゃないだろうが、いくぶん冷静さを取り戻したようだ。
顔を上げると、目は赤く腫れているが、ほんの少し微笑もうとしているのが見えた。
「……ごめんなさい。あなたにこんなみっともないところを……」
「みっともないなんてことない。むしろ、そっちの方が本当の君じゃないかな」
「……レオン、ほんとに、変な人ね。でも……ありがとう。少しだけ、救われた気がするわ」
そう言ったセシリアが恥ずかしそうに目をそらす姿は、いつものクールな彼女とは違う儚い印象があった。だけど、その瞳には先ほどまでの絶望感が薄れ、かすかな光が宿っているように感じる。
「もう少し、君を支えるくらいはさせてくれ。君がこの領地を想ってくれるなら、俺もそれに応えたいから」
「……うん。わたし、まだ王太子が憎くて、怖くて、自分を許せなくて……混乱ばっかりだけど……。レオンがそう言ってくれるなら、もう少し……頑張れる」
セシリアが小さくうなずくと、俺はそっと腕を離す。彼女は少し乱れた髪を手で整えながら、改めて「ありがとう」とつぶやく。
そこに言葉以上の気持ちがこもっているのを感じて、俺も胸が熱くなる。遠くで誰かが足音を立てる気配がしたが、幸いこちらに近づいてくる様子はない。
「もう夜も遅い。部屋に戻って休もう、セシリア。俺も……もう少しで倒れそうだ」
「ふふ……そうね。遅くまでこんなところで何してるんだろ、わたしたち……。ごめんね、付き合わせて」
「いや、むしろ付き合わせてもらってよかったよ。じゃあ、おやすみなさい」
そう言って、俺は彼女を部屋の前まで見送る。ドアの前で立ち止まったセシリアは、最後にもう一度、少しはにかむような笑みを浮かべた。
そして扉が閉まったあと、廊下には俺が一人残される。胸の奥で抑えきれない想いが芽生えている気がする。守りたい、支えたい――それ以上の感情が静かに湧いているけれど、今はただ、彼女が少しでも救われたのなら十分だ。
「……よし、俺も部屋に戻ろうか。明日からも忙しくなるし」
小声でつぶやいて、暗い廊下を引き返す。夜はまだ長いが、セシリアが一人で涙することは、きっともう少なくなるはずだ。俺が、彼女が孤独にならないように、ずっと傍にいるから。
そんなささやかな決意を胸に抱き、俺は自室への道をたどる。遠くからかすかに感じる風の音が、今夜だけは少しだけ優しく聞こえた。




