第33話 イザベル姫の懸念
イザベル・ラグランジュは、王都ルベルスの宮廷にある自室で、深いため息をついていた。
兄である王太子フィリップが近頃見せる苛烈な行動――とりわけ、セシリア・ローゼンブルクに対する執拗な断罪と暗殺まがいの手段が、イザベルの心を重くさせている。もともと、王族としての自覚が強いフィリップの強硬な性格は周知の事実だったが、最近はさらに行き過ぎの感があるとイザベルは感じていた。
「……どうして、兄上はそこまでセシリア様を追い詰めるの?」
自室の窓辺で、イザベルは外の空を眺めながら小さくつぶやく。その声を聞いた侍女のクラリスが、おずおずとイザベルに近寄り、控えめに口を開く。
「姫様……殿下は近頃、他国との密約だの、軍拡だの、いろいろ良くない噂がございます。今回も、セシリア様が殿下の意にそぐわなかったというだけで……」
「ええ、わたしもそんな話は聞いているわ。実際、兄上のやり方は力づくになってきている。宮廷内でも、いつ粛清されるかと皆が怯えている状況よね」
クラリスはうなずきながら、落ち着かない様子で言葉を継ぐ。
「はい……。最近、殿下はご機嫌ななめのまま、しょっちゅう苛立ちを表に出されます。セシリア様を逃がしたことに対して暗殺者を動かした、という噂もありますし……」
「やっぱり……。セシリア様が、クリフォード領に逃げ込んだとか。どうも危険にさらされているようで……気がかりなの」
もともとイザベルは、兄のフィリップが権力を笠に着て、自分の野心を押し進める姿勢を快く思っていなかった。ましてや、かつては兄の婚約者だったセシリアとの間に、ここまで対立が生まれるなど想像していなかった。
だが、宮廷内にはフィリップに意見できる者はいない。王家を恐れてか、あるいは自身の地位を守るためか、貴族たちは次々と彼に迎合する道を選んでいた。
「クラリス、ほかに何か情報はないの? 兄上がなにか新たな動きをするとか、周辺諸侯との連携を図っているとか……」
「それが、わたしのような下級の侍女では詳しいことまでは。ですが、殿下の取り巻きが急に増えたように思います。軍備関連の役人や、他国との交易を担当する商人たちとの面会も増えているとか……」
「そっか……あの人が力を得れば得るほど、この国はどうなるのかしら」
イザベルは苦い表情で、ゆっくりと椅子に腰かける。兄のやり方を公然と非難すれば、今の宮廷では自分が危ない立場になることは明白。それでも、心のどこかで「このままじゃ王国が乱れてしまう」と強い危機感を抱いていた。
セシリアへの仕打ちだって、フィリップの権力とプライドのために行われている面が大きい。彼女の一族も、反抗すれば粛清されてしまうだろう。イザベルには、そんな未来が耐えがたく恐ろしく感じられる。
「……兄上が、国を守るために動いているというならまだわかる。でも、これはただの私怨と権力争いじゃないの。こんなことで国が振り回されるなんて……」
「姫様……お気持ちはわかります。でも、殿下に逆らえば、イザベル様だって……」
「ええ、わかってる。でも、なにかできることがあるんじゃないかと思ってしまうのよ。たとえば、セシリア様をかくまっているというクリフォード領の人たちに、わたしから密かに協力を申し出るとか……」
イザベルはそう言って唇を噛みしめる。とはいえ、具体的にどう動けばいいのかは分からない。自分は王太子の妹という立場ゆえ、外部とのやり取りはすべて監視されている可能性が高いからだ。
侍女のクラリスも申し訳なさそうに首を振る。
「危険すぎます、イザベル様。殿下の目を逃れてクリフォード領に連絡を取るなど……」
イザベルは大きく息をつき、何かを決意したようにゆるくうなずく。
「そうね。無闇に動いてもリスクが大きい。だけど、このまま見ているだけではいけない気がする。セシリア様があの辺境でどう過ごしているのか、兄上がいつ軍を動かすのか……状況を知る必要があるわ」
「ですが……殿下はもう、セシリア様を狙うつもりで動き始めていると聞きます。わたし達のような身分では何もできず……」
「何もできないと決めつけたくはないの。わたしだってラグランジュ家の一員。王家の尊厳を守りたいし、国が無駄な争いで乱れるのを見過ごせないもの」
そう語るイザベルの瞳には、兄とは真逆の優しさと民への思いやりが映っていた。民を踏み台にして権力を握ろうとするフィリップと違い、彼女は人々が笑顔で暮らす王国を願っている。
しかし、兄に正面から意見できるほど権力を持たないのも現実。宮廷内には、フィリップの取り巻きが多く、イザベルの助言を聞いてくれる臣下は少ない。彼女が下手に動けば、逆に危険にさらされるだろう。
「今は兄上が何を考えているか、もっと探るしかないわね。クラリス、侍従たちに、兄上の周辺で起きていることをこっそり調べてもらえない?」
「わかりました。できる範囲で動いてみます。……でも、姫様もくれぐれもお気をつけくださいね。殿下は……」
「ええ、承知してる。わたしの行動が目立てば、兄上の怒りがこっちに向くもの」
イザベルは淡々と言いながら、机の上に置かれた小さな紙片を見つめた。そこには、彼女が何とか入手した「セシリアがクリフォード領に逃げ込んだ」という情報源の痕跡がある。
決して多くの情報を得られないまま、イザベルはひそかに決心を固める。いつか“もしもの時”が来たならば、セシリアを、あるいはその領地を救うために自分が動ける手立てを用意しておきたい。
兄のフィリップは今、まさに軍拡や他国との密約を進めているという噂もある。戦が起きれば、王国全体が混乱し、多くの民が苦しむ。それだけは何としても避けたいのだ。
「……兄上はおそらく、止まらない。そうなったら、わたしが少しでも歯止めにならなきゃ。この国の先が見えなくなる前に……」
そうつぶやいて、イザベルはそっと瞼を閉じる。宮廷の廊下からは、フィリップのご機嫌をうかがう貴族たちの足音がかすかに聞こえる。
イザベルは兄を憎みたくはない。だが、フィリップの行動が国を危うくし、セシリアやクリフォード領を追い詰めるならば、何かしなければ――そうした葛藤が、彼女の胸を重く押しつけていた。
王太子の陰謀がじわじわと形を成しつつある中、イザベルは密かに動く決意を抱く。いつか民や、この国を愛する人々を守るため、自分にできることを模索しよう。
その願いは、まだ小さな光に過ぎない。それでも、王女の良心がどこかで大きな意味を持つ日が来るかもしれない……そんな予感が、宮廷の不穏な空気の中で、ほんのかすかな希望として揺れているのだった。




