第32話 宮廷の不穏な空気
王都ルベルスの宮廷は、いつになく重苦しい空気に包まれていた。
玉座の間まで続く豪奢な廊下も、普段なら明るい笑い声や美しい調度品が目を惹くはずが、この日は誰もが息を詰めて歩いている。王太子フィリップ・ラグランジュの苛立ちが、宮廷全体に伝わっているのだ。
「……暗殺に失敗、だと?」
フィリップは玉座の間の中央に立ち、報告に来た貴族たちを冷えきった瞳で睨みつけた。黒衣の従者が恭しく頭を下げるが、その姿勢には怯えが透けて見える。
フィリップの身に纏う濃紺の上着には金糸の刺繍があしらわれ、光を反射してきらりと輝いている。だが、その華やかさに見合う余裕など彼の表情には欠片もない。冷酷なオーラだけが周囲を圧倒していた。
「はい……申し訳ありません、殿下。手配した者たちが、思わぬ邪魔が入ったとかで……詳しい状況はつかめておりませんが、セシリア・ローゼンブルクは依然として生き延びている様子です」
「手配した者たちが、思わぬ邪魔? ほう……レオン・クリフォードという田舎者の仕業か? 王都の夜会でもあれほど無礼を働いた愚か者が……」
静かな声だったが、フィリップの口元はひきつれている。怒りを表に出さないのがかえって危険な兆候だと、周囲の貴族は痛感していた。
報告を受けた貴族の一人が、恐る恐る口を開く。
「はい、そのようです。セシリア様は、どうやらクリフォード領へ逃げ込んでいるとの報せがございます。夜会で殿下に逆らったあの下級貴族が、彼女を匿っている模様で……」
「クリフォード領、ね。あの小さな辺境に、セシリアが潜んでいる、と。……くだらん」
フィリップは嘲笑のように鼻を鳴らす。辺境の一介の下級貴族など本来相手にする価値もないとでも言いたげな態度だが、その瞳には確かな敵意が混じっている。
玉座の間に居合わせた貴族たちは、誰一人としてフィリップに反論できなかった。あの夜会でセシリアを断罪し、さらに彼女を仕留めさせようとしたことを暗に知りつつも、王太子へ異を唱える勇気など持ち合わせていないからだ。
「セシリアは……せっかく放逐したというのに、なかなかしぶとい女だ。レオン・クリフォードとかいう田舎者も、身の程を知らないな。王家に楯突く気か」
フィリップの声は冷え切っていた。彼は玉座の横にある小机から一枚の書簡を取り上げると、苛立ちまぎれにバサリと広げる。
「殿下、それは……」
「ただの報告書だ。周辺領の情勢が書かれている。クリフォード領は財政面で苦境らしいが、そこにセシリアが転がり込んだのだろう。……こいつら、わたしを敵に回してどうなるか分かっていないらしい」
その言葉に、玉座の間にかすかなざわめきが走る。フィリップの機嫌を損ねれば、その領地がどうなるかは、すでに多くの貴族たちが知るところだ。
かつて反対勢力の侯爵家を一瞬で潰し、財産を没収し、家名すら貶めたことは記憶に新しい。いまさら、下級貴族が逃げ回ったところで、フィリップにとっては取るに足らない事件だったはずだ。
「だが、放置するには面倒だな。セシリアが生き延びている以上、わたしの威光に傷がつく。あんな女に、王家を侮辱されたままでは済ませられん」
フィリップが片手で顎を撫でながら、一人ごとのように言う。その瞳は燃えるような敵意と、どこか底知れない野望を含んでいる。
貴族たちは皆、うつむいて息を詰め、話題を逸らそうとする者すらいない。王太子の気性は承知しているが、今回はセシリアという高位貴族出身の女と、田舎貴族レオンの存在が絡んで厄介な事態だ。下手に意見を述べれば、今度は自分が粛清される恐れもある。
「殿下、では、次なる手立てを……」
おそるおそる発言した貴族に、フィリップは軽く手を振り、一方的に言葉をかぶせる。
「わかっている。すぐに動くつもりはない。今は彼女を取り逃がしたなら、もう少し様子を見てやろうではないか」
「で、では、暗殺者の追加手配は……?」
「焦るなと言っている。先日の失敗を受け、より念入りな策を練る必要がある。クリフォード領に足を踏み入れる以上、田舎とはいえ表立って軍を動かせば反感を買う。だが、わたしの計画を邪魔するなら……容赦はせぬ」
凍りつくような沈黙が再び場を包む。王太子が次に何をするか、正確に読める者などいない。ただ一つわかるのは、フィリップがセシリアとレオンに対して本格的に対抗策を講じる準備をしていることだ。
貴族たちは視線を交わし、わずかに不安をにじませる。セシリアはもともと高位貴族の令嬢だったため、周囲にも支持者がいたかもしれない。そこを無理やり殲滅すれば、宮廷内の空気はますます殺伐としていくだろう。
「皆、よく聞け。セシリアの件もクリフォード領の件も、いずれ国全体に波紋が広がるかもしれない。だがわたしは揺るがぬ。反対する者はどのみち排除するだけだ。いいな?」
「は、はい……もちろんでございます、殿下」
「ご意向のままに……」
大勢の貴族が深く頭を下げ、玉座の間は重苦しい静寂に包まれた。フィリップの内心に燃え上がる怒りは、まだ表面化していないだけで、いつ爆発してもおかしくない。
一方、その静かな殺気を察した者は誰一人逆らおうとはしない。結局、王太子に反発する力が生まれないまま、フィリップの意思は宮廷を支配し続けているのだ。
「セシリア……あの女がどこまで生き延びるか見物だな。クリフォード領? 下級貴族風情がわたしの一手にどう抗うというのか……」
フィリップは独りごとのようにつぶやいて小さく笑う。その笑みは冷ややかで、底の見えない闇を宿していた。
こうして、王都ルベルスの宮廷には不穏な空気が渦巻く。王太子フィリップの苛立ちは、いずれ大きな嵐を呼ぶだろう――そんな予感を抱えながら、貴族たちはただ沈黙を貫くしかなかった。




