第29話 邸宅での生活
朝の光が差し込む邸宅の廊下を歩きながら、俺はふと耳を澄ました。どこかから、にぎやかな声が聞こえてくる。どうやら、グレイスがセシリアの部屋の準備でドタバタやらかしているらしい。
「きゃあっ、あ、あれ……おかしいな、このカーテン、どうやって外すんでしたっけ……?」
「ちょっと、あなた、むやみに引っ張らないで。破れたらどうするつもり?」
「す、すみませーん! わたし、そそっかしくて……あ、でもしっかり扱ってますから!」
廊下の角を曲がると、そこにはグレイスとセシリアが並んで窓辺のカーテンを外そうとしていた。どうやら洗濯して新調したカーテンを取り付ける工程なのだが、グレイスが慣れないのか、余計な力をかけている。
セシリアは一応手を貸しているが、グレイスのドジに半分呆れながら、「はあ……」とため息混じりに指示を出しているところだ。
「グレイス、もっと丁寧に扱えないの? 生地が弱そうに見えるし、引っかかるとすぐ破れそうよ」
「そ、そうですよね。すみません……慎重に、慎重に……」
「こんな不安定なところで脚立にも乗らず手を伸ばすから、余計危ないのよ。ほら、ちゃんと踏み台用意してちょうだい」
慌ただしいやり取りに、思わず俺も苦笑いしてしまう。昨日決まったばかりだが、セシリアはこの邸宅で暮らすことになった。すぐに部屋を割り当てたものの、調度品を揃えたり、掃除をしたりと準備が多い。
グレイスが侍女役としてセシリアに付き添っているが、この組み合わせは相性がどうなのか……。ただ、セシリアも本気で怒っているわけじゃなさそうで、口調こそ厳しいがどこか和らいだ雰囲気がある。
「おはよう、二人とも。朝から熱心にやってるな。大丈夫か?」
「おはようございます、レオン様! あ、セシリア様のお部屋、カーテンを新しくしようとしてるんですけど……わたし、ちょっと不器用でご迷惑かけちゃってます」
「……まあ、手伝ってくれるのは助かるけれど、もう少し段取りを考えてくれないとね」
セシリアはそう言いつつも、怒りのトーンは控えめだ。王都では侍女が失敗すると即刻解雇されるような厳しさもあり得るのに、ここでは不思議と大らかな空気が流れている。
俺はグレイスの頭をぽんと叩いてから、部屋の中を見回した。
「随分と片づいたな。昨日までほとんど使ってなかった客間なのに、こんなに綺麗に」
「グレイスが頑張って掃除してくれたのよ。時々変なハプニングがあったけれどね。あの窓辺のカーテンレールを外すときも、もう少しで窓ガラスを割るところだったわ」
「うわ……危なかったな。それでも、ありがとう、グレイス。セシリアも」
「い、いえいえ! これくらい……わたし、侍女として役立たなきゃ、って思ってたんです!」
グレイスは頬を赤らめている。セシリアも小さく鼻を鳴らすようにして「まあ、今はわたしもこの家で暮らすんだからね。快適にしたいし」とそっぽを向く。
俺はその態度にくすっと笑う。何だかんだで、セシリアがこの小さな邸宅の暮らしに馴染もうとしているのがわかる。以前のような冷たい仮面をずっと被っていた頃とは違う柔らかさがある。
「それにしても、セシリアがこうやって作業してくれるなんてね。最初は触るのも嫌そうなイメージあったけど……慣れてきた?」
「別に好きでやってるわけじゃないわ。田舎の屋敷なんて初めてだし、いろいろ足りないものがあるし……でも、生活するうえでは必要でしょ? 高貴な身分とか言ってる場合じゃないもの」
「はは、そういうことならありがたい。助かるよ。でも、無理はしないでくれ。慣れない作業は怪我のもとだし」
セシリアが軽く肩をすくめると、グレイスが面白そうに目を輝かせる。
「でも、セシリア様がこんな普通の暮らしをするのって、すごく意外です! わたしもお手伝いしがいがあるなって」
「意外かもね。王太子の婚約者だった頃は、侍女たちがすべてやってくれたわ。わたしは一切手を汚さなくてよかった。でも……それに甘えていた部分もあったのかな、って思う」
「セシリア様……」
グレイスがじーんと感慨深げにうなずく。セシリアも気まずそうに視線をそらしてはいるが、言葉の端々に素直さが混じっているところが今までとの大きな違いだ。
部屋をざっと見回して、ひと息ついた俺は、机の上に整然と並べられた飾り皿や小物に目を留める。グレイスが苦労して拭いたらしいが、ところどころ水滴が残っていて、ちょっと雑な仕上げだ。
「ふふ、ちょっと水滴残ってるな。けどまあ許容範囲かな。さすがにこの部屋ならセシリアも嫌じゃないだろう?」
「ベッドもちゃんとシーツを替えてありますし、カーテンももう少しで取り付け完了しますし! あ、でも、もし気に入らない点があったら言ってくださいね!」
「そうね……ありがとう。確かに、最初に来たときは“こんな田舎の古びた邸宅で?”って思ったけど、案外住み心地は悪くなさそう」
セシリアの口元が少しだけほころんでいる。「あえて認めてあげるわ」とでも言いたげな雰囲気に、俺もほっとする。
街や王都の屋敷ほど豪華ではないけれど、ここには仲間がいて、家族がいて、温かな空気が流れている。その一員になりつつあるセシリアの姿が、何とも微笑ましい。
「大変なことは山積みだけど、こうして日常が続いてるのを見ると安心するな……」
「そうですね。わたしも、セシリア様がちょっとだけリラックスしてるのを感じます。先日までギスギスしてたのが嘘みたいだ」
「……ちょっと、聞こえてるわよ。ギスギスなんてしてないわ」
すかさずセシリアが突っ込みを入れ、グレイスが「すみません」と笑いながら頭を下げる。そんなコントのようなやり取りが、すでに当たり前の風景になりつつあるのが面白い。
とはいえ、表面上は穏やかでも、王太子や資源の問題は依然として消えない。緊張と不安は頭の片隅に常にある。でも、それを少し忘れさせるかのように、セシリアとグレイスが掛け合いをしている姿を見ると、なんだか心が温まるのだ。
「よし、じゃあ今日はもう作業は終わりにしよう。セシリアも疲れたでしょ? しっかり休んでくれ。……グレイスはあとで一緒に夕食の準備を手伝って」
「はい! 張り切りますよ~。セシリア様も、ご夕食までに少し休んでくださいね!」
「……そうするわ。ありがとう」
最後にカーテンをしっかり取り付け終わり、部屋の中はだいぶ快適になった。セシリアは新しいカーテンを眺めて、「色合いは悪くないわね」とぽそりとつぶやく。これはある意味、褒め言葉だろう。
俺はそんなセシリアをちらりと見て、胸に奇妙な安心感が広がるのを感じた。あの高貴でツンケンしていた彼女が、こうして地に足のついた日常に溶け込もうとしている。完全に心を開いてるわけじゃないが、距離は少しずつ近づいてるだろう。
「じゃ、またあとでな。とりあえず部屋の調整は終わりってことで。何か不自由あったらすぐ言ってよ」
「ええ、わかったわ。それと……ありがとう。部屋を整えてくれたことには感謝してる」
セシリアはそっぽを向きながらそう言い残し、部屋の奥へと入っていく。グレイスが「よかったですね!」と興奮気味に俺に目配せをしてくるので、笑って肩をすくめた。
こうして、セシリアの新しい暮らしが正式に始まる。狭くて地味な田舎の邸宅だけど、彼女にとって少しでも安らげる場所になれば――そんな願いが俺の心を満たしていく。問題は山積みだが、このささやかな日常が、俺たちの絆を静かに深めていくのかもしれない。




