第28話 セシリアの動揺
夕刻、領主館の廊下が淡いオレンジの光に染まる頃、セシリア・ローゼンブルクはひとり人目を避けるように歩いていた。昼間の会議で話題になった“希少資源”のことが、胸をざわつかせてやまない。
彼女は足を止め、窓から差し込む光を背にして小さく息を吐く。王太子フィリップの顔がまぶたの裏に浮かび、眉をひそめた。
「まさか、こんな辺境であんな貴重な鉱脈が見つかるだなんて……」
口に出してみても実感が湧かない。レアメタル――武具や兵器に使われれば、王都の軍備拡張に大きく寄与するだろう。あのフィリップが知れば、手段を選ばず奪いにくる可能性が高い。
貴族社会での権力闘争を思い返すと、フィリップは容赦がない。かつて自分が婚約者として傍にいた時期、彼が軍拡や宮廷の贅沢のために、いくつもの勢力を裏から潰してきたのを知っている。反対者を容赦なく粛清し、財産を取り上げ、抵抗する者には弾圧を加えた。そのやり方を間近で見たセシリアは、その冷酷さを身をもって痛感していた。
(わたしを冷たく切り捨てるだけならまだいい。けれど、この領地の人々まで巻き込むなんて……)
思わず窓枠に手をつく。心が重く沈む。クリフォード領は、レオンや領民たちの温かい性格ゆえに、どうにも脆い面がある。資源があるとわかれば、王都は力づくで支配に乗り出すかもしれない。そうなれば、このあったかい場所はたちまち蹂躙されるに違いない。
罪悪感が胸を締めつける。もし自分がここにいなければ、もしあの資源を見つけなければ――いらぬ騒動を招かなかったのではないか、そんな考えが頭をよぎる。
「……どうすればいいの。わたしがいるせいで、余計に殿下が注目するかもしれないのに」
誰もいないと思っていた廊下から、不意に聞き慣れた声が飛んできた。
「セシリア、そんなところで独り言なんて珍しいですね。大丈夫ですか?」
振り向くと、レオン・クリフォードがそこにいた。彼は少し困惑したような笑顔で立ち尽くしている。どうやら、落ち着かなげに歩いていたセシリアを見つけ、声をかけてきたらしい。
セシリアは一瞬言葉を失うが、すぐに背筋を伸ばし、いつものツンとした表情を取り繕う。
「別に、どうということはないわ。貴方こそ、こんな遅い時間に何をしてるの?」
「まあ、ちょっと昼間のことが頭に引っかかってて。廊下をぶらついてたんですよ。……それよりセシリア、何か悩んでるんじゃないですか?」
「……悩みなんて、ないわよ」
軽く言い放つものの、言葉に説得力はなかった。レオンは躊躇いがちに一歩近づき、心配そうな眼差しを向ける。
「嘘ですよね? 俺だってわかります。すみません、いろいろ巻き込んでしまって……王太子の目がこちらに向かうきっかけは、やっぱり俺が夜会でああいう行動を取ったからってのも大きいし」
「違うわよ。わたしがフィリップの怒りを買ったのが根本的な原因。貴方が庇ったから、こうしてわたしは生き延びられたんだもの」
言い合ううちに、セシリアの胸中で苦しさがぐっと増してくる。希少資源の発見がさらなる火種になるとわかっているのに、穏やかなクリフォード領を守る術が思いつかない。
「でも、もし本当にあの鉱石が大きな価値を持つなら、王太子は絶対放っておかない。……わたしがここにいると知れば、なおさら」
「君のせいじゃありません。偶然見つかっただけだし、たとえセシリアがいなくても殿下は何かしら理由をつけて領地を狙うかもしれない。自分の権力を拡大するためなら、あの人は何でもするでしょう?」
「ええ、そういう人よ。……そのやり方を間近で見ていたから、わたし、わかるの。怖いのよ」
最後の言葉はほとんど口の中で溶けるように消える。それを耳にしたレオンの表情が一瞬切なく揺れ動き、彼はそっと手を伸ばし、セシリアの肩を軽く叩く。
「怖くて当然です。でも、俺も父上も領民も、セシリアのことも守りたいと思ってる。だから、一緒に方法を考えましょう。簡単じゃないけど、やるしかないから」
「……どうして、そこまで?」
「理由なんてないですよ。俺が勝手に助けたいと思った。それだけでダメですかね?」
どこまでも真っ直ぐで優しい眼差し。セシリアはその視線から逃れられず、一瞬だけ視線を落とす。
「……ありがとう。貴方って、ほんとにお人好しね。でも、その優しさが領地ごと破滅に導くかもしれないって、考えたりしないの?」
「もちろん考えます。けど、何もしないで失うのはもっと嫌だ。せっかく見つけた可能性を捨てるのは悔しいし、セシリアをこのまま追われる身のままにするのも嫌だ」
「……バカみたいね。けど、そんな愚直さに救われてるわ。わたし、もう少しだけ頼らせてもらおうかしら」
セシリアが小さく微笑みを浮かべたその顔は、ほんの少しだけ弱さを見せているようだった。
レオンも「頼ってください」と照れ隠しの笑みを返す。二人の距離が、きゅっと縮んだように感じた。
「これから先、王太子の陰謀がどんな形で迫るかわからないけど……俺たち、やるべきことをやって、資源を盾にされる前に対策を打ちましょう。きっと道はあるはずです」
「そうね。わたしも、この領地を危険に巻き込むのは嫌だもの。出来る限りの知識を提供するわ。……あと、グレイスやアイリーン、それからアルフレッド様にも恩があるし」
「うん。ありがとう、セシリア。……あなたがいると、俺も心強い」
その瞬間、セシリアがふっと視線を逸らして顔を少し赤らめた。
「……こんなこと言われるなんて初めてね。普段なら “あなたに頼るなんて冗談じゃない” ってツンケンするところだけど」
「え? あ、じゃあツンケンしてくれたほうが安心するかも? ていうか、冗談でも何でもなく本心ですよ」
「からかわないで。……もういい。わたし、疲れたから部屋に戻るわ」
そう言い置いて、セシリアはくるりと背を向け、スタスタと廊下を歩き去る。ツンとした態度を取り繕っているようだけど、どこか心が軽くなった様子は隠せない。
レオンはその背中を見送りながら、苦笑を浮かべる。まったく、セシリアらしいなと思いつつ、二人の間には確かに以前より温もりが増している。
「王太子の陰謀……絶対仕掛けてくるだろう。だけど、俺たちがこの領地と彼女を守る。逃げ出すんじゃなくて、共に戦うために」
そう自分に言い聞かせ、彼もまた足を動かす。薄暗い廊下の先には、希少資源を巡る大きな波乱が待ち受けるのだろうけれど、この瞬間だけは少しだけ希望が見えた気がした。