第23話 領地への帰還
数日後の早朝、馬車の車輪がかすかにきしむ音を聞きながら、ついにクリフォード領の入り口が視界に入った。
緩やかな丘が続き、緑の風景が広がる。田畑や小川が見える素朴な農村風景は、王都の煌びやかさとは比べものにならないけど、俺にとってはこの上なく懐かしい場所だ。
「ここが……クリフォード領なのね。確かに、都会とはまるで違うわ」
セシリアが半分驚きながら馬車のシートをめくり、外を覗いている。馬車に酔いそうな険しい表情をしていたが、いざ景色が見え始めたら、目を大きく見開いているみたいだ。
グレイスはいつものようにとんちんかんな笑顔を見せながら「やっと着きましたね!」と喜びを露わにする。
「はい、やっとですよ。長かったようで短かったような……まあとにかく、これで一息つけるかな」
「レオン様! あそこに領民の皆さんらしき人が……」
「おや、誰か気づいたんだな」
遠くに小さな人影が見え、手を振っているようだ。よく見ると、俺が子どもの頃から知っている顔ぶれが何人か混じっている。すでにこちらを確認しているらしく、笑い声が風に乗って聞こえてきそうだ。
デニスが横で馬車をしっかり御しながら言う。「久々の帰還ですね、レオン様。領主館まであと少しですよ」
領内の道は整っているとはいえ、王都の舗装道路のようにはいかない。馬車が少し揺れながら進み、やがて農村地帯へ足を踏み入れると――領民たちの明るい声が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、レオン様!」
「わあ、レオン様だ!」
「お久しぶりです! お元気でしたか?」
一斉にそういう声が上がり、馬車を追いかけてくる子どもまでいる。いや、ほんの数人だけど、笑顔がまぶしい。
セシリアがこっそり窓から顔を出し、目を丸くしている。
「皆、すごく親しげに話しかけてくるのね。下級貴族の領民というものは、こんなにも距離が近いの?」
「まあ、クリフォード領は小規模ですし、俺もできるだけ領民と触れ合ってきたんですよ。王都のような堅苦しいヒエラルキーはあまりないんです」
「へえ……都会とまるで違う。こんなにも暖かい歓迎を受けるなんて、逆に不思議な気分だわ」
セシリアの声は、驚きと興味が入り混じっている。貴族社会の常識から見れば、領主と領民の間にはもっと距離があるはずだ。だが、ここでは何か“家族”的な温かさがある。
子どもの一人が馬車の脇を元気に走りながら、俺に向かって「レオン様、お帰りなさい!」と声を上げる。俺は手を振って笑い返す。
「ただいま、今戻ったよ。みんな変わりなくやってるか?」
「はい! お父さんが畑でたくさん野菜を取ってますよ!」
そんなのどかな会話ができること自体が、今の俺にとってどれだけ救いになるか。王都での修羅場や逃亡生活を思えば、この光景が夢みたいだ。
グレイスがほっこりした笑みを浮かべながら、「この領地、いいとこですねえ~」とつぶやく。馬車がさらに進み、小さな橋を渡ればもう領主館まではすぐだ。
「レオン様、領主館が見えてきました! なんか、王都の豪邸とかと比べると……」
「いや、言わなくてもわかるから。王都のお屋敷に比べると、しょぼいのは否定しないよ」
「そ、そんなこと言いませんよ! ただ、思ったよりも小じんまりしてて家庭的っていうか、あったかそうな雰囲気ですよ!」
グレイスが慌てて弁解する様子に、セシリアが小さく鼻を鳴らす。「あったかい雰囲気……ねえ」と皮肉めいた口調。しかし、その言葉に嫌味は感じない。どこか感心しているような響きも混じっている。
やがて馬車は玄関前で停まり、俺は御者台から飛び降りる。さっそく家の使用人たちが出迎えてくれ、慌ただしく挨拶が始まる。
「レオン様、お帰りなさいませ。ご無事で何より……」
「皆に迷惑をかけて悪い。急ぎで帰ることになったんだ。あと、客人を連れてきたから手配を頼みたい」
「客人、というのは……?」
使用人の視線が、馬車から降りてきたセシリアに向かう。彼女はフードを外し、長い銀髪を揺らしながら軽く会釈する。
その圧倒的な美貌と気品に、使用人たちが思わず息を呑んだのがわかる。そりゃ、王太子の婚約者だった人だからな。
「セシリア・ローゼンブルクと申します。……暫くの間、こちらでお世話になることになるでしょう」
「は、はい……! レオン様のお客様なら、歓迎いたします」
使用人がどぎまぎしながら応える様子が可笑しいけれど、セシリアもわずかに表情を和らげているように見える。この領地の素朴な人柄に、彼女なりに親近感が芽生え始めたのかもしれない。
俺は二人をやりとりさせながら、ほっと安堵する。とりあえず、この領地に戻ってくれば、短期的には安全を確保できるはずだ。王太子の手がここまで一瞬で届くわけじゃない。
グレイスとデニスも荷物を降ろしつつ、領民や使用人に挨拶を交わす。さっそく子供たちが「デニスさん、お帰り!」「グレイスお姉ちゃん可愛い!」なんてはしゃぎ、ほんのり牧歌的な光景が生まれていた。
「……ふふ、本当にこんな辺境なのね。馬車で山や森を越えて、やっと着いた」
「言ってくれるな。これでも一応、俺の大切な故郷なんで。それに、辺境だからこそ落ち着けるって面もあります」
「まあ確かに。都会の喧騒や暗殺者から逃れるには静かでいいかもしれない……」
セシリアは家の門を見ながら、小さく感想を漏らす。王都の豪壮な邸宅とは雲泥の差があるが、少なくとも“己の命を狙う者がすぐには来ない”という安心感があるはずだ。
俺は振り返って彼女に言う。
「遠路、お疲れさまでした。ここから先は俺の庭みたいなもんですから。ゆっくり休んでください。さっそく父にも……いや、父はまだ病床だったな」
「お父上、体調が悪いんでしたっけ?」
「ええ、長らく病に伏せっていて……でも、まあそろそろ顔を出さないと」
そう言いながら、いつか王都と戦うかもしれない状況で、父親をどこまで巻き込むべきか、頭の中で整理する必要があると感じる。でも今は「帰ってきた」という現実だけで充分だ。
セシリアが玄関先で立ち止まる。その背中越しに領地の風景が広がり、ふわりと暖かい風が髪を揺らす。王都にはない、のどかで優しい風。
「ここが……貴方の領主館、なのね。正直に言うと……もっと大きいかと思ってたわ」
「ですよね。はは、一応、最低限の施設は揃ってるはずですけど、王都の屋敷に比べれば……」
「いえ、いいの。こういうところ、落ち着くかもしれないわ」
一瞬、彼女の目がきらりと微笑むように見えたが、すぐにそっぽを向いてしまう。そんな態度がまた可笑しいけれど、俺は何も言わずに扉を開け、セシリアを中へと案内した。
こうして、ついにセシリア・ローゼンブルクが“こんな辺境”と評したクリフォード領へ足を踏み入れた。長い逃亡劇の終着点――いや、たぶん始まりだ。ここからの生活をどう乗り越え、王太子の追っ手をどう防ぐか。
とにかく今は、無事に故郷へ戻れたことを喜ぼう。領民の笑顔と彼女のわずかな微笑みに、胸が少しだけ温まる思いがした。