第2話 クリフォード領の日常
すべてが始まる“あの夜”から、時は少しさかのぼる。
俺――レオン・クリフォードが暮らすのは、王都から馬車で数日の距離にある辺境の領地だ。厳密には「クリフォード領」と呼ばれるけれど、高位貴族の広大な領土と比べれば随分と狭く、素朴な村がいくつか点在しているだけ。風光明媚な点は自慢したいところだが、正直、財政は火の車だ。
「レオン様っ、申し訳ありません! またやってしまいました……」
今朝、俺が屋敷の裏庭を見回りに出たところで、いきなり悲鳴が聞こえてきた。声の主は侍女のグレイス・ミルボーン。彼女は持ち前のドジっ娘っぷりで、今日も何やらやらかしたらしい。
駆けつけてみると、洗濯物を干すために用意した台を蹴飛ばしたらしく、景気よく折れた木の板が散乱している。
「えっと……その、わたし一人で何とかしようと頑張ったんですが、思いきり転んじゃって……」
グレイスは涙目になりながら、申し訳なさそうに平伏する。
台はもうボロボロだし、当然、洗濯物は土まみれだ。
「大丈夫か? お前がケガしてないならまずは安心だよ」
「うう……ごめんなさい、レオン様。なるべく早く片づけます……!」
「ま、まぁ、無理はするなよ。あとで他の使用人と協力して片づけてくれ。こういうときこそ、一人で抱え込まないでな」
「は、はいっ……!」
気弱に返事をしたグレイスは、俺の言葉に少しほっとしたのか、慌てて散らばった板を拾い始めた。彼女のドジには困らされるが、領地の空気を和ませてくれる愛されキャラでもある。ここ、クリフォード領の生活は基本的に地味で大変だ。だからこそこういうちょっとした笑いが大事なのかもしれない。
そんなことを考えながら屋敷へ戻ると、今度は執事のような役を務めている家臣が慌てた様子でやってきた。
「レオン様、アルフレッド様が……お呼びです」
「父上が? 今伺うよ」
俺の父、アルフレッド・クリフォード。もともとはこの領地をまとめる力のある男だったが、今は重い病に伏せってしまい、政務や領地の管理はほとんど任されている状態だ。俺自身、まだまだ未熟だと思っているのに、そんなんで大丈夫かと心配されることも多い。
それでも、父の病床を支えるのは家族である俺の義務。何とか領地をやりくりしながら毎日を過ごしているところだ。
寝室へ入ると、父はやせ細った身体を布団の上で起こし、弱々しく微笑んだ。
「レオン……来てくれたか。今日は調子がいいように思えてね、少し話をしたかった」
「父上、無理はしないでください。まだ休んでいるほうが……」
「はは……子にそんな顔をされるとは、情けないものだな。まぁいい。実はな、王都の王太子殿下から夜会の招待状が届いているんだ」
そう言って差し出されたのは、豪華な紋章入りの手紙だった。王宮からの正式な招待。相当高位の貴族だけが呼ばれる夜会と聞く。そんな場に、なんでうちのような下級貴族が?
俺が不思議そうに眺めていると、父は苦い顔をして続けた。
「わたしが直接出向きたいところだが……見てのとおり、この身体では王都までの道のりに耐えられん。すまないが、レオン、お前が代わりに行ってきてくれないか」
「え……でも、俺なんかが行っても場違いじゃないか? 下級貴族が簡単に王太子殿下の夜会に参加していいわけが……」
「たしかに、あちらさんの意図はわからん。だが、公式の招待状である以上、断り続けるわけにもいかない。王都とのつながりが断たれては、クリフォード領の立場がさらに厳しくなる。お前もわかっているだろう?」
父の言葉に胸が痛む。そう、うちの領地は財政難で限界だ。近年の不作、重税、周辺との取引もままならない。
もし王都とのコネが完全に断たれれば、これ以上の借り入れだの支援だのを受ける道はほぼ消える。今ですら破産寸前なのに、これ以上悪化するのは簡単に想像できる。
「……わかった。俺が行くよ。父上は安心して休んでくれ」
「すまんな、レオン。お前ばかり苦労を背負わせて……情けない父親で本当に申し訳ない」
「そんなことはないさ。父上のためだけじゃない。ここの領民の皆のためにも、やるべきことをやるさ」
そう言うと、父は弱々しく微笑む。俺は心に決めた――招待状を持って王都へ行く、そしてこの領地を救う糸口を見つけよう、と。
病室を出ると、今度は領主館の裏手の小さな応接室へ向かう。いつものように領民の代表が数人集まって、現状の報告や要望を伝えに来るのだ。
クリフォード領は広くない。農地は限られ、豊作だって年によりけり。今のところはギリギリ回しているが、正直、余裕なんて皆無。いつ来るかわからない災害に備える蓄えも少なく、領民の生活は苦しい。
「レオン様、本日も来ていただきありがとうございます」
「いや、こちらこそ報告ご苦労。何か変わったことはあったか?」
「その……今年の麦の生育がちょっと怪しいんです。春先の冷え込みで苗が育ちにくく……」
領民代表の顔が曇る。俺も思わず頭を抱えそうになる。
税に加えて、屋敷の修繕や領地の道整備など、出費は山ほどある。なのに作物が不作となれば、どうひねり出せというのか。まさしく火の車で、せっかく工夫して少しでも領民の負担を減らそうと考えていたのに、先に暗雲が立ち込めてしまう。
(……でも、ここでくじけるわけにはいかない。父上も、領民たちも、俺を頼りにしているんだ)
自分にそう言い聞かせ、領民代表を励ました後、屋敷の廊下を歩く。
途中でグレイスに遭遇した。さっきの洗濯物事件をもう片づけたようで、今は廊下の掃除をしている。
「あっ、レオン様。先ほどはご迷惑を……」
「いや、気にするな。お前が元気ならそれでいいんだ」
「も、もう少し気をつけますね。あ、そうだ! 昼食の支度がもうすぐできると台所の者が言ってましたよ!」
「そうか。助かる。腹が減っては戦もできない、だからな」
こんな他愛もない会話でも、ちょっとだけ肩の力が抜ける。
それにしても、王太子主催の夜会……いったいどれほど豪勢な場所なのか想像もできない。父をはじめ、周囲が抱く不安や期待もひしひしと感じる。
あの手紙を受け取った瞬間は、ただ「場違いだろ」と思ったけれど、今の俺たちには何か打開策が必要だ。もし王都の有力者と繋がりを持てれば、この苦境を打破する方法が見つかるかもしれない。自分を奮い立たせるように、そう願わずにはいられない。
(わからない……本当にどうなるんだろう。だが、立ち止まることはできない。領地のため、父上のため――そして俺自身のためにも)
そうして、俺は王都へ向かう決意を固めるのだった。大きな波乱が待ち受けているとも知らずに。