第15話 形だけの収束?
王宮の大広間――一度高まった緊張は、まだ空気中に色濃く残っていた。
先ほどまでの騒動で、王太子フィリップ・ラグランジュとセシリア・ローゼンブルクが激しく衝突する形となり、ひそかに夜会を楽しんでいた貴族たちは深い衝撃を受けている。けれど、もう当事者の一人であるレオン・クリフォードの姿はない。あの下級貴族は慌てて夜会場をあとにし、行方を追う者もいないままだ。
フィリップは大広間の中央に立ち尽くすと、まるで何事もなかったかのように薄く笑いを浮かべて周囲を見回した。場の貴族たちの多くは彼に目を合わせることを避け、かすかにうろたえながらも一歩下がって様子をうかがっている。
そんな中、フィリップが自らの威厳を誇示するようにゆっくりと口を開いた。
「諸君、先の出来事で驚かせてしまったようだが……これ以上の騒ぎは不要だ。セシリア・ローゼンブルクの処分については、余が追って判断を下す。いずれにせよ、しばらくのあいだ謹慎させることになるだろう」
その瞬間、場の息が詰まった。王太子が直接口にした「謹慎」という言葉。セシリア・ローゼンブルクがどの程度の罪を問われるかはわからないが、王太子の機嫌次第で事態はどこまでも深刻になり得る。
宰相の一人が恐る恐る前に出て、貴族たちに目配せしつつ進言する。
「殿下、それでは……本日の夜会はここでお開きということでよろしいのでしょうか。皆、かなり動揺しておりますし……」
「いや、夜会は続けろ。俺が言いたいことはただ一つ。今回の騒動は余とセシリアの間の問題だ。――お前たちの立場は関係ない。わかったな?」
フィリップの声音は低く、しかし鋭かった。貴族たちは一斉に「は、はい……」「承知いたしました」と頭を下げる。とはいえ、これほど露骨に場の焦点が「セシリアの断罪」に向かったのに、それを強引に終わらせようというのだから、不自然な感は拭えない。
周囲の者は「こんな形だけの収束で本当に済むのか」「セシリア嬢の家は高位貴族だぞ……」とひそひそ話を交わす。だが、王太子の絶対的な権力を前に、公然と反論できる者は一人もいない。
「セシリアをここから連れていけ。宰相や侍女たち、そなたらに任せる」
フィリップがそう命じると、周囲に控えていた家臣や侍女が小さくうなずき、まだ大広間に立つセシリアのもとへ向かう。
セシリアはどこか凛とした姿勢のまま、フィリップのほうを冷ややかな目つきで見返した。口を開かず、反論する気配もない。だが、その唇がかすかに震えているのを感じ取った家臣たちは、妙な怯えで動作をぎこちなくしている。
「セシリア様……こちらへ。今は殿下のご命令に従い、別室へ移動を……」
「……わかりました」
セシリアは短くそう答えると、自ら足を踏み出す。うつむいているわけではないが、表情には諦観とも憤怒ともつかない陰影が浮かんでいた。
侍女が彼女の腕をそっと取ると、セシリアは微妙に拒むこともせず、しかし侍女たちに甘えるでもなく、あくまで自分の意志で進むかのように大広間をあとにしようとする。その背を、王太子フィリップの視線が突き刺す。
「……まったく、セシリア。貴様にはもう、何も残らんぞ」
そのつぶやきが聞こえたのかどうか、セシリアは何も反応せず廊下へ消えた。それと同時に、大広間には奇妙な空気だけが残る。王太子は満足げでもなく、むしろ苛立ちを押し殺すかのように深く息を吐いた。
この場にいる貴族の多くは、表向きは頭を垂れ、事態の沈静化を図るような態度を示す。しかし、内心では「これで本当に大丈夫なのか」「セシリアが出て行った後も波紋は大きいだろう」と疑念を抱え込んでいる。
「皆の者、もう騒ぎは終わった。夜会を続けろ。無意味に暗い空気を出すな」
フィリップが淡々とそう言い放つと、取り繕うように音楽隊が小さく音を奏で始める。ところが、さすがに先ほどまでの華やかな雰囲気は戻らない。貴族たちは要領よく話を再開してみせるが、その眼差しの奥には不安と興味が入り混じった色が宿っている。
「殿下……今回は、あの下級貴族が乱入してまいりましたが、そちらはいかがなさいますか」
宰相が気遣うように耳打ちする。
フィリップは冷ややかな笑みを浮かべて、あまりにも軽々しく答えた。
「ふん、レオン・クリフォード……とか言ったな。眼中にもなかったが、あれほど失礼をかますとはな。まあ放っておくわけにもいかんだろう」
「は。では、何かしら対処を……」
「まだ早い。セシリアへの処分がはっきり決まってからでも遅くはあるまい。まずは王家を侮辱した女を徹底的に叩き潰す。その次にあの田舎者がどう絡むか……」
宰相はその言葉を聞き、不安そうに口をつぐむ。フィリップは金色の飾りがついた手袋をキュッと締め直し、大広間を見渡した。
一見すると、夜会は通常通りに続いているかのように見える。だが、その実態は大きく違う。この事件を境に、貴族社会全体に冷たい波紋が走り出したのは間違いない。誰もが口では「終わった」と言うが、その内心は戦々恐々としたものだろう。
「ふん……もうよい。音楽を続けさせろ。雑魚どもがどう踊ろうと勝手だが、余はもう退屈だ」
フィリップはくるりと踵を返し、宰相以下の取り巻きたちを引き連れて、その場を離れた。後に残る貴族たちは、誰も彼の背中を引き止めず、ただその姿が消えるまで固唾を飲んで見守るしかない。
そして、ひとたび王太子の姿が消えるや否や、夜会場は微妙なざわつきの中で無理やりな談笑が再開される。まさに、“形だけの収束”と呼ぶほかない状態。
「セシリア・ローゼンブルクが謹慎だって……? まさか家ごと潰されるんじゃ……」
「それに加えて、あの下級貴族はどうなるのかしら。私、初めて見たけど、無謀ねぇ……」
「でも、あそこまで言えるなんて、ある意味勇気あるけど……王太子を敵に回すなんて愚かだ」
ひそひそと行き交う噂話。それを耳にして苦い顔をする者、逆に面白そうに相槌を打つ者、さまざまな反応が渦巻く。
こうして王宮内部の夜会は表向き、何事もなかったかのように“続けられる”ことになった。しかし、その裏で誰もが感じている。セシリアへの断罪と、名もなき下級貴族の乱入――これらが引き起こした騒動は、決してこれで終わりではないのだと。
不穏な余韻を抱え込んだまま、夜会の喧騒が続く。その奥で、セシリアは宰相や侍女の手によって別室へ連れられ、静かに退場した――その姿を見た者はほとんどいない。だが、貴族たちは皆、頭の片隅にその光景を記憶する。
そしてフィリップ自身もまた、レオン・クリフォードの存在をしっかりと――恐らくは危険人物として――心に留めたのだった。




