第13話 レオンの衝動的擁護
フィリップ殿下の怒声が、大広間の天井に反響した。
先ほどから続いていたセシリアへの糾弾は、もう周囲がフォローできる域を超えている。下級貴族や中堅どころの貴族たちが目を伏せ、息を潜めるなか、殿下の言葉はなおも続く。
「この女――セシリア・ローゼンブルクの罪など、皆も見てきたはずだ。生意気に王家を愚弄し、宮廷に混乱を招く。もはや放置はできん!」
咆哮のような声とともに、殿下が手を振り上げる。わずかに震えるその拳が、まるでセシリアを指し示しているかのようだ。
目の前の光景は、まさに断罪そのもの――この夜会場が儀式の場所になってしまったかのようだ。俺は酔いもあって頭が熱くなるが、それ以上に場の空気で寒気が走る。これ以上はまずい、そんな警告が理性の片隅で鳴り響いていた。
「殿下、それでも……!」
一部の貴族が小さく声をあげても、すでに殿下は聞く耳を持たないようだ。セシリアは依然として黙ったまま。深く目を伏せ、まるで耐えるかのように。ただ――たった一瞬、こちらを横目で見た。まるで、俺を確認するように。
(セシリア……このままじゃ、本当に追放や処罰どころじゃ済まないぞ?)
フィリップ殿下は怒りのあまり、今にも何か取り返しのつかない判断を下しそうだ。周囲がそれを止められないのは、王太子という立場があまりにも重いからか。そして、セシリアが一言も反論しないのは何故なのか。
このまま見過ごしていいのか? 俺はまるで重たい石を抱えたような息苦しさを感じている。
「セシリア・ローゼンブルク、今ここで断罪の宣告を下す! 貴様の身分も特権も、根こそぎ剝奪――」
そのとき、自分でも信じられないくらい大きな声が、俺の口から飛び出した。
「やめろっ……!」
我ながら驚く程の音量だった。まるで見ず知らずの他人が叫んだかのように、思わず周囲も引くほど。それほど激しい感情が一気に噴き出したのだ。
大広間が一瞬でシンと静まり返る。フィリップ殿下は背筋をまっすぐ伸ばし、鋭い視線をこちらに向けてきた。その王太子を前に、俺はもう後には引けない――と腹を括るしかない。
「貴様……いま、なんと言った?」
「……そ、それ以上彼女を侮辱するなと、言ったんです!」
酔いの勢いもあって、口が勝手に動く。目の前にいるのは一国の王太子。下級貴族の俺など、逆らえばどうなるか、理性ではわかっているはずなのに。
けれど、この光景をただ見ているだけではいられなかった。セシリア・ローゼンブルクという高貴な令嬢が、一方的に罪を押しつけられ、否、罪があるのかないのかすらわからない状態で罵倒されている。それを放っておけないと思ってしまったんだ。
「下級貴族風情が……!」
フィリップ殿下の目が細まる。周囲の貴族たちも露骨に怯えたり、驚きで口を塞いだりしている。誰もが「やってはいけないこと」を俺がやってしまったのだと気づいている。
グレイスが青ざめた顔で小声を漏らす。
「レ、レオン様……! あわわ、どうしましょう、まずいです……!」
「わ、わかってるさ。でも……もう言っちゃったんだよ……!」
取り返しのつかない行為だと頭で理解しながらも、後悔は半分くらいしか湧かない。自分でも呆れるが、ここで黙っていられるほど、見捨てられるほど、俺は冷酷じゃいられなかった。
「この断罪を俺たちがどうこう言える立場じゃないのはわかっています。ですが、あまりにも理不尽じゃないですか……!」
「理不尽? 貴様がそれを言うか。クリフォード領の田舎貴族が、王家の裁定に口を挟むなど、思い上がりも甚だしい」
フィリップ殿下の視線は氷のように冷たい。まるでゴミを見るかのごとく、軽く見下している雰囲気を隠しもしない。
一方で、セシリアはどうか。こちらを見て、驚いたような、それでいてほんの少し救われたような眼差しを浮かべた……気がする。いや、確証はないが、その揺れる瞳が印象的だった。
「殿下、わたし……い、いえ、俺は……下級貴族の分際で無礼を承知で申し上げます。でも、彼女になぜ具体的な罪状を――」
最後まで言い切る前に、殿下が俺を圧するように高笑いをあげた。
「ハッ……面白い。貴様のような田舎者が、この場で正義面か? お前に何がわかる。セシリア・ローゼンブルクが王家を侮辱してきた事実は、宮廷では周知のこと。言葉にするまでもないのだ」
周囲の貴族がドン引きしているのがわかる。誰一人、俺を助ける者はいない。そうだよな、俺の行動は無謀としか言えない。
けれど、どうしてか止まれない。頭の奥に酒の燃えるような熱が回っているのか、心臓の鼓動が耳に痛いほど響く。
(しまった、でも言ってしまったんだ)
「ま、待ってください! 王太子殿下がご立腹なのはわかりますが、こうして公衆の前で断罪するなんて……あまりにも……」
「無礼者!」
殿下の一喝に周囲がびくりと震える。俺は完全に黙らざるを得ない。殺気さえ感じるほどだ。
ここで俺が何かさらに言えば、下級貴族の立場どころか、命まで失う可能性は十分ある。それを承知でどうする。
深い沈黙が訪れ、大広間の緊張はピークに達した。空気が痛い。逃げたい気持ちもあるが、足がすくんで動けない。
「……お前、貴様はレオン・クリフォードと言ったな? 覚えておく。クリフォード領など、わたしの機嫌一つで消し飛ばせるんだぞ」
冷静な口調にこそ恐怖を感じる。貴族たちはさっと後ろに下がり、大きな輪を作って事態を見守り始めた。もう、夜会などどこへ行ったのか――ここはただ、修羅場と化している。
グレイスが小さく悲鳴をこらえるような顔をしている。泣きそうだ。俺もできることなら謝って引っ込みたいが、もう遅い。殿下が立ち塞がっているようにも見える。
「……殿下、そこまで、なさらなくとも……」
セシリアが低くつぶやいた。その声にほんのかすかに哀しみが滲んでいる気がした。けれど殿下は聞き入れない。
「黙れ、セシリア。王家への侮辱に加えて、余計な愚か者を煽った罪も重い。わたしの面子を潰した責任……取らせてやる」
もう収束など望めない。俺はさすがに耐えきれなくなって、グレイスの腕を引いて後退する。正面でこれ以上突っ張ったら、殿下がその怒りを爆発させかねない。そして、周囲の貴族たちも巻き込まれるかもしれない。
実際、数名が「危ないから離れろ……」とささやいているのが聞こえる。そう、俺はもう、ここに留まるわけにはいかない。
「レオン様……!」
「……悪いな、グレイス。俺のせいで……撤退するぞ、今は」
ぐいっと腕を引いて人だかりから外れる。殿下の冷徹な視線が背中を刺すのをひしひし感じたが、振り返れない。振り返ったら、もっとまずいことになる気がした。
夜会場を出るというほどでもないが、少なくとも今の中心から遠ざかることしかできない。セシリアの方をちらりと見たら、彼女はかすかにこっちへ目を向けていた。しかし、言葉は交わさないまま、殿下の怒りに向き合っている。
「……何てことをしてしまったんだ、俺は……」
グレイスも涙目で、「でも、レオン様は悪くないです! あんな断罪が横行するなんて……!」と声を上げる。
しかし、事態はもう収束不能の混乱に陥った。夜会全体が騒然として、誰もが王太子とセシリアの修羅場に目を奪われている。その余波を受けて、貴族たちは散り散り、俺たちにも変に注目が集まっている。
下級貴族の俺が、王太子に公然と異議を唱えた。この事実だけで、今後どうなるのか考えるだけで眩暈がする。
「……逃げよう。これ以上、面倒には巻き込まれたくない」
「は、はい……」
俺はグレイスを連れて、大広間をあとにするように足早に進んだ。扉を出た先で衛兵が怪訝そうにこちらを見るが、何も言わずに道をあけてくれる。
耳にはまだ、殿下の怒声と貴族たちの混乱した声が残響のように響いていた。
こうして、夜会は最悪の形で俺たちにとっての“終わり”を告げる。今夜、俺は王太子を完全に敵に回してしまったのだ――そう理解したとき、酒の酔いが一気に冷めるような、恐ろしい現実が重くのしかかってきたのだった。




