第11話 不穏な空気
それは、いきなりだった。
夜会が始まってしばらく、優雅な音楽と貴族たちの笑い声が行き交う大広間に、突如として強い視線が走った気がした。ほんの一瞬、空気が硬直する。その瞬間、人々が足を止め、ざわざわと左右のテーブルへ散っていた視線をひとつの点へ集中させる。
「王太子フィリップ殿下がご到着なされました!」
自然と場が緊張に包まれる。来たのか、王都ルベルスの頂点に君臨する男が。噂に聞くフィリップ殿下の存在感を肌で感じ、俺の心臓は急にどくんと高鳴った。
大広間の奥の扉が開き、見目麗しい侍従たちを従えた男がゆっくりと入ってくる。威圧感というか、オーラというか、その姿から“絶対的”な空気を感じるのがわかった。
「すごい……あの人が、王太子フィリップ殿下……」
「はい……レオン様、思ってた以上に迫力というか、余裕のある立ち姿ですね」
グレイスもごくりと唾を飲み込む。金色の装飾が施された宮廷服を纏い、まるで自分こそが中心だと言わんばかりの目線。確かに、ここまで人がひしめき合う夜会でも、彼の存在だけが際立っている。
フィリップ殿下は大広間の中央を堂々と歩き、周りの貴族が頭を下げて挨拶をするのに軽くうなずく程度。そんな仕草にも品があるように見えるから不思議だ。
「……あれ、セシリア様が見えてます。そこ、少し離れた場所に立って……殿下を見てる感じです」
「本当だ……。二人の距離感がなんだかおかしい気がする。婚約者だって聞いてたけど、あまり仲がよさそうに見えないな」
先ほど“遠巻きにされて”いたセシリアが、今は殿下をまっすぐ見つめている。といっても、微妙に視線が絡むかと思うと、殿下が逸らす――その一瞬で周りの貴族たちがざわめきを深める。何かある。そういう空気がビリビリと感じられる。
「……こりゃあ普通の夜会で終わらなさそうだ。俺たち、場違い云々言ってる場合じゃないかも」
「はわわ……でも、急に何か起きたら、下級貴族のわたしたちって巻き込まれますかね……?」
「その可能性も否定できない……。だから、注意深く様子を見守るしかない」
そうは言うものの、目の前で強まる緊迫感にあてられて、俺はついグラスに手を伸ばしてしまう。さっき別の貴族が「飲んで落ち着くといい」と渡してくれた酒らしいのだが、これがけっこう強い。
緊張していたこともあり、ぐいっとあおってしまった結果――頭が少しぼうっとしてきた。慣れない強酒をそんな勢いで飲むものじゃなかったと後悔するが、もう遅い。
「レオン様、大丈夫ですか? あんまりお酒に強くないんですから……」
「い、いや、ちょっとだけ……いや、かなり効いてきたかも……はは、こんな華やかな場所じゃなきゃ飲まないかもしれないけどさ……うう」
「もう、まったく……。でも、無理しなくていいですよ? あんまり酔って夜会で大変なことになったら……」
「わかってる。でも何だろう、胸騒ぎがするんだよ。嫌な予感というか、もっと強い……何か起こる、って直感がある」
実際、フィリップ殿下が到着してから大広間の雰囲気は一変した。先ほどまでの優雅な社交が、今は“嵐の前の静けさ”にも感じる。王太子がいつ何を発するか、皆が固唾を飲んで見守っているのだ。
セシリアもほぼ動かず、殿下の動きを気にしているようだし、殿下は殿下で淡々と周囲の挨拶を受け流している。
「ねえ、ねえ、レオン様、殿下の表情……なんだか険しく見えませんか?」
「ああ、そう見える。周りに笑顔を向けてはいるが、どこか冷たい」
「わ、わたし、怖いです……。まさか喧嘩みたいなことにはならないですよね?」
「いや、喧嘩って……王太子殿下相手じゃ勝ち目も何もないだろ。そもそもここは夜会なんだから、そんな荒事なんか――」
そう言おうとしたが、今の空気だとそれも楽観視できない雰囲気がある。セシリアと王太子の間に何があるのか、周囲の貴族はどこか期待めいた眼差しすら浮かべている。おそらく、貴族社会ではあれこれ知った情報があるのだろう。
よくわからないが、俺が思っていた以上に緊張感のある会だ。軽い宴会ではない。
「……お酒もう一杯飲むか?」
「ダメですよ、レオン様! これ以上飲んだら本当にフラフラになりますってば!」
「わかってる、でも口寂しいっていうか……」
「ううう、ほら、わたしがジュースを探してきますから、しばらくこの場を大人しく見ててください!」
グレイスが必死に引き止めるので、俺は苦笑してグラスをテーブルに置いた。正直、酔いの勢いがなければここまで冷静にいられないほど場違い感があるし、逆に飲み過ぎて失敗しても困る。
――そう、何か起こりそうな雰囲気に飲まれる中、酔いを押しとどめながら俺は言い聞かせる。
(よし、落ち着け。場の空気をちゃんと見極めて動こう。ここで変に慌てても仕方がない)
そして再び、ちらりとセシリアの姿を追う。あの冷ややかで高貴な女性がどう動くかで、今夜の夜会は一変するかもしれない――そんな直感が、緊張の糸をさらに張り詰めさせる。
フィリップ殿下は殿下で、時々セシリアを横目で見ているのがわかるが、まだ言葉を交わしてはいない。その合間に、ほかの貴族へ形式的な挨拶を繰り返している様子だ。
「……夜会の主役である殿下が、いまだ本題へ入らないってことは、やっぱり仕掛けがあるんだろうか」
「仕掛け……? たとえば、重大な発表とか……そういうこと?」
「たぶんな。悪い予感がするのは俺だけじゃないだろう。なんとなく会場全体が待ちの空気だ」
「ううう……やっぱり怖いです。わたしたち、うっかり巻き込まれたらどうしましょう」
そんなグレイスの言葉を、酒でほんのり火照った頭で受け止めていると、改めて冷や汗が出てくる。場違いな俺たちが王太子の“重大発表”に関わるとは思えないが、ここまで不穏な空気だと何が起こるか予測不能だ。
まさか、この夜会が後に俺の人生を大きく変えるなんて、まだ実感は薄かったけれど、胸騒ぎだけはどんどん強くなる。
「ともかく、今は見守るしかない。もしものときは……やるしか……」
「や、やるしか? 何を? 戦うんですか!?」
「いや、ちょっと物騒な方向に飛びすぎだって! 俺だって実際どうすりゃいいかわからんよ……ただ、覚悟はしておくしかない」
「ひいい……やっぱり夜会なんか慣れません……」
そんな小声のやり取りをしながら、俺たちは殿下とセシリアの動向、そして周囲の貴族たちの様子を注視する。酒を断つのは苦手だが、ここでしっかり意識を保っておかなければ、何かに巻き込まれるかもしれない。
王太子殿下が到着したことで、夜会は本格的に動き出す。その渦中で、まだ誰もが静かな焦燥を抱えている。俺も、その一人として息を詰めているわけだ。
「……頼むから、波風立たずに無事に終わってくれ……」
しかしこの願いが届かないことは、もうすぐ明らかになる。胸の奥から湧く強烈な胸騒ぎは、きっとここで終わらない。酔いの勢いだけが、ささやかな救いになっている俺は、そんな淡い祈りを飲み込むしかなかった。