第10話 セシリアとの邂逅
グレイスと一緒にテーブルで飲み物を受け取っていると、大広間に突然――まるで風がそよいだような、何ともいえない静寂が一瞬だけ落ちた。
俺は不審に思って周囲を見回す。すると、貴族たちがいっせいに視線を向ける先があるようだ。何だろう、とそちらへ目をやってみれば……そこには、一人の女性が立っていた。
白銀の装飾が縫い込まれた漆黒のドレスをまとい、長い銀髪をさらりと垂らしている。動きは控えめだけれど、その姿には周囲の空気を変えるようなオーラが漂う。まるで大舞台の中心に立っているのは、その人なんだ――と一瞬でわかってしまう程の存在感だった。
「……なんだ、この圧倒的な雰囲気は」
思わず声が漏れる。グレイスも手にしたグラスを落としそうになるくらい、目を丸くしている。
人々が遠巻きに彼女を見ていて、誰も近づこうとしない。けれど完全に無視するでもなく、視線を送りながらささやき合っている。
言葉ははっきり聞こえないが、断片的に「セシリア・ローゼンブルク……」「王太子との不仲……」なんて耳に入ってきて、先ほど名前を聞いた気になっていた人物と確信する。
「レオン様、あの方、セシリア・ローゼンブルクでしょうか……」
「……どうやらそうらしい。確か……高位貴族の令嬢なんだよな。気品ってレベルじゃない。あんなに周囲を圧倒する人、初めて見た」
彼女は特別な声を上げるわけでもなく、ただ静かに大広間の中央あたりを歩いているだけだ。それなのに、その一歩一歩で周りがさざめく。まるで誰もが引き寄せられるような美しさを宿している。
冷ややかな表情からは、どうにも近寄りがたい印象を受ける。下級貴族の俺などが話しかけても、あっさりあしらわれそうな――そんな“遠い”雰囲気。
「わあ……すごい。人があんまり近づかないんですけど、存在感がありすぎて逆に浮いてないような……」
「言いたいことはわかる。きっと、あの人自身にオーラがあるんだ。変な話、ここにいる誰よりも堂々として見える」
そのとき、彼女――セシリア・ローゼンブルクがふとこちらを向いた。つややかな瞳が俺たちの方へ流れ、ほんのわずかに動いたように感じる。気のせいかもしれないけれど、俺はまるで心臓をつかまれたような衝撃が走った。
ほんの一瞬。彼女と目が合った……ような気がする。でもその瞬間はすぐに終わり、セシリアはすっと視線を外してゆるやかに進む。たったそれだけの動作で胸が高鳴るなんて、自分でも驚きだ。
(なんだ……この感覚……)
脈がどくどくと速まる。俺はただ見とれていただけなのに、変に緊張して息が詰まる。これが“圧倒的な人”ってやつなのか。
周囲では、いくつかの貴族が彼女を見ながら小声で噂を飛ばしている。
「セシリア様は相変わらずだな……強い意志を宿している目だ」
「王太子殿下との婚約話、どうなるんだろう……」
「性格が高飛車、なんて言われてるけど、実際どうなんだろうね」
そんな言葉を耳にして、俺の頭の中で何かがもやっと残る。王太子の婚約者――またはその候補? それなのに、ここの場で距離を置かれているのはどういう事情なんだろう。
グレイスがそっと袖を引っ張った。
「レオン様、どうします? あの方に声をかけてみます? ……無理ですよね、さすがに」
「ま、無理だな。話しかける度胸も理由もないし。正直、向こうもこっちに興味なんて微塵もなさそうだ」
「ですよね……。あんなに近寄りがたい雰囲気、初めて見ました。あ、でも、すっごく美しいですよね」
「……ああ、本当に」
呆然としたまま、俺はセシリアが視界から離れるのを見届けるしかなかった。まるで一瞬だけすれ違った彗星のようで、その残像が脳裏に焼きつく。
周りの貴族たちも似たような感覚なのか、誰一人あからさまにセシリアへ近寄ろうとしない一方で、視線やささやきは絶えない。遠巻きにされるというのは、何らかの理由があるのだろう。王太子殿下と不仲だとか、高飛車だとか、いろんな噂が飛び交っているが、本当のところはわからない。
「……気になる、な」
「え? レオン様、何がです?」
「いや、彼女がさ。セシリア・ローゼンブルクって名前だけど、本当にどんな人なんだろうって」
「確かに、周囲があれだけ噂しているんですから、何か大きな問題でもあるんですかね」
頭を横に振って、気持ちを切り替えようとする。このままだとセシリアのことを考え続けてしまいそうで、場にそぐわない挙動を見せかねない。
この夜会には、いずれ王太子が登場する。その時、セシリアとどう絡んでくるのか……俺の胸に不穏な予感が芽生える一方、なぜか魅了されたような不思議な感覚を伴っている。
確かに周りは華やかだが、まるで空気に張り詰めた緊張が流れているようだ。
「レオン様、とりあえずドリンクと軽食をもう少し取ってきますね。あっ、またドジしないように気をつけます!」
「お、おう。頼むからこぼさないようにな」
グレイスが意気込んで離れていくのを見送る。俺は沈むようにため息をついた。
初めて見たセシリアの姿は、美しさと怖さが同居していた。まるで氷の結晶みたいな冷ややかな空気をまとっていて、でも見とれずにはいられない。
この先、彼女が夜会でどんな役割を担うのか、あるいは王太子フィリップとの関係がどうなるのか……考えただけで、胸がざわつく。
「……彼女は一体何者なんだ……?」
そうつぶやいて、大広間の奥に視線をやる。セシリアの姿は、もう人垣の向こうに隠れて見えない。けれどその存在感だけは、はっきりと残像のように意識にこびりついていた。
少し先には、きっと激動の幕開けが待っている――そんな予感を抱きながら、俺はこの華やかな場所で息を飲み続けるしかなかった。




