百合の間に挟まるな!!
花屋の前で信子は膝を抱え、自販機の横にちょこんと座り込んでいた。膝の上には開かれた本。指先でページをめくりながら文字を追っているが、その目はどこか遠くを見ているようだった。午後の柔らかな陽射しが降り注ぎ、風が花の香りをふわりと運んでくる。
本に差し込んでいた光が突然影に変わった。
「あーきちゃん、何してるの?」
驚いて顔を上げた信子の目に、すぐそこにある夢の笑顔が映り込んだ。
透き通るような肌と柔らかな茶色の髪が陽光に溶け込む。形の良い唇が、言葉を発したばかりの余韻を漂わせている。整った顔立ちにはどこか凛とした雰囲気があり、その瞳は太陽を映した湖のように穏やかだった。
信子は思わず言葉を失った。こんな近くで夢を見ると、胸がざわつく。この距離でいつも隣にいるはずの人が、なぜか遠い世界の住人のように感じてしまうのが不思議だった。
「……何って、店番」
やっとの思いで声をひねり出す。けれどそれは自分の胸のざわめきを押し殺すような、不自然に硬い響きを帯びていた。
「それがお客さん?」
夢の視線が膝の上に置かれた本に向けられた。指先がそれを軽く示す。
「……暇なだけよ!」
信子の声が少し強くなる。選ぶ余裕のない言葉は、夢の視線から逃れるための精一杯の防御だった。
夢はその様子に気付いたのか、静かに微笑む。その笑顔は人を責めるでもからかうでもなく、ただ空気に溶け込むような自然さをまとっている。
「ごめんごめん、またサボってるでしょって、おばさんが言ってたから」
自販機に小銭を入れる音がカチャリと響く。夢は軽やかに言葉を続けながら、ボタンを押す手を止めない。
「サボってない! ただ、ちょっと本を──」
信子の抗議を遮るように、ガコンと出てきた飲み物を夢はすぐに手に取り、冷たい缶を信子の手に押し付けた。
「ほら、これ」
信子の視線が落ちる。渡されたそれは、自分がいつも飲んでいるミルクティーだった。
「……ありがと」
夢はもう一本の飲み物を自分の手に持ち直し、ふと柔らかい声で言う。
「もう上がっていいって。おばさんがそう言ってたよ。一緒にお菓子食べよ」
そう言うと夢は、持っている飲み物を片手に店の中へと戻っていった。
信子はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。手にした冷たい缶をぎゅっと握りしめる。
「……ほんと、ずるい」
ぽつりと呟いた声は、夢には届かない。漏れる気持ちを抑えるように、膝の上の本を閉じた。その間に挟んだしおりの感触が、微かに指先に残る。
「.......」
信子は立ち上がった。
手にした冷たい飲み物のひんやりとした感触が、少しだけ火照った心を落ち着かせるようだった。
ふと、夢が入っていった店内の扉に目を向ける。
ため息を一つ吐いて、信子はゆっくりと足を動かした。
いつもより冷たい缶を持ったまま、店の中へ戻っていく。
店の手伝いを終えた信子は、夢と一緒に二階の自分の部屋へと戻る。
扉を開けると、穏やかな陽射しが信子の部屋を柔らかく照らしていた。壁際には小さな本棚が並び、ぎっしりと詰まった本が整然と並んでいる。その中には、夢が以前「これ、あきちゃんに合いそう」と勧めてくれた本も紛れ込んでいた。
机の上は少し散らかっていて、読みかけの本やペン、そしていくつかの花瓶が雑然と置かれている。その花瓶には、夢がフラワーデザイナーになるための練習で作った小さなブーケやアレンジが生けられていた。色合いや配置がどれも綺麗で、信子はそれを見るたびに「ゆめちゃんらしい」と思わずにはいられなかった。
その中に、少し萎れかけたアルストロメリアの花が混じっている。それは数日前、夢が「これ、部屋に飾ってみて」と選んでくれたものだった。
「これ、私が選んだやつだね。ちょっと元気なくなってるけど……まだ綺麗だよ」
夢が花瓶を手に取り、茎を軽く触る。その優しい仕草を、信子は思わずじっと見つめてしまった。
「茎を少し切り直して、水を替えてあげたら、もっと長持ちするよ。……でも、部屋に飾ってくれてたんだね。ありがとう、あきちゃん」
「べ、別に。置き場がなかっただけだし」
信子がそっけなく答えると、夢はくすりと笑った。
「もう、素直じゃないんだから。でも、やっぱりいい部屋だよね。練習したアレンジもちゃんと飾ってくれてるし」
「そりゃ……ゆめちゃんが一生懸命作ったやつだし」
そう答えた後、信子は視線をそらした。
机の上に目を落とすと、花瓶に挿されたアレンジの色合いが目に入る。ふと手を伸ばしそうになりながらも、信子は手を止めた。
「……ほんと、すごいよね」
ぽつりと漏れた言葉に、夢が視線を向けてくる。
「何が?」
その問いに、信子は少しだけ言葉を選ぶように考えた後、改めて机の花瓶を指さした。
「こういうの、私は絶対作れないもん。」
「そんなことないよ、あきちゃんだってできるよ」
夢が優しく微笑みながら言うと、信子はすぐに首を振った。
「む、無理無理! 私はこういうの苦手だし……」
ここから先の言葉を飲み込もうとして、一瞬だけ言葉に詰まる。
「それに?」
夢が首を傾けて尋ねる。その自然な仕草に、信子の鼓動がまた速くなる。
「……それに、こういうのはゆめちゃんだからできるんだよ。ゆめちゃんが作るから意味があるんだよ」
その言葉に、夢が少し驚いた顔を見せる。
「私だから……?」
「うん。ゆめちゃんが考えて作るやつって、ただ綺麗なだけじゃなくて、気持ちが込められてる気がするんだよね。だから、誰にも真似できないと思う」
その言葉に夢は一瞬目を丸くしたが、すぐにふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとう、あきちゃん。」
夢はそう言いながら、手に持っていた花瓶を机の上にそっと戻した。そして、ほんの少し顔を伏せる。
「……そんなに褒められると、ちょっと恥ずかしいけど……でも、すごく嬉しい」
そう言いつつも、口元には笑みが浮かんでいる。指先で机の上の花瓶を軽く触れる仕草は、なんとなく落ち着かなさを隠すようにも見えた。
「デザインってね、ただ飾るだけじゃなくて、自分の気持ちを伝えたり、誰かの気持ちを形にしたりするものだと思うんだ」
「……気持ちを伝える、か」
信子はその言葉を繰り返し、ふと机の上の花瓶に目を戻す。花に込められた「気持ち」を、今この瞬間、少しだけ感じ取れたような気がした。
夢は机の花瓶に目を落とし、少し考え込むように指先でその縁をなぞった後、ぱっと顔を上げた。
「さ、お菓子食べよ!」
その言葉に信子が少し驚いたように顔を上げる。そのまま夢はポケットから小さな紙袋を取り出し、中央に置かれた丸い机の上にそっと広げた。
信子は夢が何をするのか気にしながらも、さっきの本の続きを読もうと視線を戻す。ベッドと机の間に腰を下ろした信子の横顔を、夢はちらりと見やる。
「これ、今日作ったの。あきちゃんに食べてもらいたくて」
夢は机の上に紙袋を置き、中から丁寧にラッピングされた箱を取り出した。そのリボンを解きながら、ちらりと信子の様子を伺った。
「……何それ?」
信子が不思議そうに顔を上げると、夢は箱の中から形の揃ったクッキーを見せた。バターの甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
「クッキーだよ。久しぶりに作ったの。ちゃんと美味しくできたと思うけど……どうかな?」
夢は微笑みながらクッキーをひとつ取り出し、信子に差し出した。
「はい、あきちゃんの分」
信子は戸惑いながらもクッキーを受け取り、その焼き加減や形の綺麗さに見入った。
「……本当に夢ちゃんが作ったの? 市販のやつとかじゃなくて?」
冗談めかして言うと、夢はふくれっ面を作るようにして信子を見た。
「ちょっと! ちゃんと手作りだよ。信じてないの?」
その仕草があまりにも可愛らしくて、信子は思わずくすりと笑ってしまう。そのまま恐る恐るクッキーを口に運び、一口噛んだ。
ほんのり甘く、ほろほろと口の中で崩れる生地の食感が心地よい。バターの香ばしさと優しい甘さが広がり、思わず目を細める。
「……おいしい」
ぽつりと漏れたその一言に、夢の顔がぱっと明るくなった。
「よかった! あきちゃんにそう言ってもらえると、頑張った甲斐があるよ」
夢の笑顔が窓から差し込む柔らかな陽射しに照らされ、さらに輝きを増して見える。その姿に信子の胸がまたざわつき始める。
(……ほんと、なんでこんなに綺麗なんだろう)
視線をそらそうとしても、つい夢の横顔を追ってしまう自分に気づき、信子は慌てて持っていた本へと目を落とした。
夢の笑顔を見て、信子は慌てて視線をそらし、本のページを開いた。けれど、さっきから胸がざわついて、全然内容が頭に入らない。
「……夢ちゃんって、どうしてこんなに家庭的なんだろう」
不意に口から漏れたその言葉に、信子自身が少し驚く。目の前のクッキーの味に感動し、つい感想の代わりにそんなことを言ってしまった。
「え? そうかな……。でも、あきちゃんがいるから、かな」
その何気ない一言に、信子の心臓が跳ね上がる。
「……な、何それ」
動揺を隠そうとしても声が上擦ってしまう。視線は本に戻すが、ページの文字はまるで目の前から消えてしまったようだった。
夢はそんな信子の様子に気づく素振りもなく、クッキーをひとつ手に取りながら柔らかく笑って言った。
「だって、あきちゃんが喜んでくれるのが一番嬉しいからね」
信子は思わず顔を伏せた。手元の本に目を向けるが、夢の言葉が頭をぐるぐる回り続けている。
(……ずるい。本当に、ずるいんだから)
夢の自然な笑顔は何も悪くないのに、信子の胸はざわざわして落ち着かない。何とか気持ちを立て直そうと本に集中しようとするが、ページをめくる指がぎこちない動きをする。
そのとき、不意にふわりと栗色の髪が視界を覆った。同時に、ほんのり甘い香りが鼻先をくすぐる。
(ちかい、ちかい、ちかい、ちかいっ!)
信子の心臓が一気に跳ね上がる。顔を上げると、目の前には夢が本にかがみ込むように覗き込んでいた。彼女の髪が信子の手元にかかり、至近距離でその瞳が文字を追っている。
「ねぇ、あきちゃん。それ、何読んでるの?」
至近距離からの声に、信子は完全に固まる。視界いっぱいに広がる夢の髪とその穏やかな表情。彼女の瞳が真剣に文字を追っているのを見て、頭が真っ白になった。
「っ! な、なんでもない!」
信子は慌てて本を閉じ、その表紙を自分の胸に押し当てた。その動揺ぶりに夢は少し驚いたような表情を浮かべ、けれどすぐに微笑みながら首を少し傾ける。
「ふーん……そんなに隠すなんて、よっぽど面白い本なんだね」
「ち、違うってば! 本当に普通の本だから!」
信子の声が上擦り、耳まで熱くなるのが自分でも分かる。夢は不思議そうにその様子を見つめた後、さらに距離を縮める。
(だから近いってば!)
鼓動がどんどん速くなり、視線を逸らそうとするが、それすらもできない。
「……あきちゃんって、本当にわかりやすいね」
夢が小さく笑いながらそう言うと、信子の頭は完全にパニック状態に陥る。何とかこの場を切り抜けようと、必死に言い訳を考える。
「えっと……友情の話!」
「友情?」
夢が小首をかしげる。その仕草に、信子の胸がさらに締め付けられるようだった。
「そう! 女の子同士が仲良くしてる話!」
苦し紛れに言った言葉に、夢は納得したのか穏やかな笑みを浮かべる。
「へぇ、いいね。友情って大事だよね」
夢の自然な返答に、信子はようやく冷や汗を流しながらほっと息をつく。
「その本、私も読んでみたいな」
「っ!? だ、ダメ! これは借り物だから!」
慌てた信子の返事に、夢は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、あきちゃんが読み終わったら感想聞かせてね」
信子は本をぎゅっと抱きしめ、小さく頷くだけで精一杯だった。
しかし、夢が何かを思いついたように声を上げる。
「ところでさ、なんでこの本の女の子たちが抱き合ってるの?」
まさか挿絵を見られたのか――信子は一気に血の気が引いた。
慌ててページを閉じたものの、どうやら遅かったらしい。
「最近の本の女の子はみんなこんな感じなんだよ!」
信子は必死に言い訳をする。だが、夢は面白そうに笑いながら信子の反応を見つめている。
「じゃあ、私たちもやってみる?」
「えっ、本当に!?」
信子の内心はパニック状態だ。頭の中で警報が鳴り響く。
「いいの?」
「いいのって何?」
夢が小首をかしげながら、くすりと笑う。
「ほら、昔はよく私に抱き着いてたじゃん」
夢の言葉に、幼稚園時代の記憶がよみがえる。あの頃、夢は無邪気に信子に抱き着いてきたものだ。
信子は焦りながらも、当時の自分を思い出して赤面する。
「そ、そうだね……」
信子はごまかすように返事をした。
すると、夢がそっと信子に近づいてきて――両腕を広げ、優しく抱きしめた。
(ひゃあーーーーーーーーーー!)
信子の内心は大混乱だった。
抱きしめられた瞬間、全身に広がった温かさが、信子を夢の中にいるような気分にさせた
いい匂い……そして、柔らかい……!!!
信子の鼓動はどんどん速くなる。それを夢に知られたくない気持ちと、もっとこのままでいたい気持ちがせめぎ合う。
「大きくなったね、お互い」
夢が感心したように言うと、信子はぎくりとする。
「それと柔らかくなったね」
冗談交じりの声とともに、夢が信子の胸を軽く押す仕草をした。
「ひゃあっ!」
信子は跳ね上がるようにして飛び退く。顔が真っ赤だ。
「信じらんない!!!」
怒ったように叫ぶ信子。しかしその声には恥ずかしさと動揺が混じっている。
「私がどんな気持ちでいると思ってんの!」
夢は慌てて手を振りながら、悪びれた様子もなく笑った。
「あはは、ごめん、ごめん。そんなに怒らないでよ!」
信子が真っ赤な顔で怒りをぶつけている間、夢はバッグに手を入れて何かを取り出した。
「ほら、これ」
夢が差し出したのは、丸くて小さな球根だった。
「え、これ……何? チューリップ?」
信子は首をかしげる。花屋では咲いている花を仕入れることがほとんどで、球根を見るのは珍しい。花にあまり興味がない信子にはなおさらだ。
「咲いた時の秘密、今年はこれを育てようと思って。だから、あきちゃんも一緒に育ててみて」
夢は嬉しそうに微笑みながら、球根の育て方を説明し始めた。
「まず、冷蔵庫に3週間くらい入れてから植えるんだよ。そうすると、春には綺麗に咲くの。色も楽しみにしてて」
「秘密って、どんな秘密?」
「咲くまでわからないんだよ。どんな色になるかも、どんな香りになるかもね。それがこの花の楽しいところ」
夢はそう言うと、信子に向かって手を差し伸べた。
「一緒に育ててみない? あきちゃんの部屋でも咲くはずだからさ」
信子は球根を手に取り、しばらく見つめたあと、小さく頷いた。
「……わかった、やってみる」
夢は笑顔を浮かべながら立ち上がると、バッグを肩に掛け直した。
「じゃあね! また様子見にくるから」
「バイバイ……」
信子は小さく手を振り、玄関へ向かう夢を見送った。
信子は球根を机の上にそっと置くと、そのままベッドに倒れ込んだ。枕に顔をうずめ、声にならない叫びを押し殺すような音を漏らしながら足をじたばたさせる。
抱きついちゃった――!!
「どうしよう……夢ちゃんにこんなこと思ってるなんて……!」
頭の中はさっきの出来事が繰り返し再生されて止まらない。夢の優しい声、あの腕の温もり、ふわりと香った甘い匂い――すべてが信子を包み込み、心を落ち着けるどころか、余計に高ぶらせていた。
「落ち着け、私! ただの……ただの親友同士の……ハグ、だよ……」
枕に埋めた顔がさらに熱くなり、胸の鼓動は収まる気配を見せない。親友の夢とこんなに近くで触れ合ったなんて、まるで信じられない。
香り……柔らかさ……!!
服にほんのり残る夢の甘い香りを感じると、また心がざわつく。夢の腕に包まれたときの感触が、体中に残っている気がして、信子の顔がますます真っ赤になる。
抱きついちゃった――!!
枕に埋めた顔がさらに熱くなり、胸の鼓動は収まる気配を見せない。夢とこんなに近くで触れ合ったなんて、まるで信じられない。
机の上の球根に視線を移すと、それが夢と共有する新しい「秘密」のように思えてきた。咲くときの楽しみが、夢との距離をもっと近くしてくれるような気がする。
「あー、もう、こんなのずるい……」
信子は再び枕に顔を埋め、足をじたばたさせた。服に残る香りと感触が忘れられなくて、胸の高鳴りはいつまでも続いていた。
興奮頭を冷静にさせるために本の世界に戻ろうとする。
本を開くと一枚のしおりが落ちてくる。それを拾い上げると
「大変だね、お前も」
「え?」
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俺が最初に目を覚ましたのは、ページの間のわずかな隙間だった。薄暗い世界の中、少しだけ空いたスペースから、光が差し込む。なんだここは――俺、どうしてこんな場所にいるんだっけ?
そのとき、ふわっと周囲が揺れた。視界に映るのは文字の羅列。それも上下が逆さまに見える。
(……ん? 何だこれ。どうなってる?)
俺は動くこともできず、ただ状況を理解しようと記憶を探る。でも思い出せるのはほんの断片だけで、全体像は掴めない。しかも――自分が誰だったかすら、はっきりしない。
やがて周囲がさらに明るくなり、そして――。
「あーきちゃん、何してるの?」
ふいに聞こえた声。澄んだその声に、俺の中に妙な既視感が広がった。その後、膝を抱えた黒髪の少女が顔を上げる。彼女の膝の上には、本――俺が挟まれているやつだ。たぶん。
石飛信子っていうんだ。確か、俺の……クラスメイト。
だが、そんな断片的な記憶が浮かび上がる中で、信子は何かを言い返す。
「何って、店番」
なんともそっけない言い方だ。でも、その向こうにいるもう一人の少女――透き通るような茶色の髪と微笑む瞳を持つ、百合草夢に向けられる表情は、少し違う気がした。
(百合草夢……だよな? どうして彼女がここにいる?)
夢の笑顔が眩しすぎる。いや、それは俺の目線じゃなくて、石飛の視線を通して感じるものか。彼女は顔を赤くして、ぎこちなく言い訳をしている。
「暇なだけよ!」
信子の声は少し強がりが混じっている。でも――俺には見える。いや、感じ取れる。膝の上の本にかけた彼女の手が微妙に震えていることも。
(まじかよ、二人ってそんな関係なの!?)
夢は小さく微笑むと、自販機に向かう。その音がやけに大きく聞こえるのは、俺がこの本に挟まれているせいなのか? それとも――。
「ほら、これ」
百合草が差し出した冷たいミルクティーの缶。それを受け取った石飛が、ぽつりと呟いた。
「……ほんと、ずるい」
その言葉に、夢に聞こえたのかどうか、俺にはわからない。でも、その小さな声には、何かが確かに込められていた。
「これ、私が選んだやつだね。ちょっと元気なくなってるけど……まだ綺麗だよ」
ふと耳に飛び込んできた百合草の声。その柔らかなトーンに、何だか心が落ち着くような気がする。
「茎を少し切り直して、水を替えてあげたら、もっと長持ちするよ。……でも、部屋に飾ってくれてたんだね。ありがとう、あきちゃん」
え、百合草ってこんな花に詳しい感じの人だったのか? 意外。というか、夢ってまさかこれ、趣味でやってんの? 花のアレンジとか、そんなスキル持ってるとか聞いてないんだけど。つうか、それ以前にあんまり話したことなかった。
「べ、別に。置き場がなかっただけだし」
信子、なんでそんなにツンツンしてるんだよ。お前、内心めっちゃ嬉しいだろ? さっきから視線泳ぎまくりじゃん。家じゃこんな感じなんだ。
百合草が優しく花瓶を持ち上げる仕草に、信子はついその手元をじっと見つめてる。いやいや、そんなに凝視してどうするんだよ? 俺から見ても百合草の手つき、確かに丁寧で綺麗だけどさ。
「素直じゃないんだから。でも、やっぱりいい部屋だよね。練習したアレンジもちゃんと飾ってくれてるし」
ああ、百合草のこういうところがポイント高いんだろうな。柔らかくて気取らない笑顔とか、こういう小さな気遣いができるとか。クラスの男子が百合草を“高嶺の花”とか言ってたけど、こういうのを見てると納得せざるを得ない。
「そりゃ……ゆめちゃんが一生懸命作ったやつだし」
ほら見ろ、信子! やっぱりお前も大事にしてるじゃないか。でもな、その素直じゃない言い方、きらいじゃない。
「……ほんと、すごいよね」
ぽつりと漏れた信子の言葉に、百合草がゆっくり振り返る。その視線に信子はわずかに動揺してるみたいだけど、なんとか言葉を続ける。
「こういうの、私は絶対作れないもん。だから、ゆめちゃんはやっぱりすごいなって思って」
へぇ、信子、そんなに百合草のこと褒めるんだな。でもそれを本人に直接言えるって、意外と素直な一面もあるんじゃないか? ……いや、顔が真っ赤なのは何でなんだ?やっぱり、そういうことなのか!?そういうことなのか!?
「そんなことないよ、あきちゃんだってできるよ」
百合草はいつもの柔らかい笑みを浮かべながらそう言った。いやいや、無理だろ。俺から見ても初心者には確実に無理だってわかる。たぶん信子本人もわかってるはずだぞ、それ。
「む、無理無理! 私はこういうの苦手だし……」
ほら、案の定だ。
「……それに、こういうのはゆめちゃんだからできるんだよ。ゆめちゃんが作るから意味があるんだよ」
……え? ちょっと待て、信子、今さらっとすごいこと言わなかったか? 百合草も一瞬驚いてるし、これって思ってる以上にヤバい空気なんじゃないか?
「私だから……?」
百合草がぽつりと聞き返す。いやいや、これ以上その空気重くしないでくれ! 俺、挟まれてるだけなのに罪悪感がすごいんだけど、ごめんなさい!!それとありがとうございます!!
「うん。ゆめちゃんが考えて作るやつって、ただ綺麗なだけじゃなくて、気持ちが込められてる気がするんだよね。だから、誰にも真似できないと思う」
信子、落ち着け! その目で百合草をじっと見つめるなって! ……いや、百合草も悪い。柔らかい笑み浮かべて「ありがとう、あきちゃん」なんて言ったら、信子が更に困るだろ。
ああ、なんだこの空気。まるで見てはいけない何かを見てしまった気分だ。
「デザインってね、ただ飾るだけじゃなくて、自分の気持ちを伝えたり、誰かの気持ちを形にしたりするものだと思うんだ」
百合草の言葉に信子が目を丸くしてる。これ、確かにそうだなって思う。
「……気持ちを伝える、か」
信子がぽつりとつぶやく。その視線は机の花瓶に向かってるけど、いやいや、実際その先に見てるのは百合草だろ? 言葉には出さないけど、これ絶対そういう流れだよな。
百合草は、花瓶の縁を指でなぞりながら、少し考え込むような顔をしてる。けど、すぐに柔らかい笑顔に戻って――。
「さ、お菓子食べよ!」
あっさり空気変わった! いや、百合草のこの切り替え力、すげぇな。さっきまでの雰囲気からすぐに切り替えるのか。
信子は戸惑った顔をしてるけど、百合草がポケットから取り出した小さな紙袋に視線を移してる。なんかもう、自然と気を引かれてるのが分かるんだよな。
「これ、今日作ったの。あきちゃんに食べてもらいたくて」
ほら、また百合草ペースだ。信子、完全に引き込まれてるじゃないか。紙袋から出てきたのは、丁寧にリボンがかけられた箱だ。多分クッキーだろう。こういうときはクッキーだ、絶対にクッキー
「……何それ?」
信子が少し警戒したような声を出す。いやいや、そんなに身構えなくてもいいだろう。これ、ただのクッキーだって。
百合草は箱を開けて、形の揃ったクッキーを見せてくる。いや、本当にクッキーなのかよ、見た目だけでも美味そうだし、部屋いっぱいに広がる甘い香りがこっちにも伝わってくる気がする。そう気がするだけ。
「クッキーだよ。久しぶりに作ったの。ちゃんと美味しくできたと思うけど……どうかな?」
ほらほら、信子。百合草がクッキーを差し出してるぞ。受け取れよ! なんかその手つき、ぎこちないなぁ。
「……本当に夢ちゃんが作ったの? 市販のやつとかじゃなくて?」
冗談のつもりなんだろうけど、百合草がちょっとふくれっ面になってる。いや、これがまた可愛いんだよな。信子、よく見とけよ?まぁ、俺も初めて見る表情なんだけどな
「ちょっと! ちゃんと手作りだよ。信じてないの?」
信子、くすりと笑っちゃってるじゃん。なんだよその表情。ああ、クッキーを口に運んでる。
「……おいしい」
ぽつりと漏らした信子の一言に、百合草の顔がパッと明るくなった。……すごいな、信子の言葉ひとつでこんなに嬉しそうになるのかよ。百合草も完全に石飛のこと好きじゃん。
「よかったー あきちゃんにそう言ってもらえると、頑張った甲斐があるよ!」
嬉しそうに笑う夢。その笑顔が、窓から差し込む陽射しを浴びてさらに輝いて見える。そんな彼女を見て、信子の視線がふと逸れる。
(ほら、石飛。お前、また顔が赤くなってきてるぞ。これ以上バレないように気をつけろよ。)
信子は持っていた本を手に取り、無理やり意識をそちらに向けようとしているみたいだ。でもそのぎこちなさが、かえって隠しきれない動揺を物語っている。
「……夢ちゃんって、どうしてこんなに家庭的なんだろう」
不意に漏れた言葉。それを聞いた夢が驚いたように目を丸くした後、ふわりと微笑む。
「え? そうかな……。でも、あきちゃんがいるから、かな」
ええー!百合草ってこんなこと言っちゃう子なの!?
これは、石飛は明らかに動揺しているじゃん。ほらまた、手元の本に集中しようとして、逆にページをめくる手がぎこちなくなってるぞ。
「な、何それ……」
なんとか冷静を装おうとしてるけど、その声、少し震えてるんじゃないか? 夢はそんな信子の様子を気にするでもなく、クッキーをもう一つ摘まみながら、柔らかく笑っている。
「だって、あきちゃんが喜んでくれるのが一番嬉しいからね」
その自然な言葉に、信子はさらに赤面した顔を隠すように本を握りしめる。
いやいや、それはもうプロポーズみたいなもんだろ! そりゃ信子も困惑するって……。
信子はページをめくろうとするものの、手元は妙にぎこちなく、本の内容なんてきっと全然頭に入っていない。
信子は夢の言葉が頭から離れず、本に視線を落としたまま動けなくなっている。ページをめくる指先が妙にぎこちないのが、なんとも不器用だ。
信子、さっきから全然読めてないだろう? それとも、読んでるふりをしてるつもりなのか?
栗色の髪が視界に入ってくる。至近距離からふわりと甘い香りが漂ってきてる。え、この距離やばくない?
近い、近い、近いってば!信子の頭が完全にオーバーヒートしてるって!!
信子がビクッとしながら視線を上げると、そこには夢が。彼女の栗色の髪が信子の手元に軽く触れてるし、夢の瞳は本に注がれてる。本気で中身を読もうとしてるのか? そんな距離で? いやいや、それどころじゃなく石飛の内心がもう暴走気味じゃないか。
「ねぇ、あきちゃん。それ、何読んでるの?」
夢が穏やかに問いかけた瞬間、信子の表情が一気に固まった。
あ、やばい、これ完全に固まったぞ……。
「っ! な、なんでもない!」
おーおー、必死だなあきちゃんとやら
本をバタンと閉じて胸に押し当てた。なんとか百合草の視線を遮ろうとするけど、顔真っ赤だし耳まで赤くなってるぞ。これ、冷静に見たらバレバレなんだが……百合草は気づいてるのか、それとも天然なのか。
「ふーん……そんなに隠すなんて、よっぽど面白い本なんだね」
百合草の声は穏やかで、ちょっと楽しんでる感じだな。これ、石飛の動揺を見て遊んでるのか?それともただの好奇心?あの女、どっちにしてもズルいぞ。
「ち、違うってば! 本当に普通の本だから!」
ほら、石飛の完全に防戦一方だ。この場面、見てる俺までドキドキしてくるよ。なんだこの空気感……。
控えめに言って最高
夢は不思議そうに信子をじっと見つめて、さらに距離を詰める。
おいおい、近いって!また距離縮めてる!石飛の心臓耐えられるのか!?
「……あきちゃんって、本当にわかりやすいね」
夢が微笑むと、信子の顔がさらに赤くなった。あ、これ完全に詰んだやつだな。あきちゃん、何とか頑張れよ!俺も見てて恥ずかしくなってきたぞ。
「えっと……友情の話!」
ん?友情?石飛、苦し紛れにも程があるぞ。その説明で切り抜けられると思ってるのか!?
「友情?」
百合草が小首をかしげた。おいおい、その仕草、完全に石飛のHP削りに来てるだろ。あいつどうするんだ?
「そう! 女の子同士が仲良くしてる話!」
あー、石飛の全力の苦し紛れ来たな。でも百合草、そんなの信じるのか?
「へぇ、いいね。友情って大事だよね」
……あっさり納得した!?いや、百合草が天然なのか、本当に信じたのか、判断つかないけど、とりあえず石飛は助かったか?
石飛、ほっとして冷や汗拭いてるけど……これ百合草、絶対気づいてるよな。正直言って石飛の動揺、丸見えだぞ。見てる俺も恥ずかしいくらいだ。
「その本、私も読んでみたいな」
百合草の一言で、また石飛が慌て始めた!なんだこの連続攻撃……、もうHP残ってないぞ!?
「っ!? だ、ダメ! これは借り物だから!」
信子の上擦った声。夢も少し驚いた表情を見せたけど、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、あきちゃんが読み終わったら感想聞かせてね」
百合草はスッと身を引いたけど、その一言、石飛の心臓にとどめ刺してるぞ。見てる俺まで、なんか申し訳なくなってきた。
信子はぎゅっと本を抱きしめ、小さく頷くしかできない様子。
おいおい、大丈夫か?これ、まだ終わりじゃない気がするんだが……。
実況してる俺も、もうドキドキしてきた。こんなに近距離で心臓バクバクさせる展開、目を背けたくなるくらい恥ずかしいんだけどな……まぁ、面白いから見届けるんだけど!
「ところでさ、なんでこの本の女の子たちが抱き合ってるの?」
おいおい、百合草それはだめだって、唐突に核心を突くのやめろよ!信子の顔、いま完全に血の気が引いたぞ。いや、さっきまで真っ赤だったのに、今度は真っ青って忙しすぎるだろうが。
ページを慌てて閉じる信子、でも遅かったみたいだな。百合草の目は絶対に見逃してない。
「最近の本の女の子はみんなこんな感じなんだよ!」
あっ、言い訳きた!信子、必死すぎて逆に怪しすぎる。しかも声が完全に裏返ってるんだけど……。百合草は面白そうにその様子をじーっと見てる。うわ、これ信子、完全に泳がされてるぞ。
そして夢の一言が炸裂する――。
「じゃあ、私たちもやってみる?」
……おい、おい、おい、おい、おい、マジか、それ言っちゃう?本当に!マジで!信子の内心、いま確実に警報鳴りっぱなしだろ。信子の「えっ本当に!?」って声、俺の中にまで響いてきたぞ!
「いいの?」
さらなる追い撃ちがきた!百合草の小首かしげての無邪気スマイル、威力高すぎるだろ!信子の動揺、もう隠しきれてないぞ……。
「いいのって何?」
おっと、ここで追撃の追撃。百合草、ほんとに天然なのか?それとも狙ってやってんのか?どっちにしろ信子の心臓、これ以上耐えられないだろうよ。俺ももう耐えられそうにないよ。
「あのときもそうだったじゃん。お店に虫が出たとき、私に抱き着いてたじゃん」
えっ、そんな過去のエピソードまで持ち出してくる!?しかもその笑顔。信子の顔が真っ赤になってるのが見えるんだけど、俺、ちょっと見てるの辛くなってきた……いや、嘘だ。正直面白すぎて目が離せない。
「そ、そうだね……」
信子、精一杯ごまかしてるけど、その反応、逆に全部バレてるだろ!?いやもう、信子の防御力がゼロなのは明らかなんだけど……夢がそっと近づいてきたぞ。
――そして、来た!夢が信子を優しく抱きしめる!!
(ひゃあーーーーーーーーーー!)
信子の内心、めちゃくちゃ混乱してるのが手に取るように分かる。俺も見てて思わず「うわぁ……」ってなった。だってこれ、夢、完全にとどめを刺しに来てるだろ?
「大きくなったね、お互い」
夢、普通に感心してるけど、それが信子にどれだけの影響を与えてるのか、分かってないだろ!?
「それと柔らかくなったね」
うわぁ、冗談交じりに胸を軽く押す仕草まで来た!信子、もう耐えられなくなって飛び跳ねた。
「ひゃあっ!」
完全にパニック状態だ。顔真っ赤どころか、もはやトマトを通り越して真っ赤な唐辛子レベル。
「信じらんない!!!」
怒り混じりに叫ぶ信子だけど、その声には動揺がにじみ出てる。夢はというと、悪びれる様子もなくケラケラ笑ってる。いやいや、夢、罪深すぎるだろ……。
「あはは、ごめんごめん。そんなに怒らないでよ!」
夢の無邪気な笑顔。いや、それが信子を追い詰めてるんだって!
――そして、話題を変えるように夢がバッグから取り出したのは……球根?
「咲いた時の秘密」って、夢、また信子の心を揺さぶるようなこと言うよな。でも、信子の表情が少し柔らかくなったのを見て、ちょっと安心した。いや、夢が意図してやってるんじゃないかって思うくらい、タイミングが絶妙すぎるんだけどさ。
「……わかった、やってみる」
信子が球根を握りしめ、小さく頷く。この瞬間だけは、信子も夢に振り回されるのを少し受け入れたみたいだな。
夢が去ったあと、信子がベッドに倒れ込むシーンは、もう俺も思わず笑っちゃったよ。「どうしよう……夢ちゃんにこんなこと思ってるなんて……!」って、そりゃそうだろ。あんな抱きしめられ方したら、誰だってパニックだよ。
しかも、服に残る夢の甘い香りを思い出して、また顔を真っ赤にしてる信子。いやいや、信子、落ち着けって……いや、無理だなこれは。
こんなのが毎日続いてるの?
「いやぁ大変だね、お前も」
「……え?」
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信子は夢とのやり取りの余韻に浸りながらも、気持ちを整理するために机の上の本を手に取った。ページを開こうとしたとき、ひらりと一枚のしおりが膝の上に落ちた。
「ん……?」
しおりを拾い上げ、何気なく眺める。少し古びた紙製で、端がわずかに折れている。ただのしおりのはずなのに、信子はなんとなく違和感を覚えた。
すると――。
「いやぁ大変だね、お前も」
「……え?」
信子はぴたりと動きを止めた。今の声……。まさか、自分の空耳? そう思って周囲を見回しても、誰もいない。窓の外からの音とも違う。それどころか、誰かが自分に直接話しかけたように、声が耳元ではっきりと聞こえた。
「え……これ……?」
信子は拾ったしおりをじっと見つめる。いや、そんなはずはない。こんな普通の紙切れが喋るなんて――。でも、どう考えても今の声はこのしおりから聞こえたように思えてならない。
「聞こえてるんだろ?」
「ひゃっ!」
しおりから再び声がした。信子は思わず手元を放りそうになりながらも、なんとか握りしめた。
「こ、これ……夢が仕込んだやつとか?」
信子は疑心暗鬼になりながらつぶやいた。あの夢なら、何かしらの冗談でこんなことを仕掛けてもおかしくない。だけど、そんな機械仕掛けや録音ではなさそうだ。声のトーンが妙にリアルで、言葉が自分に合わせて変化しているように感じられる。
「夢? ……ああ、百合草夢のことか。いやいや、俺はそんな奴と関係ないぜ」
「え……?」
声が少し低めで、力強さを感じさせる。信子はその口調に、思わずきょとんとした。
「お前さ、最近色々と悩んでるだろ? その、百合草夢ってやつのことで」
「な、悩んでなんかないし!」
信子は反射的に否定したが、声が上擦っていた。自分でも動揺を隠せていないのが分かる。
「ほら、嘘つくなって。俺には分かるんだよ。お前、あの夢ってやつのこと――」
「ストップ!」
信子は慌てて声を張り上げた。しおりをぎゅっと握りしめ、その場で立ち上がる。
「違うから! 私が夢のことをそんなふうに思ってるとか、ありえないから!」
「ふーん、そんなに否定するってことは、逆に図星ってやつじゃないの?」
「だから違うってば!!」
信子は必死に否定するが、しおりの声はどこか余裕を感じさせる。それが余計に信子の焦りを煽る。
「いやいや、俺にはお前の態度が分かりやすすぎるんだよなぁ。さっきの夢とのやり取りだって、どう見ても――」
「もういい!!」
信子はついに耐え切れなくなり、しおりを机の上に叩きつけた。
「だいたい、なんであんたがそんなこと分かるわけ!?」
しおりは机の上でぴらりと揺れながら、少しだけ間を置いて返事をした。
「まあ……お前の心が、読めるって言ったら信じるか?」
「……は?」
信子は呆然としながらしおりを見つめる。何そのトンデモ設定。だけど、今この状況自体がそもそも非現実的すぎる。
「とにかく、俺にはお前の気持ちが分かる。だから隠そうとしても無駄だぜ?」
「そんな……!」
信子は机に突っ伏し、顔を覆った。こんな奇妙な存在にまで心を見透かされているような気がして、恥ずかしさと悔しさで頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「ま、別に深刻に考えなくてもいいさ。ただ、お前がどう動くか、俺はちょっと興味あるだけだ」
しおりの軽い口調に、信子は悔しさを押し殺しながら言い返す。
「……勝手に見物してれば?」
その言葉を聞いて、しおりは少しだけ静かになった後、ポツリと言った。
「まあ、見てるだけでも面白いが、俺も少しは手助けしてやりたいと思っただけだ」
「……余計なお世話よ!」
信子の反論に、しおりはくすくすと笑ったような気がした。
信子は机に突っ伏したまま、頭を抱え込んだ。目の前のしおりから声が聞こえるという事実だけでも十分に不可解なのに、さらに自分の気持ちをあれこれと指摘されるとは。
「……あんた、一体何なのよ……本当に、なんで喋れるの……?」
信子は顔を上げて、机の上にあるしおりをじっと見つめる。けれど、それはただの古びた紙切れでしかない。なのに、確かにさっきから声が聞こえるのだ。
「俺が何かって? さぁな。気づいたら、こうしてお前の本の間に挟まってたんだよ。自分でもよく分からない。だからとりあえず、目の前の面白い奴――つまりお前――を観察してるってわけだ」
「……意味わかんない……」
信子はしおりの言葉に困惑しつつも、少しだけ冷静さを取り戻していた。そして、改めて問いかける。
「じゃあ、どうして夢のことをそんなに知ってるの? あの子と私の話、全部見てたってこと?」
「まぁな。お前がこの本を読んでる間ずっと、俺は挟まってたんだよ。そのついでに、お前が夢にどう振り回されてるかも、全部見てた」
「振り回されてるとか……」
信子は思わず眉をひそめる。確かに夢とのやり取りにはいつも心を掻き乱されるけど、それをこんな風に指摘されると腹が立つ。
「でも、どうしてそんなこと気にするのよ。私と夢のことなんて、あんたには関係ないじゃない!」
「いやいや、関係ないどころか、めちゃくちゃ面白いんだよ。お前さ、見てると本当に不器用で、でも純粋でさ。夢に振り回されてるお前を見てると、なんか応援したくなるんだよな」
「応援……?」
信子はその言葉に少し引っかかりを覚えた。なんでこのしおりが、自分の気持ちをそんな風に言うんだろう。
「そうだよ。お前さ、自分で気づいているのかもしれないけど――お前、百合草のこと好きだろ?もちろん恋人的な意味で」
「――!!」
信子の顔が真っ赤になった。
「違う!!」
信子は即座に否定する。それは本能的な反応だった。
「私が夢に恋なんて……そんなわけないでしょ!」
「ほらほら、その焦り方がもう怪しいっての。お前、夢が隣にいるだけで顔真っ赤にしてたのに、自覚ないのか?」
「だ、だから違うってば!!」
信子は再びしおりを握りしめた。けれど、その指先が微妙に震えているのを自分でも感じてしまう。
「いいか、俺はお前が否定しても、事実を変えるつもりはないからな。お前は夢が好きなんだ。それだけの話だろ?」
「……っ!」
信子は反論しようと口を開いたが、言葉が出てこない。しおりの言葉が胸の中でぐるぐる回って、どんな風に否定しても空回りしてしまう気がする。
「ま、とにかく。お前がどうするか、俺は楽しみにしてるよ」
しおりの声はどこか軽やかだった。でも、その中に妙な説得力があるのが悔しい。
「……余計なお世話だって言ってるでしょ!」
信子は最後の抵抗を試みるようにしおりを机に叩きつける。けれど、その後に訪れた沈黙が、しおりの言葉の真実味を余計に引き立てているようで、信子はぎゅっと目を閉じた。
(私が……夢に……?)
心の中で否定しようとするたびに、夢の笑顔や声が脳裏に浮かぶ。どうしてこんな風に揺さぶられるんだろう。信子は胸のざわめきを押し込めようと深く息を吐いた。
「……ほんと、うるさいしおり……」
ぽつりと呟く声は、震えていた。
信子は机に突っ伏したまま、小さく震えながら涙をこぼした。肩を震わせる彼女の頭の中では、夢とのやり取りが何度も何度もリフレインしていた。
(もっと触れたい。もっと近くにいたい。でも……)
心の奥底から湧き上がる気持ちは、信子自身が一番理解している。だけど、それを言葉にしてしまうことがどれほど怖いかも、同時に痛いほど分かっていた。
「親友……なんだよ」
涙をぬぐいながら、震える声で呟く。夢は、ただの友達ではなく、信子にとって唯一無二の存在だった。数少ない友達の中でも、彼女だけはいつもそばにいてくれる。そんな夢との関係が壊れることを、信子はどうしても想像したくなかった。
「もし……もし気持ちを言っちゃって、夢との関係が終わっちゃったら……」
信子は机の上に頬を押しつけ、唇を噛みしめる。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、怖さが全身を支配していく。気まずくなるどころか、夢が自分を避けるようになったらどうしよう。そんなことになれば――。
「無理だよ……そんなの、絶対に無理……」
信子の目から、また涙がぽろぽろとこぼれる。今のままの関係ですら、彼女にとっては奇跡みたいなものだった。どうして夢が自分なんかと仲良くしてくれるのか、時々分からなくなるくらいに。そんな夢を失うリスクなんて、とても背負えそうにない。
ふと、机の上のしおりに目が留まる。明るい紫色に青いリボンがついたそれは、信子が夢からもらったものだった。表にはかわいらしいパンジーの花が描かれていて、いつも本に挟んで使っていた。
「……捨てられるわけ、ないじゃん」
信子はそっと手を伸ばし、しおりを指先でなぞった。夢が自分のために選んでくれたもの――たとえそれがどんなに小さなものでも、信子にとっては宝物だった。
「おい、聞こえてるぞ」
再びしおりから声が響く。信子は驚きながらもしおりを握りしめた。
「泣いてるのか?」
「うるさい……放っておいてよ」
信子はかすれた声でそう答えた。けれど、しおりの声はどこか柔らかいトーンになっていた。
「お前、めちゃくちゃ怖がってるな。でも、夢のことが大事なんだろ?」
「だから違うって……!」
信子はまた否定しようとしたが、声が詰まった。否定しようとするたびに、心が悲鳴を上げる。しおりの指摘がどれほど正確なのかを、自分が一番分かっていたからだ。
「無理に認めろとは言わないさ。ただ、俺には分かるんだよ――お前、本当に夢が好きなんだな」
その一言に、信子の涙が止まらなくなる。認めたくない。認めたら、もう自分の中で抑えていた気持ちが溢れ出してしまいそうで怖かった。
「……でも、言えないよ」
信子はぽつりと呟く。
「この気持ち、絶対に言えない。言ったら……壊れちゃうから」
しおりはしばらく黙っていたが、やがて静かな声で言った。
「そっか。でも、俺はお前がどうするか、どう動くか――楽しみにしてるよ」
「……意地悪」
信子はしおりを机の上に置き、再び突っ伏した。パンジーの絵柄が、ぼんやりと目に映る。夢からもらったしおり。それは、夢との小さなつながりの象徴のようだった。
「夢が……どうして、私なんかと……」
信子はそのまま小さく呟いた。泣き疲れて、やがて静かな呼吸だけが部屋に響いた。
信子はベッドに横たわりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。涙で腫れた瞼が少し重く感じる。机の上に置いたしおりが、視界の端にちらりと映る。
「……もう、何なのよ……」
信子は力なく呟いた。泣くことに飽き、冷静さを取り戻した心の中ではまだしおりの言葉がぐるぐると回り続けている。それはまるで、自分でも気づきたくなかった感情を無理やり暴き出すようなものだった。
(夢……)
信子は目を閉じ、夢の笑顔を思い浮かべる。その柔らかな表情、優しい声、ふとした仕草。全部が自分にとって大切で、大好きで、でもそれ以上の感情を持つことを恐れていた。
(もしも、私がこの気持ちを隠しきれなくなったら……夢ちゃんはどう思うんだろう?)
「……バカみたい」
信子は自分の額を軽く叩いた。こんなことを考えるだけで、胸が締め付けられるように痛くなる。夢との関係は、今のままが一番いい。大切な親友として、ずっと隣にいてくれる。それだけで十分なはずなのに。
ふと、机のしおりに視線を戻す。そのパンジーの絵柄は、夢が「これ、あきちゃんに似合うと思うよ」と言って選んでくれたものだ。明るい紫色と青いリボンが、夢の優しい笑顔と重なる。
「捨てられるわけ、ないじゃん……」
信子はそっと立ち上がり、机の上からしおりを拾い上げた。その感触はどこか温かく、柔らかな気持ちを思い出させる。
「夢のこと、もっと知りたい。でも、怖い……」
しおりを握りしめたまま呟いたその言葉は、誰にも聞かれることのない秘密だった。
「……それでいいのか?」
ふいに、しおりの声が再び聞こえた。信子は一瞬驚いたが、今度は少しだけ落ち着いて答える。
「何が?」
「その“親友”ってやつのままで、本当にいいのかってことさ」
「……それ以外に何があるのよ」
信子はつぶやくように返事をした。しおりの言葉に、何も言い返せない自分が悔しい。
「まあ、俺がどうこう言っても仕方ないけどな。ただ、お前がもっと素直になれたら、きっと楽になると思うよ」
「素直……ね」
信子はしおりを見つめながら、小さくため息をついた。その言葉が心に響くからこそ、簡単に受け入れられない自分がいる。だけど――。
「……ありがとう」
ぽつりと零れたその言葉に、しおりは少しだけ驚いたようだった。
「ん? なんでお礼なんか言うんだよ」
「うるさい……。なんとなくよ」
信子は机の上の花瓶を眺めた。夢がアレンジしてくれた花が、窓から差し込む柔らかな光の中でゆらゆらと揺れている。その様子に自然と微笑みがこぼれる。淡い色合いと絶妙な配置は、彼女の繊細なセンスを物語っていた。
「ほんと、夢ってこういうの上手いよね……」
思わず漏れた独り言に、自分で少し驚いたように口をつぐむ。その瞬間、机の上に置かれたしおりが微かに揺れた。
「あー、これはただの独り言なんだけどな……」
信子は眉をひそめた。しおりから声が聞こえたのだ。声がどこかわざとらしく、まるで「偶然」を装っているかのようだ。
「は?」
信子が顔を上げると、しおりがさりげない調子で話を続けた。
「夢って、花が好きなんだよなぁ。まあ、お前との会話を聞いてた感じだけどさ。だったらさ、その花瓶にバラとかパンジーとか、ちょっと綺麗な花を飾ってみたらどうかなーって思うんだけどなー。もちろん、俺が言いたいわけじゃないけど、な?」
そのあまりに不自然な「独り言」に、信子はしおりをじっと見つめた。疑念が募るばかりだが、どこか妙に納得させられる自分がいる。
「……何それ。まるで私にやれって言ってるみたいじゃん。」
「いやいや、俺はただのしおりだぜ? やれなんて一言も言ってない。ただ、まあ……やったらどうかなーって独り言を言っただけでな。」
信子は困惑しながらも、視線を花瓶に戻した。夢がアレンジしてくれた花に、いくつか別の花を加える。それはほんの些細なことだが、しおりの言葉が耳に残る。
(別に、やってみてもいいかも……。)
自然に手が動く。信子は机の隅に置いてあったカレンダーを指でなぞりながら、小さく呟いた。
「……まあ、気づかないだろうけどね。」
階下に降りた信子を包み込むのは、実家の花屋特有の柔らかな香りだった。午後の陽光が店内に差し込み、並べられた花々が鮮やかな色彩を放つ。その中で、彼女の目を引いたのは紫色の小さなパンジーだった。
「……これがいいかな。」
手に取ったパンジーの色合いに、ふと夢の柔らかな笑顔を思い出す。それが自然に選ぶ手を動かしていた。
部屋に戻ると、信子は慎重にパンジーを花瓶に加えた。バランスを崩さないように、夢のアレンジを壊さないように細心の注意を払いながら。
「……よし、これでいい。」
パンジーが加わった花瓶を見つめ、信子はそっと息をつく。自分でもなぜそんなことをしたのか分からない。ただ、そうすることで少しだけ胸のざわめきが和らいだ気がした。
「まあ、夢ちゃんが何か言うとも思えないし……別に気にされないよね。」
口に出してみても、その言葉がどこか空回りしている気がした。信子は軽く肩をすくめると、椅子に腰を下ろした。
それでも、視線は自然とパンジーを飾った花瓶に向いてしまう。胸の奥底に小さな期待が渦巻いているのを、信子自身が一番よく分かっていた。
信子はパンジーを加えた花瓶をちらりと眺めた後、ふうっと小さくため息をついた。どうしてこんなに些細なことで胸がざわざわするのか、自分でもよく分からない。そもそも、夢が花瓶の変化に気づくかどうかすら怪しい。
「……ほんと、私って何やってんだろ。」
ぽつりと呟きながら立ち上がり、部屋の隅に置いてあったパジャマを手に取った。ベッドの上に置いてあるタオルと一緒に抱え込み、廊下に向かう。
階下からは母の話し声が微かに聞こえてくる。お店の後片付けをしながら、常連のお客さんとの電話をしているのだろう。花屋の穏やかな日常が、その声から伝わってくる。
(……なんか、安心するな。)
そんな平穏さに包まれながら、信子は浴室に向かった。湯船に浸かると、今日の出来事が頭の中でぐるぐると回り始める。
夢と会話していたときの楽しさ。しおりの不思議な存在感。そして、自分の胸に広がる得体の知れない感情。
「夢に好きって言われる人って、どんな人なんだろうね……」
ふと、湯気に包まれた浴室でぽつりと呟いた。誰に言うでもなく、ただ自分自身に問いかけるように。その問いにはもちろん答えはない。
湯上がりのぽかぽかした体で部屋に戻ると、机の上の花瓶がふと目に入った。パンジーの紫が窓辺のカーテンに溶け込み、柔らかな夜の雰囲気を醸し出している。
「……変なこと、考えすぎかな。」
自分を落ち着かせるように呟き、ベッドに腰を下ろした。枕元に置いてあったスマホを手に取り、いつものようにニュースアプリやSNSをぼんやりと眺める。けれど、何を見ても気持ちが落ち着かない。
(あの花、夢は気づくのかな……?)
頭を振って、そんな考えを振り払おうとする。だけど、どうしても脳裏に浮かんでしまう。夢が花瓶の変化に気づいて、何かを言ってくれるのではないか――そんな期待が、どうしても捨てられなかった。
枕元の明かりを消して、横になる。布団を引き寄せながら目を閉じた。
「……夢ちゃんって、私のことどう思ってるんだろう。」
いつもと同じような夜なのに、今夜はどうしてか少しだけ胸が苦しい。目を閉じても、ふとした瞬間に夢の笑顔が浮かんできて、眠気が遠のいていく。
机の上のしおりが微かに揺れたような気がしたが、それを気にする余裕はもうなかった。
「おい、また考え込んでるだろ?」
布団の中から聞こえる声に、信子は反射的に返事をした。
「うるさい……もう寝るの。」
「へぇ、そうかよ。でも、どうせ眠れないんだろ?」
しおりのからかうような口調に、信子はぎゅっと布団を抱え込んだ。
「……ほっといて。」
「はいはい、ほっとくよ。ただな、夢のこと考えるのはやめられないってわけだ。」
「だから、違うってば……!」
声を少し大きくして言い返すが、それ以上の反論が思いつかない。しおりはそれ以上何も言わなかった。
静かな夜の中で、信子は自分の気持ちに揺さぶられながら、ようやく少しずつ眠気に包まれていった。布団の中で小さく呟いた言葉は、誰にも聞かれることのない、ほんのかすかな声だった。
「夢ちゃん……ずっと、隣にいてよ……」
翌朝、信子はベッドの中でまどろんでいた。目覚まし時計のアラームはとうに止めたはずなのに、布団の温かさと心地よさに抗えず、まるで体が布団に吸い込まれていくようだった。
「うーん……もうちょっとだけ……」
信子が寝返りを打って、もう一度目を閉じたその時だった。
「あーきちゃん、起きて!」
どこか楽しげな声が耳元で響く。その声は驚くほど近く、まるで誰かがすぐ隣で囁いているかのようだった。
「……最高……」
信子は寝ぼけたままの口調で呟き、布団に顔を埋める。夢の中にいるような、現実のような、曖昧な意識の中で、彼女は再び深い眠りに引き戻されようとしていた。
「ほら、起きないといたずらしちゃうよ?」
柔らかな声が再び耳元に響く。わずかに感じる暖かい吐息に、信子は布団の中で眉をひそめたが、それでも完全に目を覚ます気はなさそうだ。
「どうぞ、よろしくお願いします……」
信子はそう呟きながら、布団をさらにぎゅっと抱きしめた。どうやら完全に寝ぼけているらしい。
「もう、本当にいたずらしちゃうよ?」
軽く冗談めかした声が響くが、信子はまるで気にする様子もなく、ぐずぐずと動きを止めたままだ。仕方ない、と言わんばかりに声の主は小さくため息をつき――。
「――あきちゃん!」
突然、思いっきり布団を引っぺがされる感覚に、信子はようやく目を開けた。そこに立っていたのは、制服姿の夢だった。両手で信子の布団を掴みながら、少し困ったように微笑んでいる。
「やっと起きたかー。ほんと寝坊するのはいつも通りだね。」
「……何、夢ちゃん……?」
信子は呆けた顔のままベッドに座り込み、目をこする。まだ完全に覚醒しきれていない。
「何じゃないよ! 早く支度して、遅刻しちゃうよ!」
夢は大きく息を吐きながら腕を組む。信子のぐずぐずっぷりに、呆れつつもどこか慣れている様子だ。
「んー……5分だけ……」
「ダメ! あと5分なんて言ったら30分になるのがあきちゃんのパターンでしょ。ほら、さっさと顔洗って準備して!」
信子はようやく布団から抜け出し、重い足取りで洗面所へ向かった。夢はそれを見届けながら、小さく笑った。
「ほんと、しょうがないんだから……」
洗面所から響く水の音を聞きながら、夢は机の上の花瓶を見つけた。そこには、昨日信子がそっと加えたパンジーの花が飾られている。夢はしばらくその花を眺めた後、ふと何かを思い出したように微笑んだ。
「これ、昨日あきちゃんがやったのかな……?」
夢は小さくつぶやきながら、指先でパンジーの茎にそっと触れる。その仕草には、どこか嬉しそうな気配があった。
一方、洗面所では信子がようやく目を覚まし、寝癖だらけの髪を慌ただしく整えていた。鏡に映る自分の姿を見て、小さくため息をつく。
(なんで私がこんなに必死に準備してるんだろう……)
そう考えつつも、夢が待っていると思うと不思議と足取りが軽くなっていく。制服に袖を通し、鞄を手にして部屋を出ると、夢が玄関で待っていた。
「準備できた?」
「うん……遅れてごめん。」
「いいよ。じゃあ、行こっか。」
夢は信子の手を軽く引っ張りながら、歩き出した。信子はその背中を見つめながら、昨日しおりに言われた言葉をふと思い出す。
(……親友のままで本当にいいのか、って……)
心の奥底で渦巻く感情を押し込めながら、信子は静かに夢の隣に並んだ。その手には、昨日自分で飾ったパンジーが思い浮かんでいた。
このまま高校までは、歩いて15分くらいかかる
いつも夢が信子のことを迎えに来て、起こしてくれるまでがセットだ。
二人並んで歩いていると当然今日の朝の会話になる。
二人が歩き始めて少しすると、夢がふと思い出したように口を開いた。
「ねぇ、なんでパンジーを入れてくれたの?」
信子は、ドキリと胸が跳ねるのを感じた。わざわざ聞いてくるなんて予想外だった。横目で夢を見ると、彼女はいつもの無邪気な笑顔を浮かべながら信子を見つめている。
「えっ……そ、それは……なんとなく?」
信子は慌てて答えるが、その声は微妙に上擦っていた。自分でもこんなに緊張する理由が分からない。ただ、夢の瞳がじっと自分に向けられているのが、どうしても意識してしまう。
「なんとなく、ねぇ……ふーん。」
夢は意味ありげに頷きながら、口元に小さな笑みを浮かべる。それが信子の心をさらに焦らせた。
「だ、だって、別に深い意味とかないし!」
必死に言い訳をする信子に、夢はくすくすと笑い声を漏らした。
「もう、そういう言い方すると逆に怪しいよ、あきちゃん!」
「怪しくないし!」
信子は顔を赤くしながらそう言い返したが、その言葉にはどこか力がなかった。夢はなおさら楽しそうに笑っている。
「でも、嬉しかったよ。パンジーって可愛いし、私も好きな花だから。」
夢のその一言に、信子の心臓がさらに大きく跳ねた。自分が選んだ花が、夢に気に入られている――ただそれだけで、胸の中がじんわりと温かくなる。
「……そ、そう。好きならよかった。」
信子はなんとか平静を装おうとしたが、顔がますます熱くなるのを感じた。夢が気づいていないことを願いながら、前を向いて歩き続ける。
「うん、ありがとね、あきちゃん!」
夢が自然な笑顔で言うその言葉に、信子はほんの少しだけうつむいた。その姿に夢は気づくことなく、軽快な足取りで前を進んでいく。
高校まであと10分ほど。二人の間には穏やかな空気が流れていたが、信子の心の中はどこか落ち着かない気持ちでいっぱいだった。
(本当に、私の気持ち……このままでいいのかな。)
昨日のしおりの言葉が、また頭の中で反響しているようだった。
二人が歩き始めて少しすると、夢がふと思い出したように口を開いた。
「ねぇ、なんでパンジーを入れてくれたの?」
その問いに、信子の胸はドキリと跳ねた。まさかわざわざ聞かれるとは思っていなかった。横目で夢を見ると、彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら信子をじっと見ている。その視線がやけに鋭く感じられる。
「えっ……そ、それは……なんとなく?」
信子は咄嗟に答えたものの、その声は微妙に上擦っていた。自分でもこんなに緊張する理由が分からない。ただ、夢の視線が突き刺さるようで、どうしても気になってしまう。
「なんとなく、ねぇ……ふーん。」
夢は意味ありげに頷きながら、小さく微笑む。それが信子の焦りをさらに煽った。
「だ、だって、別に深い意味とかないし!」
必死に言い訳をする信子に、夢はくすくすと笑い声を漏らす。その軽やかな笑い声が、信子の胸をますます締め付ける。
「もう、そういう言い方すると逆に怪しいよ、あきちゃん!」
「怪しくないし!」
信子は顔を赤くしながら反論したが、その声にはどこか力がなかった。夢はそれを面白がるように、さらに楽しげな表情を浮かべている。
「でもさ、嬉しかったよ。パンジーって可愛いし、私も好きな花だから。」
その一言に、信子は再び胸が大きく跳ねた。自分が選んだ花が夢に喜ばれた――その事実が、心の中をじんわりと温める。
「……そ、そう。好きならよかった。」
信子はどうにか平静を装おうとしたが、顔がますます熱くなるのを感じた。夢が気づいていないことを祈りながら、前を向いて歩き続ける。
「うん、ありがとね、あきちゃん!」
その笑顔に安心しかけたのも束の間――。
「ちなみに、パンジーの花言葉は“私を思って!”だよね?」
「えっ!!」
突然、頭の中に飛び込んできた声に信子は立ち止まった。しおりのからかうような声が心の中で響いている。途端に、信子は自分が何をしでかしたのかをはっきりと自覚してしまった。
(そうだ……パンジーの花言葉……そんな意味があったんだ……!)
信子は顔を真っ赤にしながら、ちらりと夢の方を見た。花が好きな夢が花言葉を知らないはずがない。彼女はそれを知っている上で嬉しいと言ったのか、それとも……。
「どうしたの? あきちゃん、急に黙っちゃって。」
夢が不思議そうに信子を見つめる。その声が、さらに信子を追い詰めた。
(まずい! 夢ちゃんにはしおりの声が聞こえない……よね?)
完全に忘れていたが、しおりの声は心の中で響くものであり、夢には聞こえない。しかし、それでもこの状況をどう切り抜けるべきか分からなかった。
「そのことについて指摘してみろよ、『パンジーの花言葉って知ってる?』ってさ。」
しおりの声が、まるであざ笑うかのように響く。信子は思わず心の中で怒鳴った。
(黙っててって言ってるでしょ!)
「えっ? 何か言った?」
夢が首をかしげながら、さらに一歩近づいてくる。その仕草が信子の緊張をさらに増幅させた。
「う、ううん……何でもない! その、ちょっと虫が飛んでたから……びっくりしちゃっただけ!」
信子は咄嗟に誤魔化した。顔を赤くしたまま、わざと大げさに首を振る。その不自然な動きに、夢は一瞬驚いたような顔をしたが――。
「そっか、虫かぁ。もう、あきちゃんたら本当にびっくりすること多いよね!」
あっさり納得した様子で笑顔を浮かべた。その笑顔が眩しすぎて、信子は返事をすることもできず、ただ頷くだけだった。
(本当に……私、何やってるの……!)
胸の鼓動は一向に収まらない。夢が何も気づいていないことにホッとする一方で、自分の選んだパンジーの意味が、心の中でじわじわと恥ずかしさを増幅させていくのを感じていた。
そこから先のことは、信子にとってほとんど記憶に残っていなかった。
(これって、ほとんど……告白してるみたいじゃん……)
「私を思って!」という花言葉がどうしても頭から離れない。夢が横で何かを楽しげに話しているが、信子は曖昧な相づちを返すのが精一杯だった。自分がどう見られているのか、どう思われているのか、そればかりが気になって、夢の言葉はほとんど耳に入ってこない。
「……あきちゃん、聞いてる?」
「う、うん、聞いてるよ。」
適当に返したものの、夢が何を言ったのか全く分からない。そのうちに、学校が見えてきた。信子はようやく少しだけ気が楽になった気がした。
自分のせいでいつもギリギリになる登校時間。校門をくぐると、すでに朝のチャイムが鳴る寸前だった。教室に入ると、信子は夢と軽く挨拶を交わし、それぞれの席に向かった。周りの友達にも小さく「おはよう」と言いながら席に着いたその直後、ホームルームが始まった。
いつも通りの「おはようございます」という挨拶が教室に響く。だが、今日はその後、先生の口から予想外の言葉が続いた。
「みんなに伝えなければならないことがあります。昨日、○○くんが交通事故で亡くなったそうです。」
その瞬間、教室全体が凍りついたように静まり返った。次の瞬間には、ざわざわとした小声の波が広がる。
「大変悲しい出来事が起こりました。だからみんな、くれぐれも交通事故には気を付けてください。葬儀は○月○日、○時から行われるそうです。詳細はまた後で連絡します。」
先生はそう言うと、目を伏せて続けた。
「では、一分間の黙祷をしましょう。黙祷――。」
クラス全体が一斉に頭を垂れる。静寂が教室を包む中、信子は下を向きながらも、どこか現実味を感じられずにいた。
(……昨日まで普通にいたのに……どうして急に……)
思考がぐるぐると巡るが、答えが出るはずもない。一分が経ち、「黙祷終わります。」という先生の声で静寂が解かれると、教室中から一斉に囁き声が湧き上がった。
「嘘でしょ……」
「昨日も一緒に帰ったのに……」
「信じられない……」
誰もが同じようにショックを受けている中、信子も胸に得体の知れない重苦しい感情を抱えていた。○○くんとは、同じ図書委員としてそこそこ顔を合わせていた。親しい友達というわけではなかったが、何度も会話を交わしたことがある。その人が、もうこの世にいない――その事実がどうしても信じられなかった。
(昨日まで普通に話してたのに、今日だけじゃなくてこれからも会えなくなる……?)
その現実が、信子には遠いもののようで、どこか手の届かない感覚だった。クラスメートの誰かが話す「最後に○○くんと何を話したのか」という言葉が耳に入るたび、心の中にじわじわと違和感が広がっていく。
(……知っている人が亡くなるって、こんな感じなんだ……。)
授業が始まっても、どこか誰も集中できていない空気が教室を漂っていた。先生の声も、教科書をめくる音も、どれも耳を素通りしていく。
(……○○くんがいない教室なんて、やっぱり変だよね……。)
信子は隣の夢をちらりと見た。彼女もいつになく静かで、何かを考え込むように下を向いていた。信子は声をかけようか迷ったが、言葉が見つからず、そのまま視線を戻した。
結局、その日の授業はどこか心ここにあらずのまま過ぎていった。放課後になっても、○○くんの話題は尽きず、誰もがその死を受け入れられない様子だった。
学校が終わり、夢と二人で帰り道を歩く。
「あきちゃん、一緒に帰ろ。」
その声はいつになく静かで、どこか不安そうだった。信子はその気配を感じ取りながら、小さく頷く。
「うん。」
二人並んで歩き出すと、口を開いたのは夢のほうだった。
「なんか、こういうと変かもしれないけど……びっくりだね。」
「うん。」
「今日から……っていうか、もう一生会えないんだよね。」
「うん……。」
「私、正直言うとあんまり関わりはなかったから、実感がないんだけど……。」
「そうだね……。」
夢の言葉が途切れる。ふと立ち止まり、信子の顔を覗き込むようにして言った。
「あきちゃんはいなくなっちゃダメだよ。」
その言葉に、信子の胸がぎゅっと締め付けられた。
「……私、いなくならないよ。絶対。」
言葉に力を込めて答えながらも、信子は自分がこれほどの不安を抱いていたのかと初めて気づく。夢の真剣な表情に、ただ頷くことしかできなかった。
二人は再び歩き始める。夕暮れの街並みが、どこかいつもよりも静かに感じられた。
気づけば二人の足は信子の実家である花屋の前まで来ていた。夕暮れの柔らかな光が店先の花々を照らし、色鮮やかなコントラストを浮かび上がらせている。だが、二人の心にはその景色を楽しむ余裕はほとんどなかった。
「……今日は家に帰ろうかな。」
夢がふと呟いたその言葉に、信子は少し驚いたように夢の顔を見た。普段なら、このまま花屋で一緒にお茶をしていくのが二人の日常だったからだ。
「そっか……」
信子は小さく答えながらも、夢の表情がどこか曇っているのを感じた。彼女もきっと、○○くんのことが頭から離れないのだろう。言葉にしなくても、それが伝わってくる。
「なんかね、今日は……一人でいろいろ考えたい気分なの。」
夢は微笑んでみせたが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。信子は何も言えず、ただ頷いた。
「分かった。気をつけて帰ってね。」
「うん、ありがと。あきちゃんもね。」
そう言って夢は手を振りながら、静かに去っていった。その後ろ姿が遠ざかっていくのを見つめながら、信子は自分の胸の中に生まれた感情をじっと噛み締めた。
(……いなくなっちゃダメ、か。)
夢が言った言葉が、何度も頭の中で反芻される。まるで、それが自分に向けられた特別なメッセージのように思えてならなかった。
信子は店の中に入り、花の香りに包まれた空間に身を投じた。けれど、その香りでさえも、今日の出来事を薄めてくれるわけではなかった。
(○○くん、昨日まで普通に生きてたのに……)
その事実が何度も信子の心を揺さぶる。花屋に並んでいる鮮やかな花々でさえ、どこか無力に感じられる。
「ただいま。」
店内で作業をしていた母親が顔を上げる。
「あら、おかえり。夢ちゃん、今日は一緒じゃないの?」
「うん、今日は帰るって……ちょっと疲れたみたい。」
「そう……そうよね。今日の話、聞いたわ。○○くんのこと、本当に急だったものね。」
母親のその言葉に、信子は無言で頷いた。いつもなら何気ない会話が自然と続くはずなのに、今日は言葉が出てこない。
「大丈夫? 無理しなくていいから、疲れてるならゆっくり休みなさいね。」
母親の優しい声に、信子は「うん」とだけ答えて自分の部屋へ向かった。部屋に入ると、机の上の花瓶に目が留まった。夢が気づいてくれたパンジーが、そこに鮮やかに咲いている。
(……夢、どう思ったんだろう。)
信子はパンジーの花言葉――「私を思って」という言葉を再び頭の中で反芻する。それが夢にどんな風に伝わったのか、どんな風に受け取られたのか、不安と期待が入り混じって胸がざわめいた。
信子はベッドに腰掛け、大きくため息をついた。まだ17歳、これから先の人生がたくさんあるはずなのに、○○くんはそこで終わってしまった。そんなことを考えると、もったいなさや理不尽さが心に重くのしかかる。
(……もしかして、私も何かを失ってしまうんじゃないか?)
その思いが、不意に胸の中で形を成す。気づけば、言葉が自然と口を突いて出ていた。
「……私、やっぱり夢ちゃんが好き。」
自分でも驚くほど素直な声だった。頭の中で押し込めていた気持ちが、口から零れ落ちるように溢れていく。
「後悔したくないし……ちゃんと気持ちを伝えたい。」
その言葉に、机の上のしおりが微かに揺れたように見えた。続けて、しおりの声が静かに響く。
「そうか。」
驚きも茶化しもない、どこか真剣な返事だった。信子はその冷静さに、逆に少し救われた気がした。
「じゃあ俺は全力で手伝ってやるよ!」
しおりの言葉に、信子は少しだけ笑みを浮かべた。
「うん、ありがとう。」
「具体的にはどうしたいんだ? 作戦でもあるのか?」
信子は机の上の花瓶に目を向けた。夢がアレンジしてくれた花々が、夕日に照らされてほのかに輝いている。
「……ちゃんと気持ちを伝えたいし、それに……夢ちゃんが好きな花束を作って渡したい。それと一緒に、自分の気持ちを伝えるの。」
「ほう、それはいいじゃん。ロマンチックだな。」
「でも、あんなに上手にできるか分からない……」
信子は少し不安げに花瓶を見つめる。その目線に合わせるように、しおりも体を傾ける。
「確かに、夢のアレンジはプロ顔負けだもんな。でも、お前なりに頑張ればきっと伝わるさ。」
「……うん、私なりに頑張る。」
しおりは小さくうなずくように揺れた。
「そうか。頑張れよ。」
「……なんだか、やけに素直だね。いつもならもっと茶化してくるのに。」
信子が少し驚いて言うと、しおりはどこか満足げな声で答えた。
「俺はな、お前がこうやって前を向こうとするのが嬉しいんだよ。たぶん、死んだやつもそう思ってるぜ。」
その言葉に、信子は眉をひそめた。
「それって……ちょっと不謹慎じゃない?」
「そう思うか? けど、あいつだって心残りが多かっただろうさ。運が悪かったんだ。でも、死んだことでみんながずっと暗い雰囲気のままじゃ、あいつも報われねえだろ? こうやって誰かが前を向いてくれるなら、少しは気が楽になるんじゃないかと思うけどな。」
「……そういうものなの?」
「そういうもんさ。死んだやつの代わりに、生きてるお前が何か行動する。それが結果的に、あいつへの供養にもなるんだよ。」
信子はその言葉を噛み締めるように、小さく頷いた。
「……分かった。とりあえず、夢ちゃんの好きな花束を考えるところから始める。」
「いいね。まずは何が必要か、明日から一緒に考えてやるよ。」
信子はそっと机の上に置いたしおりを見つめながら、胸の奥に小さな決意を灯した。それは、不安や迷いを抱えながらも、前に進もうとする第一歩だった。
「あーきちゃん、起きて。あーきちゃん!」
どこか聞き覚えのある声が耳元で囁く。しかし、まだ眠気が勝っている信子は、意識の隅でその声を聞き流しながら静かに提案をした。
「もうちょっとだけ……」
「もう、本当にいたずらしちゃうからね?」
半分夢の中でその言葉を聞き流していると、不意に何か暖かいものが自分のテリトリー――布団の中に侵入してきた。
(ん……なんか、柔らかくて暖かい……)
ふと気づけば、目の前には大きなテディベアのような物体が現れていた。無意識にそのぬくもりに惹かれるように、信子はその「テディベア」にぎゅっと抱き着いた。
(気持ちいい……これ、いい夢かも。今日は大当たりだな……)
とろけるような満足感の中で布団に沈み込んでいたその時――。
「ほら、抱き着いてないで、起きてよ」
先ほどの声が今度は優しく耳元に届いた。その声に少し目を開けると、そこには見慣れた、そして驚くほど近くにある綺麗な顔が――。
「ゆ、ゆ、ゆめちゃん!?」
一瞬で目が覚めた信子は、慌てて身を起こした。その拍子に布団がずり落ち、顔が真っ赤になる。
「やっと起きた~。」
目の前には、柔らかな微笑みを浮かべた夢がいる。どうやら、信子を起こすために布団の中にまで潜り込んできたらしい。
「効果てきめんだね。」夢はおどけるように言う。「毎日これで起こそうかな?」
昨日の静かな表情とは打って変わって、普段通りの無邪気な幼馴染の姿だ。信子はさらに慌てて、布団を掴み直しながら必死に抗議した。
「そ、それはダメ! 本当にやめてよ、心臓が持たないから!」
「え~、だってこれでちゃんと起きたじゃん、 いい作戦だと思わない?」
夢はおもしろがるように言いながら、いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「ていうか、勝手に入ってこないでよ!しかも、布団の中にまで!」
信子の顔は真っ赤で、言葉を詰まらせながらも夢に文句を言う。しかし、夢はどこ吹く風といった様子で、肩をすくめて言い返した。
「だって起きなかったのはあきちゃんじゃん。こうでもしないと遅刻しちゃうよ?」
「う……それは……」
反論しようとするが、確かに自分が全然起きなかったのも事実だ。仕方なく言葉を飲み込む信子の様子を見て、夢はさらに楽しそうに笑う。
「ほらほら、早く準備しなきゃ。遅れるよ。」
「うぅ……わかったよ。」
信子はため息をつきながらベッドから降りた。背中を押すように促す夢を横目に見ながら、心の中でこう思った。
(夢ちゃんって、ほんと容赦ないんだから……でも……)
胸の奥が少しだけくすぐったくて、目覚めたばかりなのにドキドキしている自分がいた。それを隠すように、信子はそそくさと洗面所へ向かう。
後ろで夢の明るい声が聞こえた。
「じゃ、下で待ってるからね~!」
その声がいつもよりも少しだけ嬉しそうに感じたのは、気のせいだろうか。
支度を済ませて玄関に向かうと、夢は昨日の静けさが嘘のように、いつも通りの明るい笑顔を見せた。
「じゃあ、行こっか。」
「うん。」
信子は軽く頷き、夢と並んで歩き出した。柔らかな朝の光が二人の影を路上に落とし、心地よい風がほほを撫でる。少しの間、二人は特に言葉を交わすことなく、穏やかな空気の中を歩いていた。
しばらくして、信子がふと口を開いた。
「ねぇ、うちって花屋でしょ。」
「うん?」
夢が首をかしげながら信子を見る。その視線を感じながら、信子は少し緊張した様子で言葉を続けた。
「だからさ、お葬式のお花を見繕ってあげようと思うの。○○くんとはそんなに親しいわけじゃなかったけど、関わりが全然なかったわけでもないし……それに、お父さんやお母さんがメインでやると思うんだけど、私も個人的に何か作ってあげたいなって思ったの。」
夢は驚いたように目を見開いた後、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……そうなんだ。あきちゃん、そういうところほんと優しいよね。」
「そ、そうかな……?」
信子は少し照れたように目を逸らした。そんな彼女の反応を見ながら、夢は続けて言った。
「うん、いいと思う! 私もあんまり○○くんとは関わりなかったけど、あきちゃんがそうやって考えてくれてるの、すごく嬉しいよ。もちろん手伝う! 喜んで!」
その言葉に、信子はほっと胸をなでおろした。夢に頼むことで何か言われるかもしれないと少し不安だったが、夢はむしろ前向きに協力してくれるようだ。
「ありがとう、夢ちゃん。ほんと助かるよ。」
「お礼なんていいよ! 一緒に作るって、なんだか楽しそうだし!」
夢はにこっと笑い、信子の隣で軽く足取りを弾ませる。信子はそんな彼女の笑顔を横目で見つめながら、心の中で小さく呟いた。
(夢ちゃんが一緒にいてくれるだけで、ちょっと勇気が出る気がするな……。)
二人の間には、昨日の出来事を思わせるような重さはもうなかった。ただ、目の前にある何かを一緒に作ろうとする温かな気持ちがそこにあった。
「それでさ、今日放課後はうちで手伝ってくれない? お母さんにも言ってあるから。」
「うんわかった、楽しみにしてる!」
夢はにこっと笑いながら頷いた。その笑顔を見て、信子は少し安心する気持ちになった。二人がそんな会話をしているうちに、学校に到着した。友達と軽く挨拶を交わし、それぞれ自分の席に着く。
信子は鞄を開けて、文房具を取り出そうとする。その上に重ねて置いてあったのは、今読んでいる本だった。ふと、その本に挟まれたしおりが目に入り、無意識に手を止める。
「それでさ、今日放課後はうちで手伝ってくれない? お母さんにも言ってあるから。」
「わかったよ、楽しみにしてる。」
夢はにこっと笑いながら頷いた。その笑顔を見て、信子は胸の奥がほっと温かくなるのを感じた。二人がそんな会話をしているうちに、学校に到着した。友達と軽く挨拶を交わし、それぞれ自分の席に着く。
信子は鞄を開けて、文房具を取り出そうとする。その上に置いてあったのは、今読んでいる本だった。ふと、その本に挟まれたしおりが目に入り、手を止める。
(……なんか、お葬式を利用しているみたいで申し訳ないな。)
そんな考えが頭をかすめた瞬間、聞き慣れたしおりの声が、頭の中に響いた。
「そんなことないぞ。」
突然の声に、信子はびくっと体を震わせ、手元が滑った。次の瞬間、文房具が床にばらまかれる音が響き、教室の数人が振り返る。さらに運が悪いことに、ペンケースのチャックが半開きだったため、中身が四方八方に散乱してしまった。
「わっ、あきちゃん大丈夫?」
「え、えっと……ごめん、ちょっと手が滑っちゃって……。」
夢をはじめ、近くの友達が声をかけながら手伝ってくれる。信子は真っ赤な顔でお礼を言いながら、散らばった文房具を一つずつ拾い集めた。
ようやく全てを机に戻し、信子は静かに息を吐く。そして、頭の中でしおりに抗議した。
(急に話しかけないでよ!びっくりしたじゃん!それに、なんであなたにそんなこと分かるの?)
「なんとなく、分かるんだよ。俺が、お前のそばにいるからな。」
(……そんなの、勝手すぎるでしょ。)
信子は心の中で強く返したが、しおりの返答はどこか軽やかだった。
「お前が考えてること、案外悪くないと思うぜ。それに、“誰かのために何かをしたい”っていうのは、すごくいいことだ。」
(……でも、私は……。)
「いいから張り切って作ってやれ。お前の気持ちはきっと届くさ。」
その言葉に、信子はほんの少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。しおりの声には、不思議と励まされる力があったからだ。
(……分かった。じゃあ、ちゃんといいものにできるように頑張る。)
「おう、その意気だ。俺がついてるんだからな。」
しおりの声が途切れると同時に、信子は小さく息を吐き出した。ちらりと夢の方を盗み見ると、彼女は何事もなかったかのように教科書を開きながら、穏やかな表情を浮かべていた。
(よし、放課後は夢ちゃんとしっかり準備しよう。)
信子は自分の机に向き直り、改めて気合を入れ直した。胸の奥にはまだ少し不安が残っている。それでも、今は前を向くしかない――そう自分に言い聞かせながら、ホームルームでの「おはようございます」の挨拶をした。今日は少し声に力が入っていると自分でも感じた。
昨日の出来事が胸に残りつつも、教室の雰囲気は幾分か緩和されていた。ざわついた空気は少し落ち着き、いつもの日常が戻りつつあるように見える。けれど、ふとした瞬間に、誰かが○○くんの名前を口にし、小さな静寂が教室の一角を支配することもあった。
授業が始まると、先生たちは決まって同じような言葉を口にする。
「○○くんのこと、本当に残念だったな。皆さんも気をつけてください。」
その度に、クラス全体が無言のまま頷く。その言葉が空間を支配する一瞬、信子は机の上に視線を落とし、自分の中のざわめきを押し込めるようにしていた。
(……もう、あんまり思い出させないでほしいな。)
そう思うものの、それでも○○くんのことを話題にしないわけにはいかない。それだけ、彼がクラスメートにとって大切な存在だったのだと思い知らされる。
そんな中でも、授業は淡々と進んでいった。教科書をめくる音や先生の声が響くたびに、信子は頭を切り替えようとノートに向かった。
「……じゃあ、ここまでで終わりにします。」
最後の授業が終わるチャイムが鳴り、放課後のざわつきが教室を包む。その瞬間、信子の肩から少しだけ力が抜けたような気がした。
夢が隣の席から立ち上がり、軽い声で話しかけてくる。
「あきちゃん、一緒に帰ろ?」
その声は昨日よりも少しだけ明るく感じられた。無理に元気を出そうとせず、自然体な夢の声に信子は安心感を覚える。
「うん、帰ろう。」
「今日はお花の準備するんだよね?」
夢はにこりと微笑みながら、鞄を肩にかけた。その表情はどこか穏やかで、信子も自然と頷く。
信子が少し遠慮がちに言う。
「基本的なことは夢ちゃんに聞こうかな? 夢ちゃんにも分からないことがあったら、お母さんが『なんでも聞いて』って言ってたし……」
それに対して、夢が軽く頷きながら答える。
「うん、分からないことがあったら、どんどん聞いて! あたしでよければ、ちゃんと教えてあげるよ。」
その自信に満ちた言葉に、信子は少しだけ肩の力を抜く。そして、ふと聞いてみた。
「お花、どんな風にするの?」
「まだ決めてないけど……お母さんがメインで作ってくれると思うから、私たちは花束を作ってみようかなって。」
信子の答えに、夢が嬉しそうに目を輝かせる。
「花束かぁ、それいいね! あきちゃんが作るなら、絶対素敵なものになるよ!」
「……いやいや、私一人じゃ絶対心配だから、夢ちゃんにもちゃんと手伝ってもらうからね?」
信子がそう言うと、夢が笑顔を見せながら胸を張った。
「もちろん! あたしに任せて! もしかしたら、あきちゃんより上手に作っちゃうかもね?」
夢の冗談めかした口調に、信子はつい吹き出してしまう。その笑顔を見て、夢もさらににこりと笑った。
信子と夢が信子の家に到着し、花屋のお母さんに挨拶を済ませると、二人は信子の部屋に向かった。いつもの丸いテーブルに腰掛け、信子が少し不安そうな表情で口を開く。
「まず、どういう花を使ったらいいかな……?」
夢はテーブルの上に肘をつきながら、柔らかい笑顔で答える。
「故人のための花束っていうのはね、基本的に白い花を使うのが一般的なんだよ。」
その説明に、信子は少し首を傾げながら尋ねる。
「どうして、白い花なの?」
夢はふわりと微笑みながら、真剣な目で信子を見つめる。
「白ってね、仏教では『清浄』、つまり清らかさや純粋さを意味する色なの。それで、葬儀とは切っても切れない関係にあるんだよ。」
信子は「へぇ……」と小さく頷きながら、夢の言葉に耳を傾ける。
「それだけじゃなくて、四十九日までは故人が裁きを受ける期間だって言われてるんだけど、その間、つつましく、静かに見守るという意味でも白い花を使うんだって。」
「そうなんだ……知らなかった。なんか、白い花ってそういう深い意味があるんだね。」
信子の声には、少し感心したような響きが混じっていた。
「うん。でも、全部白だと少し寂しい感じになっちゃうから、淡いピンクとか紫を少し入れるといいと思うよ。柔らかくて優しい印象になるし、○○くんもきっと喜ぶと思う。」
「……なるほど。じゃあ、白をベースにして、ちょっと色を加えてみようかな。」
信子が小さく決意を込めたように頷くと、夢がさらに微笑みながら続けた。
「あとね、花言葉も考えるともっと気持ちが伝わるよ。例えば、白いカーネーションは『純粋な愛』、白いユリは『純潔』とか。」
「花言葉か……」
信子は机の上に手を置きながら、少し考え込むように呟いた。その姿を見て、夢が優しく言葉を添える。
「難しく考えなくていいよ。あきちゃんが○○くんに送りたい気持ちが一番大事なんだから。」
その言葉に、信子は少し驚いたように夢を見つめたが、次第に柔らかな表情を浮かべた。
「……ありがとう、夢ちゃん。なんだか少し気が楽になった。」
「うんうん、その調子! じゃあ、お母さんにも聞きながら、一緒に花を選んでみよう?」
信子は頷きながら立ち上がる。二人の間には、少しずつ前向きな空気が流れ始めていた。
そして、二人は店の中に戻った。夕暮れの柔らかな光が差し込む店内には、花々の香りが漂い、どこか落ち着いた空気が流れていた。しかし、信子の両親は慌ただしく動き回っている。急に入った葬式の準備という大仕事に追われているのが一目で分かった。
「おかえり。夢ちゃんも、手伝ってくれるの?」
作業の手を止めることなく、母親が笑顔で声をかけてきた。
「はい! 私も何かお手伝いできたらって思ってます。」
夢が元気よく答えると、母親は「頼もしいわね」と嬉しそうに微笑んだ。
「ただ、ごめんね。ちょっとバタバタしてるけど、何か困ったことがあったら何でも聞いてね。あきちゃんたちも、自分たちでできることをやってみてちょうだい。」
「うん、分かったよ。私たちは花束を作ってみるね。」
信子がそう言うと、母親は「それならお願いね」と短く答えて再び手を動かし始めた。
二人は作業台の前に並んで立つと、夢が花を持ってきて淡々と説明をする。
「よく使われるのは、こんな感じだよ。」
夢は指を一本立てて言葉を続ける。
「まず、リシアンサス。トルコキキョウって呼ばれることもあるんだ。ふわっと優しい印象で、一本からたくさん花が咲くのが特徴なんだよ。」
信子は「へぇ」と感心したように頷きながらメモを取り出した。夢はさらに続ける。
「次はカーネーション。『感謝』って花言葉があって、お供えにはぴったりなんだよ。白いカーネーションは清楚な感じがするし、花束に入れると素敵だと思うな。」
「感謝か……いいね、それ。」
信子は小さく呟きながら、メモ帳に「カーネーション」と書き込んだ。
「それからね、ユリ。キリスト教のお葬式でよく使われるんだけど、花言葉が『純粋』とか『無垢』とか、すごく神聖な感じがあるんだ。」
「確かに……ユリって特別な感じがするよね。」
「でしょ? あとはキク。これは日本のお供え花として定番だよね。邪気を払う意味があって、仏壇やお墓には欠かせない花なんだ。」
信子は夢の話を真剣に聞きながら、メモ帳に花の名前を丁寧に書き留めていく。
「リシアンサス、カーネーション、ユリ、キク……どれも素敵だね。それぞれ意味があるんだ。」
「そうだよ。それぞれの花に花言葉や由来があるから、組み合わせを考えるのも楽しいと思うよ。」
夢の言葉に信子は少しだけ前向きな気持ちになった。
「じゃあ、この中から何を使うか、まず選んでみようかな。」
「そうだね。でも、全部使うとバランスが悪くなっちゃうかもだから、何かをメインにするのがいいかもね。」
「うん……リシアンサスをメインにしてみようかな。優しい雰囲気にしたいから。」
信子がそう言うと、夢はにっこり笑って答えた。
「それ、絶対いいと思う! あきちゃんが作るなら、きっと素敵な花束になるよ。」
「……私だけじゃ心配だから、夢ちゃんもちゃんと手伝ってよ?」
信子が少しだけ照れたように言うと、夢は胸を張りながら明るい声で答えた。
「もちろん! あたしに任せてよ。一緒に素敵な花束、作ろうね。」
「……ありがとう。」
信子はそっと微笑みながら作業台に向き直り、夢とともに花束の準備を始めた。その姿には、少しずつ自信が宿っているようだった。
さっそく作業に取り掛かった。夢は慣れた手つきで次々と花を選び、配置を整えていく。その動きは滑らかで、自信に満ちていた。
一方、信子は花束作りに大苦戦していた。花屋の娘でありながら、あまり真剣に手伝ったことがなかった自分の過去に、少しだけ後悔の念がよぎる。
(もうちょっと、ちゃんとやっておけばよかったな……)
悔しそうな表情で花を手に取っていると、夢がすぐに気づいて声をかけてくれた。
「ほら、こうするともっと上手くいくよ! 花の向きをちょっと調整してみて。」
そう言いながら、夢は信子の手元をそっとサポートする。
「ここはね、こんな感じで配置すると綺麗にまとまると思うよ。」
「ほんとだ……夢ちゃん、すごいね。」
「まあね!」と夢は軽く笑いながら、手を動かし続けた。
二人で作業を進めるうちに、少しずつ信子もコツをつかみ始めた。ぎこちなかった手つきが、ほんの少しだけスムーズになり、完成のイメージが頭の中に描けるようになってきた。
気づけば、店内には夕暮れのオレンジ色の光が差し込み始めていた。時計を見た夢がふと声を上げる。
「あきちゃん、もうこんな時間だよ! 続きは明日だね?」
信子も作業を止め、時計を確認する。
「うん、わかった。今日はありがとう、夢ちゃん。」
その時、奥からお母さんが作業の手を止めて出てきた。
「夢ちゃん、手伝ってくれてありがとうね! こんなに助かることないわ。本当にありがとう。終わったらお駄賃あげるからね!」
お母さんの言葉に、夢は慌てたように手を振りながら頭を下げる。
「いえいえ! いつもお世話になってるし、こういう機会に恩返しできてすごく嬉しいです!」
「本当に頼もしいわね。また明日もお願いしてもいいかしら?」
「もちろんです!」
夢は明るく笑いながら答えると、信子の方を向いて言った。
「じゃあ、あきちゃん、また明日ね。」
「うん、また明日。」
信子も笑顔で答えながら、夢を見送る。夢が店の扉を開けて外に出ると、夕暮れの街並みに彼女の後ろ姿が小さくなっていく。
(……夢ちゃん、ほんとにすごいな。)
心の中で感謝の気持ちを抱きながら、信子は作業台に戻り、今日の進捗をじっと眺めた。
夢が帰ったのを確認すると、信子は少し息をついて、再び店内を見渡した。
(送りたい気持ちが一番大事……か。)
夢が言ってくれた言葉が頭の中で何度もリフレインする。それは単なる励ましの言葉だったのかもしれないが、今の信子にとっては深く響くものだった。
「……一度きちんと調べてみよう。」
そう呟くと、信子は携帯を取り出し、告白するときに使われる花について検索を始めた。画面に次々と表示される情報を見ながら、色々なアイデアが浮かぶが、同時に悩みも増えていく。
(バラは……さすがにベタすぎるよね。でも、他にどんな花がいいんだろう……。)
ため息をつきながら、信子はふと店内に視線を戻した。その時、大きなひまわりが視界に入ってきた。
「ひまわり……か。」
その鮮やかな黄色い花が、まるで太陽のように輝いているように見えた。信子はひまわりについて気になり、検索欄に「ひまわり 告白 花言葉」と打ち込む。
検索結果を見ていると、ある説明文が目に留まった。
太陽を連想させる、明るくて華やかな色と独特な見た目が特徴のひまわり。夏のプロポーズにぴったりな花です。バラなど王道の花を避けたい方にもおすすめですよ。
ひまわりの花言葉は、「あなただけを見つめる」「憧れ」です。相手への一途な愛を伝えたいときに、ぴったりな花言葉ですね。
その文章を読んだ瞬間、信子の顔が熱くなるのを感じた。
(「あなただけを見つめる」……なんて……!)
まさに自分の想いを形にしたような花言葉に、どうしようもなく恥ずかしさが込み上げてくる。けれど、ひまわりの明るくて力強いイメージは、どこか夢にぴったりな気がしてならなかった。
「……ひまわりで作ろう。」
信子はそう心の中で決心した。少し頬を赤らめながらも、作業台に戻り、大きなひまわりを一つずつ集め始める。店の在庫を見ながら、慎重に選んだ花を手元に並べる。
もちろん、ただで花を使うわけにはいかない。信子は自分の部屋に行き、これまで貯めてきたお小遣いや店番をしている時にもらった駄賃を持ってきた。レジの横に置いてあったメモ帳に「ひまわり代」と書き、自分で支払うつもりだ。
(この花束は、私の気持ちそのものだから。)
信子はそう自分に言い聞かせながら、ひまわりを使った特別な花束作りを始めた。夢の笑顔を思い浮かべながら、花びらの一枚一枚に心を込めた。
翌朝は土曜日。雨の音が窓を叩く中、信子は普段よりも早く目を覚ました。雨の音が少しうるさかったのかもしれない。それにしても、自分がこんなに早く起きるのは珍しい。布団から抜け出すと、部屋の隅に置いてある昨日の途中まで作ったひまわりの花束に目を向けた。
(今日で仕上げちゃおうかな。)
そう決心すると、信子は作業台に向かい、ひまわりを丁寧に整え始めた。静かな朝の空気の中で作業に集中していると、ふいに店の方からドアが開く音が聞こえた。それに続いて、夢の明るい声が両親に挨拶しているのが聞こえる。
「……えっ、もう来たの!?」
信子は慌てて手元の花束をベッドの下に押し込み、昨日二人で作っていた葬儀用の花束を広げ直した。作業をしているふりをしながら、なんとか平静を装う。
「おはよう、あきちゃん。」
恐る恐る部屋を覗き込んだ夢は、信子がすでに起きているのを見て驚いたように声を上げる。
「おはよう。」
信子はできるだけ自然に返事をした。
「起きてるの珍しいね。普段はまだぐっすり寝てる時間じゃない?」
夢が笑顔で言うと、信子は少し照れくさそうに肩をすくめた。
「なんかね、昨日の作業が案外楽しくなっちゃってさ。ちょっと続きやりたいなって思ったんだ。」
その言葉を聞くと、夢はそれはもう嬉しそうな顔を見せた。
「本当に!? あきちゃんがこういうのに興味持ってくれるなんて、めちゃくちゃ嬉しいよ!」
夢の笑顔を見て、信子は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。こうして喜んでくれる姿を見ると、自分が花束を作る決心をしたことは間違いじゃなかったと思える。
「葬式、月曜日だっけ?」
「うん。学校もお休みになるらしいよ。」
「そっか……でも、今日一日で仕上げたら間に合うから、頑張ろうね。」
「うん、そうだね。私も最後まで手伝うから、一緒に素敵なの作ろう!」
二人はそう言葉を交わし、机を挟んで座り込むと、黙々と作業を始めた。雨音が小さなリズムを刻む中、ひたむきに花を整える二人の姿はどこか穏やかで、そして少し特別な時間のように感じられた。
「終わったー。」
信子が椅子から体を伸ばしながら、ぐったりとした声を漏らす。朝の8時から始めた作業は、昼食を挟んで15時まで続いていた。こんなに一つのことに没頭して集中するのは、信子にとって初めての経験だった。
「本当に終わったねー。」
夢も同じように体を伸ばしながら相槌を打つ。そのまま机に寄りかかり、ほっとした表情を浮かべている。信子は疲れた体を支えるようにその場に横たわり、天井を見つめた。
「……これで喜んでくれるかな?」
信子はぽつりと呟く。どこか不安げなその声に、夢は優しく自信を込めて答えた。
「大丈夫だよ、あきちゃん。だって私たち二人で作ったんだもん。」
そう言いながら、夢はそっと完成した花束を手に取り、信子に見せる。
「それに、ほら、これ見て。こんなにきれいなものになったんだよ。」
信子はゆっくりと体を起こし、夢が差し出す花束をじっと見つめた。そこには真っ白なリシアンサスがふんわりと束ねられていて、どっしりと大きな存在感がある。それはシンプルでありながらも品があり、温かみを感じさせる仕上がりだった。
「……そうだね。」
信子は小さく頷きながら、ほんの少しだけ笑顔を浮かべた。自分でもここまでいいものが作れるとは思っていなかった。心の中に小さな達成感が芽生える。
「疲れたー。」
今度は夢が花束を机に置き、床にゴロンと横になる。その様子をぼんやりと眺めていた信子だったが、ふと夢が何かに気づいたように体を起こした。
「……ん? 何これ?」
夢がベッドの下に手を伸ばし、茶色い紙に包まれた何かを取り出す。その瞬間、信子は焦りを感じて叫んだ。
「それはダメ!」
信子は急いで夢の手からそれを取り戻そうとする。だが、勢い余って夢を押し倒してしまった。
「……えっ……」
押し倒された形になった夢が驚いた顔で信子を見上げる。その瞬間、信子の胸はドキンと高鳴り、言葉を失う。
「……夢ちゃん……」
ぽつりと言葉が漏れる。二人の顔は思わず近くなり、信子はそのままどんどん夢の顔に顔を近づけていく。何かに引き寄せられるように、頭では「ダメだ」と思っても、体が言うことを聞かない。
(止まらない……)
心の中で叫びながらも、視線は夢の瞳に吸い込まれ、さらに顔を近づける。息遣いすら感じられる距離になり、信子は何も考えられなくなっていた。
けれど、ふいに――
「……あきちゃん、近いよ。」
夢が静かに言った。その言葉にはどこか困惑と照れが混じっている。
「私たち……友達でしょ?」
その一言で、信子はハッと我に返った。慌てて体を引き離し、夢から目を逸らす。顔が熱くなっているのを自分でも感じた。
「……ご、ごめん。」
同時に、信子の目から涙がこぼれ落ちた。
「ごめん……」
小さな声でそう呟いた瞬間、床に落ちていた茶色い紙に包まれたものを掴み、そのまま夢の視線を振り切るようにして店の外に走り出した。
雨が降りしきる中、信子はただただ無我夢中で走り続けた。雨粒が頬を伝い、涙と混ざり合う。濡れた服が肌に貼り付いていく感覚すら、今の彼女にはどうでもよかった。ただ、その場から消えてしまいたかった。自分の気持ちが夢に知られてしまったのではないかという恐怖と、抑えきれなかった自分自身への怒りが渦巻いていた。
気づけば、近くの橋の上に立っていた。強く吹き付ける風が、彼女の髪を乱す。信子は震える手で、茶色い紙に包まれた花束をぎゅっと抱きしめた。
「わかってた……」
小さく呟いたその声は、雨音にかき消されそうだった。
「わかってたのに……」
再び溢れ出す涙を拭うこともせず、信子は小さく肩を震わせながら自分に問い続けた。
「どうして……私はこうなの?」
「どうして……みんなみたいに、普通に男の人を好きになれないの……?」
「なんで……なんで夢ちゃんを好きになっちゃったの……?」
問いかけるたび、胸の奥から込み上げてくる悔しさと悲しさが溢れてくる。自分の感情を抑えきれなくなり、声を上げて泣き続けた。
「どうして……どうして……」
何度も口にするが、答えは返ってこない。雨だけが冷たく、彼女の全身を濡らしていく。
「……もう、意味ないじゃん。」
信子は震える声で呟きながら、抱えていた花束を川に向けて投げようとした。茶色い紙が雨で濡れて緩み、ひまわりが顔を覗かせた。
その瞬間、脳裏に夢の言葉が浮かぶ。
「送りたい気持ちが一番大事なんだから。」
信子はハッと息を飲んだ。手を止め、視線をひまわりに向ける。鮮やかな黄色の花弁が雨に濡れながらも、まるで笑顔のように揺れていた。
「捨てられるわけないじゃん……」
自分にそう言い聞かせるように、信子はひまわりをそっと抱きしめた。雨がその肩を容赦なく打ち続ける中、彼女は再び声を上げて泣き出した。
誰にも伝えられない想いが、胸の中で渦巻いている。でも、花束だけは手放すことができなかった。その花束が、自分の気持ちそのもののように思えたからだった。
信子は泣き疲れて帰宅した。どうやって家にたどり着いたのか、自分でもよく覚えていない。ただ、全身が雨でびしょびしょに濡れていることだけがはっきりしていた。
玄関を開けると、母親が驚いたような顔をして駆け寄ってきた。
「ちょっと、どうしたの? そんなにびしょびしょで……!」
母親はタオルを手に取り、信子の髪や顔を優しく拭き始めた。信子は何も言えず、ただ黙ってされるがままになっていた。
「夢ちゃんが探してたわよ。何かあったの?」
その言葉に、信子はほんの少しだけ目を伏せて、力なく答えた。
「……喧嘩しちゃった。」
「そう……夢ちゃん、心配してたみたいよ。あたしから連絡しておくから、とりあえずお風呂入ってきなさい。風邪引いちゃうから。」
母親に促され、信子は重い足取りで浴室へ向かった。
湯船に浸かると、全身に染みついた冷たさがじんわりと溶けていくのを感じた。けれど、その心はまだ沈んだままで、頭の中には夢の顔が浮かんでは消えていく。
(……どうしてあんなことになっちゃったんだろう。)
自分を責める気持ちと、夢に対する申し訳なさが混ざり合い、胸が苦しくなる。
その時だった。浴室の外側から、控えめなノックの音が聞こえた。
「……あきちゃん。」
夢の声だった。信子は驚いて目を見開いたが、すぐに湯船の中で体を縮めた。どうして夢がここにいるのか、答えられない自分が情けなかった。
「……ごめんね。」
ようやく口にしたその言葉は、震えていた。浴室の外の夢は一瞬だけ黙り込んだ後、静かに言葉を返した。
「……そっか。分かった。」
その声はいつもの夢らしい明るさではなく、どこか寂しげだった。信子はその言葉を聞いて、思わず唇を噛んだ。
(今は……顔を合わせたくない。)
そう思ってしまった自分がさらに嫌になり、視界がぼやけた。
浴室の外からはもう何も聞こえない。夢がその場を離れたことを感じ取りながら、信子は一人、熱いお湯の中で静かに涙を流し続けた。
風呂から上がり、信子はタオルで髪を拭きながら部屋に戻った。扉を開けると、部屋の真ん中に置かれた丸いテーブルの上に、夢と二人で完成させた花束が置かれていた。白いリシアンサスを中心にしたその花束は、部屋の中でひときわ存在感を放っている。
信子は少しだけその花束を見つめた後、ため息をついてそれを持って下の店に運ぼうとした。しかし、階段を降りたところで母親が待っていて、別の包みを手にしていた。
「これ、忘れてるでしょ?」と、母親が優しい声で言う。
渡されたのは、茶色い紙に包まれたひまわりの花束だった。信子は一瞬戸惑ったが、母親は微笑みながら続けた。
「大事なんでしょ? 帰ってきたときに、あんなに大事そうに抱えてたじゃない。」
その言葉に、信子は喉が詰まるような感覚を覚えた。母親の気遣いが心に染みる。
「……ありがとう。」
そう小さく呟くと、信子はひまわりの花束を抱えて再び自分の部屋へと戻った。
部屋に戻ると、ひまわりの花束はところどころ濡れていたが、それでもその鮮やかな黄色い花びらはたくましく咲いていた。信子は静かに花束を机の上に置き、紙を外して整え始める。
(濡れちゃったけど、まだ大丈夫……きれいに形を整えれば……。)
信子は無言で、丁寧に花束の形を整えていく。その作業に没頭していると、ふと心の中に声が響いた。
「……ありがとうな。」
突然の言葉に、信子は手を止め、驚いたように辺りを見回した。しかし、もちろん部屋には誰もいない。けれど、その声は確かに聞こえた。
「……なんで、ありがとうなの?」と、心の中で問い返す。
声は少し照れたように答えた。
「いや、その……なんていうか、二人で作った花束を見てたら、感動してさ。思わず感謝を伝えたくなったんだよ。きっと、あんなにすごいものをもらえる人は、安らかに眠ると思う。」
信子はその言葉に胸がじんと熱くなった。いつの間にか、ひまわりの花束を抱きしめるようにしていた自分に気づき、そっと微笑んだ。
「……そうかな。私の気持ち、ちゃんと伝わるかな……?」
「伝わるさ。だって、その花束だって思いを込めて作ったんだろ? なら、絶対に伝わる。」
その言葉に、信子は心の中にわずかに残っていた不安が少し和らいでいくのを感じた。握っていた花束をそっとテーブルに戻し、決意を込めて呟いた。
「……私、頑張るよ。」
すると、声がどこか穏やかに返してきた。
「うん、がんばれ。」
その言葉は、まるで背中を押してくれるように優しく、力強かった。信子はひと呼吸してから、ひまわりの花束を丁寧に包み直しながら、改めて自分の想いを大切に抱え込んだ。
日曜日、夢は信子の家に来なかった。
部屋の中は静まり返り、窓の外から聞こえるわずかな鳥の声や風の音だけが響いている。信子は部屋の中央に置かれた丸いテーブルに向かい、ひまわりの花束を手にしていた。
花束の形はほぼ完成しているが、信子はまだどこか納得がいかない様子で、花の向きや配置を少しずつ整えていく。
(これで本当にいいのかな……。)
花束を眺めながら、信子は昨日の夢とのやり取りを思い返す。花束を見られてしまったときの自分の慌てぶりと、それに対する夢の驚いた表情が脳裏をよぎり、胸が苦しくなる。
「……気持ち、伝わるのかな。」
信子はぽつりと呟くと、そっと花束に触れた。ひまわりの花びらは昨日の雨にも負けず、しっかりとその明るい黄色を保っている。
「送りたい気持ちが一番大事なんだから……。」
夢の言葉が再び頭の中に蘇る。あの優しい声に、自分はどれだけ救われたんだろう。だけど、それと同時に、夢に対する自分の想いがどれほど重いものなのかを、信子は改めて実感していた。
「どうして私は……こんなに夢ちゃんのことが好きなんだろう。」
ひまわりを手に取りながら、信子は静かに目を閉じる。その花言葉――「あなただけを見つめる」「憧れ」――が、自分の気持ちそのものだと思えて、胸がぎゅっと締め付けられる。
けれど、泣き疲れて眠った昨日の夜から、少しだけ心に芽生えたものがあった。
(逃げちゃだめだ……ちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。)
その想いを確かめるように、信子はひまわりの茎をもう一度丁寧に整え、リボンを結び直した。リボンの結び目を指先で整えながら、小さく呟く。
「……ありがとう、夢ちゃん。」
その言葉は、今の自分を支えてくれている夢への感謝とともに、自分自身へのエールでもあった。
信子は花束をそっとテーブルに置き、改めてその形を眺める。少し不格好だけど、一つ一つの花に込めた気持ちは嘘じゃない。
「これで、ちゃんと伝わるはずだよね……。」
そう自分に言い聞かせると、信子は椅子に深く座り込み、大きく息を吐いた。
日曜日は、ただ静かに過ぎていった。その間、信子は何度も花束を整え直し、想いを込める作業を繰り返した。そして、その度に、自分の中の迷いや不安を少しずつ振り払っていった。
翌日が来るのが怖いようで、でも待ち遠しいような、そんな複雑な気持ちを抱えながら。
葬式の日、月曜日。
朝からどんよりとした曇り空が広がり、まるで今日という日を象徴するようだった。信子は制服に袖を通しながら、鏡に映る自分の姿をじっと見つめていた。緊張と不安が入り混じり、胸の奥がざわつく。
机の上には、昨日完成させたひまわりの花束が置かれている。朝の光に照らされるその黄色い花びらは、どこか堂々としていて、信子の揺れる心を励ましてくれているようだった。
「待っててね。」
花束にそっと声をかけてから、信子は自分に気合を入れるように息を深く吸い込む。
「……よし。」
夢が迎えに来ないことは、前もって聞いていた。別々に行って、現地集合することになっている。少し寂しさを感じながらも、それ以上に今日の大事な役割を果たさなければならないという使命感が信子の心を押していた。
「準備できた?」
お母さんが声をかけてくる。
「うん、できたよ。」
家族と一緒に玄関を出て、葬式場へと向かう。信子や夢そして両親が作った花はすでに運送用のトラックで運ばれていると聞いていた。
葬式場に到着すると、静かな空気が一帯を包んでいた。入り口には、○○くんの名前が書かれた看板が掲げられている。それを見ただけで、信子の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
「……行こう。」
母親がそっと信子の肩を叩いて促す。その手の温かさに少しだけ勇気をもらい、信子は深呼吸して中に足を踏み入れた。
会場には、すでに多くの人々が集まっていた。親戚や友人、学校の先生や生徒たちの姿も見える。信子が見渡していると、夢がひときわ目立つ姿で立っていた。制服姿の夢が信子を見つけると、小さく手を振る。
「あきちゃん」
その声はどこか申し訳なさそうのとともにどこか緊張していた。
信子が勇気を振り絞って言葉を口にする。
「葬式が終わったら、私の部屋に来てくれる……?」
その声は震えていたが、夢に届いてほしいという思いが込められていた。夢は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
「……うん。」
それだけを短く答え、信子の目をまっすぐに見つめる。その真剣な表情に、信子は胸が少し締め付けられるような感覚を覚えながらも、どこか安心した。
それ以上、二人の間に言葉はなかった。ただ、それが必要ないほどに、互いの気持ちが静かに流れていた。
中に足を踏み入れると、故人の微笑みが遺影に映し出されていた。
信子が中に足を踏み入れると、故人の微笑みが遺影に映し出されていた。その周りには無数の白い花々が優しく囲むように飾られており、信子と夢が一緒に作った花束も、遺影の近くにそっと置かれていた。ひまわりの鮮やかな黄色が、白い花々の中で静かに輝いている。
(喜んでくれているかな……。)
そう心の中で呟きながら、信子は列に並び、自分の番が来るのを待った。周囲の人々が涙を浮かべながら焼香を捧げる様子が目に入り、彼との思い出が胸をよぎる。
そして、ついに自分の番が来た。信子は静かに遺影の前に進み、一礼をして焼香を上げる。一つ一つの動作を慎重にこなし、心の中で「安らかに」と祈った。
その瞬間、どこからか「頑張って!」という声が聞こえたような気がした。驚いて目を開けると、ただ静寂があるだけで、声の主は分からない。それでも、信子の胸の中には、不思議と暖かい気持ちが広がった。
(ありがとう。)
そう心の中で呟きながら、彼女はそっと立ち上がり、後ろの列に譲る。
葬儀が終わり、全ての行事が一段落すると、遺族の方々が二人に近づいてきた。目には涙を浮かべながら、深々と頭を下げる。
「こんなに素敵なお花をありがとうございました。○○もきっと喜んでいると思います。」
その言葉に、信子も夢も胸が詰まる思いだった。遺族に何度も感謝されるたびに、二人が込めた思いがしっかりと届いたことを感じられた。
会場を出た後、信子は小さく息を吐き、夢の方を見つめた。
「……私たち、ちゃんと届けられたよね。」
夢は優しく微笑み、力強く頷いた。
「うん、あきちゃん。絶対に届いてるよ。」
その言葉に、信子の胸のざわつきが少しだけ和らいだ。二人で一緒に作った花束と共に届けた想いが、確かに故人へと届いたことを感じながら、信子はそっと空を見上げた。
「私、ちゃんと行くから待っててね。」
夢がそう答えた声には、いつもの優しさだけでなく、どこか覚悟を決めたような響きがあった。その真剣な眼差しに、信子は思わず心を打たれる。
「うん、待ってる。」
信子がそう静かに答えると、二人の間に短い沈黙が流れた。だが、その沈黙は重苦しいものではなく、お互いの思いをそっと確かめるようなものだった。
やがて、夢が軽く手を振りながら微笑む。
「じゃあ、また後でね。」
「うん、また後で。」
そう言い合うと、二人はそれぞれの家へと帰っていった。振り返ることなく歩き出す夢の背中を見送りながら、信子は深く息をついて、自分もゆっくりと歩き出した。
(……ちゃんと伝えなきゃ。)
心の中で繰り返される決意が、信子の胸に小さな力を与えていた。
部屋に戻ると、信子は机の上に置かれたひまわりの花束をそっと手に取った。その鮮やかな黄色い花びらを見つめながら、胸の中の不安と緊張が渦を巻くように広がっていく。
(……大丈夫だよね、きっと。)
そう自分に言い聞かせても、待つ時間はまるで無限に感じられた。普段なら何かしら気の利いた言葉を投げかけてくるはずのしおりも、今日は何も言わない。部屋の中は、静寂が満ちていた。
その時だった。
「トントン。」
ノックの音が、緊張した空気を切り裂いた。信子は息を呑む。
(……夢ちゃんだ。)
そう直感し、花束を抱えたままそっと振り向いた。そして、ドアのほうに体を向けると、大きく息をつく。
「どうぞ……。」
自分の声が少し震えているのを感じたが、もう後戻りはできない。ドアの向こうにいるであろう夢の姿を思い浮かべながら、信子はぎゅっと花束を抱きしめた。
ドアがそっと開く音がして、夢が顔を覗かせた。その優しい笑顔が見えた瞬間、信子の胸に溜まっていた感情が一気に溢れ出しそうになる。
「……あきちゃん?」
夢が戸惑いながら部屋に入ると、信子は無言のまま花束を差し出した。その手はわずかに震えていた。
「これ……夢ちゃんに……」
声がかすれる。けれど、次の言葉を止めることはできなかった。これまでずっと押し殺してきた気持ちが、花束とともに形を成して溢れ出す。
「ずっと……ずっと言いたかった。夢ちゃんが好き。友達としてじゃなくて……それ以上に……本当に、大好きなの。」
夢の目が驚きに見開かれる。その反応に、信子はさらに言葉を重ねる。
「私、他の誰かを好きになるのが普通だって思ってた。男の人を好きにならないといけないって。でも……そんな風にできなかった。私の目には、ずっと夢ちゃんしか映らなかったの。」
涙が自然とこぼれ落ちる。それでも信子は花束を夢に向け続けた。
「これ……私の気持ちを込めて作ったの。届けたくて、ちゃんと伝えたくて。だから、受け取ってくれるだけでいい。私の想いを知ってほしいの……!」
最後の言葉を絞り出すように吐き出し、信子はその場に立ち尽くした。胸の奥が熱く、張り詰めた空気の中、夢の次の言葉を待つしかなかった。
「ごめんね」
信子は夢の言葉を聞きながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。夢が「ごめんね」と口にした瞬間、全てを拒絶されるのではないかという恐怖が頭をよぎった。
けれど、夢はその後に続けた。
「いままで、私……あきちゃんの気持ち、何となくだけど、分かってたの。あきちゃんが急に冷たくなっちゃった理由とか、今までのスキンシップを断るようになった理由……やっぱり、これだったんだよね。」
信子は夢の言葉に驚いて顔を上げた。夢の瞳は真剣で、どこか寂しげだった。
「そんなあきちゃんに、私……意地悪するみたいにからかったりして、ごめんね。本当は、気づいてたのに……分かってたのに、ちゃんと向き合ってなかった。」
夢の声が少し震え、彼女が後ろに隠していた何かをそっと差し出した。そこには、美しく飾られたチューリップの花束があった。その姿に、信子の目が大きく見開かれる。
「これね……私があきちゃんの気持ちをちゃんと知ってから、私なりに考えて作ったの。『感謝』とか『思いやり』とか、いろんな気持ちを込めたくて。」
夢は花束を信子の手にそっと渡すと、息を整えるように一瞬だけ目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開いて、震える声で続けた。
「今まで気づいてあげられなくて……本当にごめん。でもね、私も……」
夢の声が涙に滲み、言葉を紡ぐたびに彼女の目には涙が溜まっていく。それでも彼女は、信子の瞳を真っ直ぐに見つめて、言葉を紡いだ。
「私も……あきちゃんが好き。」
その一言に、信子の目から再び涙が溢れ出た。夢の言葉が信子の心に深く沁み渡る。ずっと押し込めていた気持ちが、ようやく報われた瞬間だった。
二人はお互いに花束を抱えながら、涙を流し合う。静かな部屋の中で、二つの花束が、それぞれの気持ちを映すかのように輝いていた。
信子は花束を抱きしめながら、こぼれる涙を拭おうともせずに夢を見つめた。こんなにも温かい瞬間が訪れるとは思っていなかった。
「本当に……夢ちゃんが好きでよかった……」
そう呟くと、夢がそっと信子に近づき、優しく抱きしめた。その腕の温かさに、信子は胸がじんと熱くなる。
「これからは、もう隠さなくていいよ。あきちゃんの全部、ちゃんと受け止めるから。」
夢の言葉に、信子はただ頷いた。その時、胸の中にあった長い間の葛藤が、ふっと消え去るような気がした。
窓の外を見ると、雨がやんで、雲の隙間から光が差し込み始めていた。まるで二人を祝福するかのように、柔らかな陽光が部屋の中を優しく照らしている。
「ねぇ、あきちゃん。」
夢が笑顔を浮かべながら言った。
「これからも、いっぱいお花を作ろうよ。一緒にね。」
信子は泣き笑いしながら、力強く頷く。
「うん。一緒に作ろう。これからずっと……ね。」
二人の手がそっと重なり合う。その手には、それぞれの花束がしっかりと握られていた。
花屋の前で信子は膝を抱え、自販機の横に座り込んでいた。膝の上には開かれた本。指先でページをめくりながら文字を追っているが、その目はどこか遠くを見ているようだった。午後の柔らかな陽射しが降り注ぎ、風が花の香りをふわりと運んでくる。
本に差し込んでいた光が突然影に変わった。誰かがすぐ背後に立っている。
「あーきちゃん、何してるの?」
驚いて顔を上げた信子の目に、すぐそこにある夢の笑顔が映り込んだ。透き通るような肌と柔らかな茶色の髪が陽光に溶け込む。形の良い唇が、言葉を発したばかりの余韻を漂わせている。整った顔立ちにはどこか凛とした雰囲気があり、その瞳は太陽を映した湖のように穏やかだったが少し大人びていて、愛する人に向けるようなまなざしをしていた。
信子は思わず言葉を失った。サボっているのがバレてしまった。慌てて言い訳をするように答える。
「……何って、店番。」
やっとの思いで声をひねり出す。けれどそれは自分の胸のざわめきを押し殺すような、不自然に硬い響きを帯びていた。
「店番がここでするものなの?」
夢の視線が膝の上に置かれた本に向けられた。指先がそれを軽く示す。
「これはお店のためになるための本だから。」
「暇ならこっち手伝ってよ。」
夢が軽く手を振りながら言う。その口調にはどこか優しい余韻が残る。
「はーい。」
信子は渋々立ち上がり、膝の上の本を閉じる。夢の声に応じながら、気まずさを隠すように笑顔を作る。
もうそこには、今までの二人の関係とは違う、少しだけ距離の詰まった空気が流れているようだった。二人の横には、きれいなヒヤシンスが静かに並べられている。小さな花々が風に揺れ、柔らかな香りが漂っていた。




