22 雨の中の逃走
◇
マリオンは頭をぶつけて、一瞬、気を失っていた。確かに隠密さんの良い声だと思ったのに、外に殿下が見えた気がする。混乱しているうちに、空はますます暗くなり、雨が降り始めた。馬車は徐々にスピードを緩め、ついに止まった。
急にドアが開いたと思ったら、黒づくめの隠密さんがヌッと入ってきた。
「おい。降りるぞ。さっさと起きやがれ!」
「口の悪い隠密さん!」
知り合いに会えた喜びに、つい口が滑った。
「誰が口の悪い隠密だ!ああもう面倒!殿下!受け取ってください!」
マリオンは隠密さんに抱き上げられ、ポイと外に投げられた。
「キャーっ!!」
悲鳴をあげる彼女を、がっしりとした腕が受け止めた。恐る恐る目を開けると、殿下が見下ろしていた。
「無事か。逃げるぞ」
殿下はマリオンを馬に押し上げて、その後ろに乗った。二人乗りなんて初めてだ。御者が地面に倒れているのが見えた。
(し…死んでる?)
「西から敵の増援が近づいています。引き返しましょう」
「シャルパンティアは?」
「最初のとは別の賊を食い止めています。決定です。殿下を誘き出す罠でした」
「…」
口の悪い隠密さんと殿下の会話から、非常にまずい状況であるのが分かった。マリオンは混乱のあまり支離滅裂なことを口走った。
「ど、どうして護衛がいないの?隠密さん!どうしよう?!殿下をお守りしなくちゃ!でも、どうやって?!」
「うるせえ!絶賛お守り中だよ!応援が来るまで逃げ回るしかねえだろ!」
「わ、私が応援を呼んできます!馬車から馬を外して…」
「あっという間に捕まるだろうが!」
「じゃ、じゃあ、私を置いて先に行ってください。重くて馬が持たな…」
すると、殿下が後ろからマリオンを抱きすくめた。
「黙れ。今は身の安全を優先する。プロに任せよう。…頼むぞ」
隠密さんは跪いて頭を垂れた。
「はっ!森で敵をやり過ごせる場所を探します」
◇
あえて街道を外れて森に入ったものの、潜伏できそうな場所は見つからない。マリオンのドレスはすっかり濡れてしまった。寒い。しかし殿下も隠密さん黙って雨に打たれている。耐えるしかない。
やがて森の道が途切れた。大雨で増水した川が行手を塞いでいる。
「迂回しましょう」
隠密さんがそう言った時、馬の尻に矢が刺さった。驚いた馬は竿立ちになり、マリオンが振り落とされた。
「マリオン!」
殿下が手を伸ばして彼女の腕を掴む。そのまま2人は濁流に落ちた。
「助けて!隠密さん!」
押し流されながら叫んだが、土砂降りの川岸では、隠密さんが複数の曲者と戦っていた。
(泳げないのに!どうしよう!)
マリオンはまた後悔した。クレイプにも湖や川はあったのだ。練習しておけば…。もがいていると、殿下が彼女を後ろから抱えるように泳ぎ出した。
「大丈夫だ。力を抜け」
「は、はい」
あと少しで向こう岸に着く…と思ったら、いきなり大きな木が流れてきて、マリオン達にぶつかった。
「!!」
そのまま彼女の意識は途切れた。
◆
その頃、マリオン姫の誘拐とヴィクター皇太子の失踪が皇帝に知らされた。すぐに捜索隊が出動したが、生憎の大雨に阻まれ、難航している。
「剣聖が『皇太子と隠密が姫の馬車を追って行った』と証言しました。その後、無人の馬車を見つけたそうです」
人払いした温室で隠密の頭が報告をした。皇太子が行方不明などあり得ない。よってこの件は伏せられている。
「太公の捕縛に人員を取られ、殿下の警護が手薄でした。死んで償います」
頭は平伏して詫びたが、皇帝は首を振った。
「先走ったヴィクターが悪い。剣聖はどうした?」
「賊を全滅させた後、一旦帝都に戻りましたが、姫を探しに出て行こうとしました。それをアオキ殿が『雨が止むまで待て』と引き留めました」
「全滅?何人くらい?」
「ざっと5百人でした」
皇帝は感心した。さすがだ。姫の毒殺未遂は太公の仕業だった。恐らくこれも奴の謀だろう。ヴィクターを消して皇位を要求するつもりだな。そしてふと思い出した事を訊いた。
「隠密は何番が付いていったの?」
「17番です」
隠密は大きい数字ほど位が高い。頭が31番だから、まあまあ頼りになりそうだ。
「残りの隠密を全員、そっちに回して。あとはヴィクターの天運を信じよう。ああ、姫を帰すんじゃなかった…」
思わず漏れ出た愚痴を、頭は聞こえないフリをして消えた。皇帝は妻に知らせるために腰を上げた。教えておかないと、後が怖いからだ。
◇
マリオンは川原で意識を取り戻した。仰向けのまま視線を動かすと、すぐ横に殿下が倒れていた。
「はっ!殿下?!」
大きな流木に巻き込まれたのを思い出した。雨はますますひどくなり、川の水が迫っている。彼女は慌てて立ち上がり、ヴィクター殿下を少し高い場所まで引き摺っていった。
「しっかりしてください!殿下!」
呼びかけても殿下の目は開かない。マリオンは泣きながら心臓が動いているか確かめた。川と雨の音がうるさくてよく分からなかったが、音波笛が見つかった。
(早く来て!隠密さん!)
必死の思いで吹いた。すると数分で隠密さんが駆けてきた。彼は殿下の首筋に触れて、口の上に手をかざしてから大きなため息をついた。
「生きてる…良かった…」
それを聞いてマリオンの涙は止まった。
「本当ですか?!」
「気を失ってるだけだ。頭でも打ったんだろう。さあ行くぞ。そっち持て」
隠密さんとマリオンで殿下を支えて歩き出した。
「この近くに隠れ家がある。流されたお陰で俺たちの縄張りに入れた。不幸中の幸いってやつだな」
「縄張り?」
「さっきまでいたのは太公の勢力圏。ここは直轄領、つまり陛下の縄張りだ」
「じゃあ、もう安全なんですか?」
マリオンは嬉しさに弾んだ声で訊いた。しかし隠密さんは「違う」と言った。
「バレたら即、襲われる。…あれが隠れ家だ」
雨で霞む木々の向こうに、山小屋が見えた。2人はそこに殿下を運び入れた。隠密さんが殿下のお世話をする間、マリオンは井戸の水を汲み、暖炉に火を熾して湯を沸かした。備蓄食料で簡単な食事を用意したら、隠密さんは背を向けて食べていた。絶対に顔を見せてはいけないらしい。
「美味い!お前、案外役に立つな。本当に王女?」
「一応…」
「殿下を運ぶのも楽だったし。お前がデカくて助かったよ」
「私も初めてそう思いました」
食べ終わると、隠密さんは今後の計画を説明した。外はもはや暴風雨となっている。その中を隠密さんが応援を呼びに行くと言うのだ。
「大雨の間は襲撃は無い。だから今のうちに動くんだ。お前は殿下を守れ。雨が上がったら敵が来るかもしれない。その時は、身を挺してもお守りしてくれ」
マリオンは恐怖に震えた。絶対に無理だ。でも隠密さんの方が何倍も大変なはず。僅かな休憩だけで、徒歩でこの嵐の中を行くのだ。
「頼む。マリオン」
隠密さんは頭を下げた。姫でも王子でもなく、マリオン個人に。
「分かりました…」
彼女は泣く泣く了承した。隠密さんが出発した後、マリオンは湯で髪と体をささっと洗った。汚れたドレスと殿下の服も濯いで干した。乾くまで予備のシーツを体に巻き付けて我慢する。
自分でも扱える武器はないかと小屋の中を物色したが、見たこともない道具ばかりが出てきた。仕方なくフライパンを持ち、宿直をしようとした。しかしそのまま寝てしまった。




