ありがとう
「タラタラしてんじゃねえよ、千葉!」
「はァ……」
「屁こいたような声出してんじゃねえ! 寝てんのか、お前は? 返事は、はい、だろ。何回言ったら分かるんだ、このバカ野郎」
「……はい」
このイキがって口ばっかりの態度が横柄な現場主任は、直属の上司だ。
夏場のクソ暑い時期に俺が半袖にならないのは、日焼けしないようにと本気で信じている、ありがたくも、毎日が祭りのようなめでたい野郎だ。俺が昔ヤクザで、七分袖にまで刺青で肌を染め、人を殺したことがあるということも知らない。
あまりにも調子に乗りやがったら、いつかぶっ飛ばしてやろうかとも思っているが、そんなことを雇われの身である俺にできる訳がない。
俺の今日の仕事は、ダンプカーで次々に運ばれてくる砂利をスコップで慣らす、過酷な作業だった。
だが、昨晩はよく眠れたおかげで身体が軽い。年下の主任に恫喝されようが、北海道ならではの乾いた空気は心地よかったし、噴き出す汗や気分も、まんざら悪くはなかった。
今朝の全道ニュースで、昨夜未明に長野紫織が傷害致傷罪で逮捕された、と報道されていた。被害者で重症を負ったのは、現夫である長野だった。
紫織は警察での取り調べで、夫の長野が連れ子の娘である朱音を日常的にしつけと称して虐待をしていたと告白、半年ほど前、保険金目当てで娘を故意に落雪を装い、堆積する雪の中で窒息死させ殺害した、口止めとして自身も度重なる暴力の被害に遭っていた紫織は、自責に耐えきれなかった報復として、帰宅した早々の長野を、台所の包丁で胸や腹を刺した、そう供述しているという。
北海道警察は、被害者である夫の長野を容疑者に切り替え、怪我の回復を待って事情聴取する予定。加害者の自白に伴い、紫織を保護責任者遺棄致死罪の別件で再逮捕、殺人及び幇助、保険金略取の容疑も視野に入れ、現在、慎重な捜査と取り調べをしているという。
「マルボロ、ふたつ」
早朝の出勤前に、香川がオーナーをやっている『セヴンマート』に立ち寄った。香川は俺を見つけるなり、頭を下げ「昨日は、どうも」と仰々しく声をかけてきた。
「なにがだ」
「……い、いえ。大きな声では言いずらいんですが、実は、昨日、前妻が逮捕されまして」
「知ってる」
「それが、そのう、ええっと、」
「なんだ」
「事件を起こす前にですね、私のところへ来たんですよ」
「ほう」
「娘を、朱音の骨を、大切に預かってくれないかと」
そうか。
「手厚くしてやれ」
「それと、犬も。昔から可愛がっていたトイプードルなんですけど」
あの犬種は、トイプードルというのか。
「で、新しい嫁は、なんて?」
香川は破顔した。「私の娘というのは変わりませんし、妻も犬が好きでしてね。幸い、まだふたりの間に子供はいませんから、世話できるのを喜んでるくらいです。色々とありがとうございました」
「礼を言われる筋合いなんてねえよ」
「え? だって、あなたが言ってくれたんじゃないのですか?」
「なにを」
「いえ、そんな気がしたものですから……」
「知らねえな」
「あ、あ、では、お名前だけでも、」
俺は、そのまま店を出た。
現場まで一緒に行く作業員が待つワゴンまで行こうとすると、コンビニの前に数台のバイクがたむろしていた。早朝にも関わらず、若い連中がアスファルトに腰を下ろし、ゲラゲラと笑っていた。夜通し遊んでいたのだろう、地べたに寝っ転がっている奴までいた。流行りの承認欲求というやつか。
気分が悪くなったからか、イラついたのか。
俺は、おもむろに端にあるアメリカンタイプのオートバイを蹴飛ばしてやった。
並んでいた改造車のバイクが将棋倒しのように、ガシャン、ガシャンッ、と音をたて次々倒れていく。若者どもが、ぎょっとした表情になりながらも、いきり立って俺に嚙みついてくる。
「手前ェ! なにすんだ、コノヤロウ」
「は?」
すっとぼけながら、ガキどもを睨んでやる。俺の風貌なのか、一瞬だけ怯んだ金髪のガキが吠えてきた。
「……は、はじゃねえぞ、おっさん!」
全くもって圧がない。可愛さすら感じてしまう。
俺は、にたりと笑みをつくり歩み寄ってやった。「どこに停めてんだ」
「駐車場に停めて、何が悪りィんだよ、アァ?」
「見えねえのか」
玄関先のアスファルトには、車椅子を簡素化したマークが施してあった。「そこは車停めるとこなんだよ、しかも、身障者専用だ。とっとと帰って、学習ドリルでもやってろ」
若者たちは俯き、黙りこくる。金髪のガキはイキがって、文句でも言いたげに俺をそれでも睨みつけてくる。
そういうところだけは、一丁前なんだな。間違っていましたと認め、すいませんでした、とすぐに謝りゃあ済む話なのによ。
「誰にも注意されねえ、見過ごされてるからって何でも許されると思うな」
俺は、マルボロに火をつけた。気分がいい、詰めは高圧的な軽い脅しだ。「その漏れたガソリンに、こいつ放り投げたらどうなるか知ってるか」
蒼ざめたガキどもは、倒れた改造車を慌てて起こし、逃げるように爆音をたてて去っていった。灰色のアスファルトに濃い染みがついていた。バイクのサイドミラーが割れたのか、砕けたガラス片も散乱している。
さも、悪いことがカッコいいとでも勘違いしてやがるのは、みっともねえ。善し悪しは抜きにして、あまりにもダセえ。保身が為に正当化せず、少しは自分を疑うべきだ。
俺は何もなかったかのよう、携帯灰皿で煙草をもみ消していると、背中に視線を感じた。
いざこざを見物する野次馬かと振り返ると、どこかで見た顔だった。確か、香川を尋問しに来た時、目の合ったトカゲ野郎だ。同じヨレヨレのスーツに、ボサボサの髪型。
「……なんだ、あんた。なんか言いてえなら言えよ」
「いいや。悪いのは、あのガキどもだ」
向き合えば、トカゲ男は同年代くらいか。肌の質や落ち着きが、そう思わせた。不審に思えるのは、愛想笑いを浮かべていたが、目が笑っていない。
「ここのコンビニは、よく来るんですよ」
「訊いてねえよ」
俺はそいつに背を向け、おっさんどものすえた加齢臭まみれの鼻を摘みたくなるワゴン車に乗り込んで、現場へ向かった。
昨日までのぐずつき湿った天気が嘘だったかのように、アスファルトの照り返しがキツい灼熱の中、俺は、剣先スコップをひたすら振るう。
俺の言葉が、誰それに響いたとは思っていない。こうなるよう絵を描いた訳でもない。
これが人助けになったとは思っていないし、誰かが報われるとも思っていない。あの少女が生き返る訳でもなし、紫織や夫の長野、実の父親の香川がこれからどうなるか、そんなことも知ったことではないし、興味すらない。真実を突き止め、何かをしようとか特別なことをした訳ではなく、大それたことを考えて行動した訳でもなく、ましてや、レイコのことを想って動いた訳でもない。
気に入らなかった、それだけだ。
俺は聖人君子でもなければ、何者でもない。正義や善とは真反対の道を歩んできたのだから。そんな風になりたいとか、品行方正で立派な人でありたいなどとは、毛頭考えたこともないし、気持ちの中に微塵も欠片もない。
自分の犯した罪に対しての贖罪や罪滅ぼし、戒めとも思っていない。俺が若かりし時にやったことは取り返しのつかない、後戻りできないことだから。だからといって、開き直るつもりもないし、謝罪してどうなるものでもない。その葛藤は未だ、心の隅にはある。
いいや、ずうっと背負っていかなければならないことだ。
香川や紫織にとっても、かけがえのない娘を亡くしたことは一生の傷になったはずだ。
それを消すことはできないし、かさぶたにもならない生傷のような、決して忘れちゃいけない傷跡だ。俺はそう思う。
長いようで、あっけない一日だった。
重厚で濃密な、それでいてどこか生乾きのような昨日は過ぎ去り、ありふれた今日という日常に戻った。
ヘルメットの間から滝のように滴る汗を拭い、ふうっと一息つき、空を仰げば、雲もなく、オホーツクブルーと呼ばれる真っ青で海のような景色が広がっていた。
帰宅する頃、外は雨が降り始めた。
けれど今日は、なぜだか雨音が隅々にまで染み渡るようで、悪い気はしなかった。軽く鼻歌を唄いながら、呑み始めた。今日のツマミは、総菜の唐揚げのみ。それと、柿の種チョコ。
時折、上の部屋からの床を強く踏みつけるような音だけ耳障りだったが。
晩酌は少しだけ贅沢をする。ハイネケンの缶ビールを開け、グラスの中で国産の黒ビールとのハーフ&ハーフにした。携帯が鳴る、フリップを開けると、馴染みの男からだった。
「よう」
『元気だったかい、千葉ちゃん』
唯一、心許して話せる腐れ縁の友人、廣嶋からだった。こいつとは小学生の頃から一緒の幼なじみだ。
「かろうじてな」
『今日も、ひとりで晩酌かい?』
「悪かったな、ひとりでよ」レイコもいるとは、さすがに言えるはずもない。
『せっかく出てきたんだから、たまには顔だしてよ』
廣嶋は、北見市内で小さなバーを営んでいる。
やかましい洋楽が鳴り響き、たいした旨い酒も出ない、俺の趣味とは正反対の店だったが、たまには顔を出すようにしている。本音を話せる相手は廣嶋くらいしかいなかったし、こいつも俺のことを理解し、よく知ってくれている。
「そんな気分じゃねえんだよ」
マルボロを吹かして、唐揚げを放り込む。「廣嶋ァ、女は大切にしろや。いい歳なんだから、モテるからって女を泣かせるな、いつか罰が当たって刺されるぞ」
長野紫織を思い出していた。
誰しも、女は特に、裏切られたことを一生かかっても忘れない、そう聞いたことがあった。レイコが連れてきた少女も女だ、きっと忘れられなかったんだろう、そう思った。
『僕は、女性を泣かせたりしないよ。もっとも、モテようが女友達がいっぱいいたとしても、相思相愛じゃなけりゃ意味ないだろ』
「ふん、それじゃあ、ジャンケンはどうしてんだよ」
『え、なんだい? 急に』
「俺はなァ、ジャンケンじゃ、徹底してパーしか出さねえって決めてんだよ。最初はグー、だったら絶対に勝つしよ。男だったら当たり前のことだ」
『それだと、ルールも無視して勝負にもなってないじゃないか、ははは。千葉ちゃんこそ、葵ちゃん、』と、会話を止めた。『あ、気に障ったらゴメンよ』
「……ふん、もうすぐ二十年も経つんだぞ? それに、俺のほうから忘れろと言ったんだ。きっと、どっかで幸せに暮らしてんだろ」
そいつは、当時の俺の女のことだ。
北導會の親分を襲撃し、孤独な牢屋で十五年を過ごし、出所して今に至るまで連絡も途絶え、音沙汰もなければ、消息も分からないまま。自然消滅といえば聞こえはいいが、どこで何をしているのか、生きているのか、死んでいるのかさえ、今も分からないままだ。
忘れてはいないが、どこに居るのだろうかと、当たり前だった温もりを探すことはしていない。幸せな姿を見ても、死んでいたとしても、俺はただ虚しくなる。思い出の残骸を拾い集めても、憑りつかれていたとしても、ただ空しくなるだけだから。俺が裏切ってしまったにも関わらず。
財布に潜ませている唯一ふたりで撮った写真も、眺めながら過去を思い返し逡巡することはなかった。
『ごめん、つい。そうだ、務め終わって二年が経つけど、ほら、相手だった暴力団から嫌がらせとか受けてない?』
「大丈夫だよ、心配すんな。そいつらが来たところで望むところだ、ぶっ飛ばしてやるって」
自分が言った事やしでかした事は忘れるが、他人に言われた事やされた事、つまり足を踏まれたことは決して忘れないものだ。特に反社会的組織に属する気性の荒い者は報復を考えるだろうし、恨みを溜めこみ、執着する腐った根性の奴が多いのだろうが。
廣嶋の心配をよそに、出所してから二年ほど経過するが、親分の仇である俺を狙ってくる動きは、今のところなかった。
『そっか、色々と気を付けてね』
「お前もな」
『近く飯でも行こうよ、千葉ちゃん』
「……なんかあったのか」
廣嶋が飯に誘う時は、必ずと言っていいほど相談か困り事があるときだ。
『いいや。相変わらず仕事、忙しいのかい?』
「まあな」
『それはなによりだけど、知ってるかい? 忙しいって、心を亡くすって書くんだぜ。普通に生活ができる、ほどほどくらいでいいんじゃない? 僕みたいに、ぼちぼちでね』
ふん、心を亡くす、普通に暮らす、か。鼻で笑ってやった。
「雇われで何も言える訳ねえだろ」
『ははは、そうだね』廣嶋は、明るく笑った。『けど、無理は禁物、息抜きは必要だよ。いつでも呑みに誘ってよ。話なら聞くし、僕でよければ力になるからさ』
話がすり替わり、俺の相談を聞いてくれる風になる。いい人ぶってるのか、廣嶋の悪い癖だ。素直に自分の話をすればいいだけなのに。
「お前に俺の何ができんだよ、ふん」
おかしみが込み上げた。それじゃあ、俺には何ができるのか、と。
『そういや、まだ僕のあげたガラケー使ってるのかい?』
出所して間もなくの期間は、自由に使えるカネがなかった為、廣嶋が使っていた古い携帯電話を貰った。それは今でも使い続けている。スマホだかってミニパソコンは必要もないし、興味もない。世の中や時代に取り残されようが、知ったことではなかった。
「こんなもん、使えりゃいいんだよ」
『相変わらずだなァ、千葉ちゃんは。古風というか、思い入れがあるのは分かるけど、古いものに固執しすぎじゃないかな。「千葉ちゃん、まだガラケーだってよ」みたいな?』
「新しいからって良いものとは限らねえだろ」
『そりゃあそうだ、ははは』廣嶋は、からっとした笑い声をあげる。『そのガラケーは年代物だから、バッテリーがヘタってきたら予備がまだあるから、いつでも言ってよ。正規店で買えば高くつくだろうから』
「おう、すまねえな」
『……てか、千葉ちゃん。今、誰かと一緒にいない?』
一瞬、言葉に詰まる。まさかレイコと一緒だ、などとは言えるはずもなく、「……いいや。ひとりだと言ったろ、なんでだ?」
『あれ、空耳かな? 女の人の声がしたような……。それに、さっきからドンドンと変な雑音が聴こえるんだけど』
「やめろ、俺をビビらせてるつもりか」レイコを見ても素知らぬふり、天井を見上げれば物音はしていない。そもそもレイコには顔がないんだから、喋ることもできないだろうし。「当てつけか? 廣嶋の隣に居るんじゃねえのかよ」
『いや、雑音もするから、たぶん電波が悪いせいかもね、ははは、ゴメンよ。それじゃあ、またね。たまに連絡ちょうだい』
「お前もな」
電話を切り、ブラウン管のテレビも消した。そういや、このテレビも廣嶋から貰ったものだ、出所後には地デジだかになっていて後付けのチューナーも頂いた。お古ばっかりだが、テレビも観れれば問題はない。もっとも、垂れ流しで一方的に押し付けられるテレビに時間を奪われるのは嫌だったから、あまり点けないようにしている。
気持ちよく酔いも回り、シャワーを浴びた後、レイコがそろりと俺の前に座った。
煙草に火をつけ、濡れた髪をぐちゃッと拭きながら、「なんだ、ガキはどうした」と、バスタオルを首にかけ、肺に煙を入れた。
顔に表情のないレイコだが、どこかにこやかに柔らかく微笑んでいるよう思えた。入ったばかりのバスルームを指さす。
「ガキは、どこいったんだ」
重い腰をあげ、バスルームの中を覗いても、少女はいなかった。
「いねえじゃねえか」
レイコは、手を左右に何度も振り、何度も奥のほうを指さす。
「あ? なんだっつうんだ。俺ァ、ガキのこと訊いてんだ」
俺は湯気で曇り、水滴だらけになったバスルームの鏡を、よくよく見てみた。
そこには、おぼつかない字で『めりがとう』となぞって書かれてあった。少女がこの場からいなくなったことから考えると、そうか、とただ思った。が、
「……フ、フザけんじゃねえ。横棒が足りねえじゃねえか」
意に反して、ぐッと初めて感じるなにかが込み上げ、喉の奥が鳴りそうになった。
俺は思わず、布団へ逃げ込むよう潜り込んだ。
途端、またしても携帯電話が鳴りだす。そんなものは無視してやろうと頭まで布団をかぶったが、いつまでもコールは続く。その電子音が聴こえたのか、上の部屋からは床を連打するようになり、天井がうるさく鳴り響く。
「うるっせんだ、コノヤロウ!」
根負けして携帯を開ければ、鴇尾からだった。
『ひ、昼間は、大変失礼しました。へ、へへへ』
「……あァ、別に気にしてねえ」
『長野紫織、とっ捕まったらしいじゃないですか。兄貴、なんかしたんですか?』
「うるせえ、もう寝るんだよ。ほっとけ、バカヤロウ」
『ちょっといいですか?』
「無理だ。もう寝るって言ってんだろ」
『いえね、兄貴の上の部屋、』
俺は通話を切り、携帯を放り投げて眠りについた。
雨の音が静かに聞こえる、なぜだか懐かしいような感覚がした。まるで、母親の胎内にいることでも思い出したかのよう心地よく、いつのまにか、深いまどろみに包まれていた。
読んでいただき、ありがとうございます!