俺にできること
レイコが連れてきた少女の霊、朱音の母親である長野紫織の住居は、山下町から自転車で一〇分ほどの住宅密集地、北見市三輪地区にあった。
鴇尾に詳しい住所と諸々を聞き、雨粒が強くなる中、向かうことにした。
三角屋根のトタン張りで、外壁には灰色のサイディングが施してあり、濃紺の軽自動車が一台停まっていた。ごく普通のどこにでもある平屋の一戸建てだった。
シルバーの表札には『NAGANO』と彫られており、ここが事故現場で疑惑の巣であろうことは察しがついた。
平日の昼間ということで人通りは少なく、ママチャリを遠くに停め、戸建ての外周をぐるりと歩いてみることにした。
なにか気になるもの、手がかりがあるかもしれない。
人目をはばかりながら、裏手に回る。手入れもされていない雑草が伸び放題の小さな庭には、大きな出窓があった為、そこには近寄らず、角から覗いてみた。
物置の手前に、小さなウッド調の犬小屋があった。
怯え狂ったかのようにキャンキャンと吠えてきたのは、細いリードで繋がれた茶色で毛むくじゃらの小型犬だった。なんという犬種かは忘れてしまったが、屋内で飼うような小ささと、番犬にしては吠えすぎなところに、どこか違和感はあったが、サッと顔を引き、その場を後にする。
雪が積もった状態と情景を想像はしてみたものの、この真夏には全くイメージができなかった。事故の現場は玄関の軒先で、当然のことながらすでに積雪などなく、屋根を見れば、小さな天窓があった。
ひとまず近くのラーメン屋に入って、腹ごしらえをしながら考えることにした。
札幌ラーメンをうたう店は、平日にも関わらず混んでいて、カウンターの端を勧められた。
傍にひとつだけある小上がりには、お揃いの金色に傷んだ髪で、だらしない家着のようなスウェットもペアルックの若い夫婦が、乳幼児を連れてきていた。母親は、頭と肩でスマホを挟み電話をしながら、ぎゃあぎゃあと泣いている子供のおむつを替え、父親は寝そべってスマホをいじっていた。
妙なスイッチが入る音がした。
「おい、コラ」
俺は首だけを傾げて、眉を寄せた。「ここは、飯食うとこだぞ」
「は?」と、若い夫婦が俺の目を見てくる。「だから?」
「手前ェんちの便所じゃねえんだ、コラ」
「うぜえな」男は意にも介さない様子で、俺に背を向けた。「だったら、鼻つまんでろよ」
母親も、ケラケラと笑って返してくる。伸びた麺が丼には残っていたが、腹は満たされ食事は終えているようだった。
「食い終わったんなら、カネ払って出てけ」
「なんだ、あんた。客なんだから文句ねえだろ!」
「客だったら何してもいい訳じゃねえ、誰も口に出してねえが他の客も店も迷惑してんだよ。いい気になってんじゃねえぞ」
「あんたに言われる筋合いねえだろ」
「手前ェらが、ここに居座る筋合いもねえ」
「あんた何様だよ、ア?」
男が噛みついてきた。ほう。
「手前ェが何様だ、小僧」
「ヤクザ呼ぶぞ、コノヤロウ」
「呼んじゃえ、呼んじゃえ」と、女もニタニタしながらスマホで俺を撮影しだした。
バカバカしいとは思ったが、上等だ、引く気など元からない。
現在、北見に事務所を構えている暴力団は、広域指定されている本家山菱組傘下の北導會ひとつだけだ。そこの先代親分を殺った当事者は、この俺だったが、あえて望むところだ。組同士の抗争以前に、宿命めいた因縁があるのも北導會だ。来るなら、来い。その為に戻ってきたようなものだ、いつでもその覚悟はできている。
「呼んでくれや」やれるもんなら、やってみろ。
「ホントに呼ぶぞ、コラ」
「早く呼べ」
場の空気を察知したのか、ラーメン屋の店員が、震えながら注文を訊きに来た。「味噌」とだけ言い、カウンターに肘をついて男を睨む。
男は、どこかへ電話をかけていた。妻だろう女は、スマホの裏側をこちらに向けて写真を撮りだす。
「お疲れ様です。すいません、今、ラーメン屋で変な奴に絡まれたんすけど、ええ、話つけてもらえませんか? いや、俺がやっちゃってもいいんすけど、ええ」
はァ?
俺も、たいした嘗められたもんだ。こんなガキなら、二秒で片づくってのに。
「おい、あんた」
男が、にやつきながら電話を差し出してくる。「俺のケツ持ってくれてる人に連絡したからな、でろよ。嘗めんじゃねえぞ、コラ」
舌打ちをして、渡された電話を耳にすると、『おい、コノヤロウ!』とでかい声が飛んできて、耳をキンッとさせた。
『うちの若いもんに何か文句あんのか、コラ! 今から行っからよ、待ってろ』
「早くこいよ。待ってられねえ」
ラーメン屋の客は、素知らぬ顔をしながらも成り行きを気にしてなのか、恐れをなしたのか、静まり返っていた。気持ち、店員の鍋を振る音も止んでいるよう感じた。
それよりも電話口の声、どこかで聞いた声だった。
『おうおう、今からすっ飛んでいくからな! 逃げんじゃねえぞ、コラ』
「おい」
しかも、さっきだ。
『なんだ、コラ!』
俺の中で、完全に一致した。
「お前、いつからヤクザになったんだ?」
『なに? 俺ァ昔から、なまら悪くて有名なんだよ』
「調子に乗るなよ、コノヤロウ」
『…………な、なんだァ?』
「誰に文句たれてるのか分かってんのか、鴇尾」
『……へ? あ、兄貴、千葉さんっすか?』
コロッと豹変した態度に苛立ちが増した。
「今から来るなら、ちょうどいい。ここのお代は、手前ェが払っとけ」
『い、いや、そのう……、へへへ』
こんな時にでも愛想笑いってやつか、こんな奴が奈良組の準構成員だったとは、と情けなくも呆れ果てた。
「みんな迷惑してんだ。今ここに居るお客、全員分な、ごちそうさん」
俺は、スマホを顔の蒼ざめた男に放り投げた。
小さな声で「……もしもし」と返答するや、『恥かかすんじゃねえ! 手前ェがカネ払っとけよ!』と鴇尾の声が、スマホからでも店内に響き渡った。
若い夫婦は、肩を落としてしゅんとした。子供が喚き散らす。
「だとよ」
若い夫婦は、そそくさと万札を出し、逃げるように店を出ていく。やれやれだ。
なぜか、すぐにラーメンが着丼する。「……し、しょうゆ、お待た、せしました」
「はァ?」
次から次と、しちめんどくせえ。
注文とは違ったが、こんなことやってる場合でもない、奢りの昼食なら何味でもいいと、箸を割って麺をすすった。伸びかかった麺に、ぬるいスープだったが、タダ飯で腹も満たされた。
さァて、どう詰めてやろうか。
俺の足りない脳みそでは、どんなに考えても妙案やいいアイデアなど浮かばなかったので、行き当たりばったりで出向くことに決めた。
解決などに結び付く訳もないのに何をやっているのだろう、香川に話を聞いたところでむかっ腹が立っただけなのに、そもそも、解決とはどんな結末なのだろうか、待てよ、こんなことをほじくり返してどうなるってんだ? 真実を知ったところで俺にはどうすることもできない、結果として、朱音という子供は生き返ることなどできないのに。
そんなことを、ぼんやり考えていた。
「ガスの点検です」
チャイムを鳴らし、モニター画面に声をかけた。
中からの物音がしない、留守なのか。駐車している軽自動車を眺めていると、チェーンロックの外れる音がした。
「……はい?」
玄関ドアを、少しだけ開けた隙間から声がした。
覗き込むと、生気のない目は落ちくぼみ、頬のげっそりとした青白い顔の女が突っ立っていた。こいつもレイコのような幽霊ではないか、と思うような有様だった。
赤茶けた髪はボサボサ、ヨレヨレのトレーナー上下に裸足で、なぜか細い首には、赤い首輪が巻かれている。留め具の箇所には、半透明のいびつな加工が施してあった、接着剤かなにかで外せないよう細工されたのだろう。
俺はドアをこじ開け、「邪魔するぜ」と大した抵抗もなかった女を押しのけ侵入する。
「……な、なんなのよ」
ヒステリックな叫び声もあげられないのか、か細く弱々しい声に、疲労か衰弱でもしているかのよう直感した。左まぶたの上が真っ青な痣になっていて、肉や脂肪は削げ落ち、皮膚が劣化し枯れかかっていたが、端正な顔立ちに思えた。
身なりを整え、健康的な生活をしていれば、美しい女の部類に属するはずだろう。大金を手にしたような人物とは程遠く、軟禁され自由を奪われているものと思った。これが、多様化している男女の愛の形だとは、全く思わない。
俺は、舌打ちをした。
「長野紫織だな。話がある、鍵を閉めて中へ入れ」
「誰? ひ、人の家に、人の家じゃない」
「襲ったりしねえし、話を訊きたいだけだ。細かいことはお前も気にしないタイプだろ」
俺は土足の便所サンダルのまま、居間へ向かった。
というのも、家の中は散らかり放題で、ゴミは散乱し、足の踏み場もない状態だったからだ。生臭く、なにかが腐っているかのような、ひどい異臭を放っていた。
近くのパンパンに膨らんだ有料ゴミ袋を蹴散らし、使ってもいないようだった汚れや手垢でギトギトになっているテーブルに腰をかけた。
「お前の娘のことだ」
「……娘? いないわ」
「知ってる。そのいなくなった朱音のことだ」
ふらふらとしていた紫織は、朱音と聞いた途端、力が抜けたかのようにドンと壁に身体を預けよしかかった。
「あなた、なに? 警察?」
「警察だとしたら、マズいことでもあんのか」
「……いいえ」
カマをかけてみる。
「お前の娘が死んだことは、知っている。お前が再婚をして、娘の保険金を受け取ったこともな」
ごくり、と唾を呑む音が聴こえた。
「それが? 当然の権利じゃないのよ」紫織は、平然と気丈に言ってのけた。「最初に結婚した人と添い遂げなきゃならないなんて、誰が決めたの? そんな時代じゃないわ。愛情もなくなって、間違っていたことに気付いただけじゃない。好きな人と一緒に暮らす、自由や人権は尊重されるべきでしょ、わたしにだって!」
「そいつは、ごもっともな意見だ。好いた腫れたで好き勝手やりゃいい。だが、娘の命をカネに替えることも権利なのか」
「……親として、残された親として当然じゃないのよ。毎月、高い保険金支払ってたんだから」
屁理屈にしても、馬鹿げた言い訳だった。
俺は呆れながら、作業着の胸ポケットに入れていたマルボロを咥え、先を焼いた。
「娘の骨はどこにあるんだ」
「……そ、そこに仏壇があるじゃないのよ」
紫織が指差したほうを見れば、薄汚れたテーブルクロスの上に、小さな写真立てが飾ってあり、黒くなり腐った果物が備えてあった。その奥に骨壺のような箱があり、位牌は倒れていた。線香やろうそくなど焚いた形跡はない。
写真の顔は、レイコが連れてきた少女とはかけ離れていた。なぜなら、にこやかな可愛らしい屈託のない笑顔だったからだ。
「あんた何なの? 警察呼ぶわよ」
「呼びたかったら、呼べ」俺は紫煙を肺にため、吐き出しながら煙で喉を愛撫した。「デコ助が来て困るのは、お前のほうだろ」
「…………」
軽いカマに、紫織は黙り込んだ。やましい事か後ろめたい何かがあり、都合が悪いのだろう、そう思った。
「あんなんで娘は喜ぶと思ってんのか」
顎を振って、仏壇のほうを指した。
「……もう、亡くなって、この世にいないのに、喜ぶとか意味分かんないけど」
「あんなもんで娘は成仏できると思ってんのか」できていないから、俺のとこにきてるんだろうがな。
「知らないわ」
話をそらせたいのか、そっぽを向いた紫織の首輪の隙間にも内出血の痕が見えた。
なるほど。こいつは男に全てを支配されている。DVだかってオブラートに包まれた暴力に洗脳、支配されている。
「今の男と暮らして幸せか」
「あ、当たり前じゃない!」
「そうは見えないけどな」
「大きなお世話よ」
夫の長野は、よっぽどの屑だろう。
前科のない犯罪者予備軍、初犯でとてつもない罪を犯す奴は、ウジ虫が如くどこにでも潜み、沸いて出てくる。そういうクソのような奴は、前科があろうがなかろうが、初犯だろうが再犯だろうが、そんなことは全く関係ない。そもそも、人間なんてもんは業や己の快楽に逆らえないから、出家したり、法で蓋をしたりするもんだからな。
「自分の腹痛めて産んだ子供の命をカネにかえて、幸せか」
「…………」
「それで幸せになれたか」
「ゆ、夢にも出てきてくれないわ……」
「だろうな」俺のところにいるからな。
「わ、わたしは、育児ノイローゼになったのよ! 分かる?」
「知らねえよ、そんなもん」
「わたしが、どれだけ大変で、辛い想いをしたか――」
「身勝手にも程がある。自分がかわいいのは分かるが、理由にもならねえぞ。で、そのノイローゼとやらは、子供がいなくなったら治るのか?」
紫織は、口を歪ませ沈黙した。呆れて、モノも言えない。
室内を見渡してみる。このゴミ屋敷ではなにかを見つけようにも、見つかる訳がなかった。玄関のほうに首を伸ばしてみる。
天井についた、小さな開閉のできる天窓があった。
高さは二メートルほど、ガラスは薄汚れていて、窓枠は掃除も行き届いている訳がなく、蜘蛛の巣が張り、埃まみれだった。
よく目を凝らすと、ガラス面にうっすらと手形があり、取っ手部分には不自然に埃がなかった。まるで、内側から強引にこじ開けたかのようだった。
ほう。
真冬に、あの天窓を開けたらどうなるだろうか。
柔らかく屋根に積もった雪が室内に落ちてくる、いいや違う。室内で暖められた屋根の積雪は溶けて凍りつき、とてつもない氷塊になるはずだ。もしも、落雪による死亡事故を意図的に発生させたとしたら。ちょうど、天窓からの落雪は、少女が埋もれていたであろう場所のはずだ。外で遊ばせ、落雪を装って、しばらくの間放置してから、救急車を呼ぶ。氷による打撲、大量の落雪、窒息死。
いいや、そんなことは、どうでもいい。俺は刑事でもないし、保険屋の支払い審査員でもない。問いただしたいことは、そういうことじゃない。
「お前も旦那に殴られてるのか」
「……も、ってなによ?」
憤っていた紫織は、眉をひそめ訝しんだ。
「あァ、お前の娘にも殴られたような痣があったからな」
「な、なんで知ってるのよ」
思わず、口が滑ってしまった。
「俺は、女子供に手あげる奴が許せなくてな」
「…………」
紫織はうつむき、手をぎゅっと握った。
「家族ってのは、特別なもんじゃねえのか」
自分で放った言葉に、なぜか俺がダブって思えた。
親のため、組のために、身体を張った代償は、空っぽの十五年。人殺しという十字架を背負わされた俺の人生。後悔はしていないが、やりきれない虚しさしかない。見放されたとは思っていないが、その代償は、想像以上に辛く苦しかった。
今になって思えば、相手もヤクザ、抗争相手とはいえ、家族があったことだろう。元々は同じ組織に属していた、ヤクザだろうと人間だ。
俺はかぶりを振り、煙草の灰を落として、ベランダが見渡せる大きな出窓から外を見た。窓ガラスが溶けているかのようぼやけ、雨が大量に垂れていた。
「犬を飼ってるのか」
庭に繋がれた小型犬は、そんな雨に濡れながらも未だにキャンキャンと吠えまくっている。それはまるで、紫織の分身のようで、何かに助けを乞うかのように思えた。なぜか、上の部屋から聴こえてくる床を叩きつける音のことが過った。
紫織は黙り込んだまま、うつむいていた。
「なぜ犬は人間のいうことをきかないか、知ってるか」
「……ひ、人の言葉なんか、分からないじゃない」
「違うな」
「……お利口な犬だっているでしょ」ぼそぼそと呟いた。
「そうだ」
「……え?」
「犬のほうが、よっぽど賢いんだ、そいつの気持ちに寄り添ってやる、可愛がってくれる飼い主のいうことしかきかねえんだよ。恐怖なんかでは支配できない、他人はコントロールできないんだよ。自分のことしか考えていない、バカの言うことなんか聞かねえんだ」
俺の生き方も、そこら辺の犬っころと大した変わらない。
野良みたいだった犬の俺に課せられた使命は、縄張り内で争っていた親犬の喉元を食いちぎり殺すこと。そんな野良犬の行く末など、道端で野垂れ死のうが、誰も見向きはしない。親でさえも、世間でさえも。初めから鉄砲玉として捨てられたのだから。そんな世界で生きてきたのだから。
「ふん、犬の気持ちも分からねえバカに言っても仕方ないがな。あの犬は、あんなところで死ぬために、お前に飼われた訳じゃない」
「……な、なによ」
「ペットを飼う資格も、親になる資格もねえって言ってんだよ。命を背負っていく責任も覚悟も持てねえんだろうからな」
「だ、だから、なによ」
と、強がりながらも紫織は、ぐずぐずと鼻をすすりだした。
「いいか、考えろ。お前自身に置き換えて、足りねえ頭振り絞ってよく考えてみろ。今の旦那に愛だ恋だ、惚れた腫れたで突っ走って依存するのは勝手だ、好きにしろ。けどよ、我慢する為、首輪までつけられて奴隷になる為に生まれてきた訳じゃないだろ。母性と女という本能、ふたつの感情を一緒くたにして比べたり、はき違えて誤った行動してんじゃねえよ」
「……や、やめてよ」
涙声になり、うつむいたまま顔を抑えていた。
「お前の娘にしてもそうだ。幸せや自由は人それぞれだ、人間は遅かれ早かれ最後に誰でも死んじまうが、人生を楽しむのは生まれ持った権利だ。こんな短い生涯で、ましてや、殺されるために生まれてきたとしたら――」
「やめてええええ!」
「母親にまで裏切られたガキの気持ちが分かるか」
へたりこんだ紫織は、声をあげ泣き出した。
大きく舌打ちをした、めんどくせえ。俺はテーブルで煙草をもみ消し、転がっていた空き缶の中に吸い殻を捨てた。
「この日本で、最も多い殺しは何だか知ってるか」
紫織はもう、返答してこなかった。それでも、俺は続ける。
「年間三万人ほどが自分を殺す、日本全体の病、つまり自殺だと思われがちだがな。実際、十万人ほどが殺されている『子殺し』が一番多いんだ」俺は、紫織を睨みつけた。「人工中絶、堕胎だよ」
「…………」
「大人の勝手な都合で、未来を閉ざされ、生まれることもできない命がそんなにあるんだ」
少子化問題だか待機児童だかが、聞いて呆れる。刑務所でたまたま目にした新聞の記事を思い出していた。
「けどよ、そんな時代だろうが、お前は朱音を、命がけでこの世に産んでやったんじゃねえのか。腹を痛めて産みおとしてあげたのにも関わらず、手前ェの勝手な都合で命を始末してんじゃねえ。その命は、親のもんでも何でもねえ、朱音のもんだろ。次に繋ぐための尊くかけがえのない命なんだよ」
どんな理由があろうとも、どんな理屈があろうとも、自然に抗うものは本物じゃない。
「お前が産んだ時に、ガキは泣いてなかったのか」
紫織は何も言わなかった。俺もしばらく、なにも言わなかった。
まァ、こんなところか。
重い腰をあげ、俺は泣き崩れている紫織を見下ろした。
「どんな命でも、どんな赤ん坊でも、泣きながら生まれてくんだろ、いつまでも泣かせっぱなしにしてんじゃねえよ。最後くらい笑わせてやれ、あっちに逝ったんなら、もう逢えないのなら余計、甘やかすこともできねえなら尚更、笑っていられるようにしてやるのが、せめてもの親の務めだろ、バカヤロウ」
散らかったビニール袋に詰められたゴミを踏んづけ、玄関へ向かった。
「女はな、愛嬌が大事なんだ。たいした笑えもしねえ、こんなご時世だ、誰かが笑わせてやらなきゃいけねえだろ」
もう一言だけ、言ってやりたかった。
「お前がやることは見ぬふりをして諦め、自分を正当化して開き直ることじゃないだろ。過去には引き返せないし、なくしてしまったもの、やっちまったことはどうしようもない。誰にだってひとつやふたつ、大小はあるが、間違ったことや過ちを犯すことはある。ただ、ケジメをとって、落とし前をつけることはできるはずだ。いいや、しなけりゃダメだろ」
そのどれもが、自分に向けて言っているような気がしてきた。
「……わ、わたしは、どうすれば?」
頬を涙で濡らし、嗚咽を漏らしながら紫織は俺の目を見た。
「死ぬ気で考えろ、それでも死なねえからよ、バカヤロウ」
フザけんな!
どうにも胸クソ悪い後味に、俺は、ドアを思い切り蹴とばしてやった。
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